スイングジャズがビッグバンドによるダンスミュージックだったっていうのは前章で書いたけども、大編成での演奏を統制していくためにはアレンジやバンドリーダーによる強固な統率が必要不可欠だったのね。
で、本当の実力と創造性を持ったミュージシャンたちにしてみると、書き譜に従って編曲の通りに演奏するスイングジャズでは自己主張できるのは短いソロパートに限られていて、物足りなくなってきたわけです。ぶっちゃけた話し、みんなもっと目立ちたかったのさ(笑)。
スイングが徐々に主流から外れていった40年代初頭、戦時中という社会情勢による精神的な抑圧と、ビッグバンドでの「お仕事」では発散できない音楽への情熱が相乗効果的に作用して、ミュージシャンが思い思いに集まってぶっつけで演奏する、言ってみれば「技比べ」的なジャムセッションが盛んになっていったのね。
仕事での演奏活動が終わってから各々ブラブラと集まってきて、深夜から明け方まで・・・・・アドリブ飛び入りなんでもあり。
これはもう趣味だよね、趣味(笑)。
そんなこんなを繰り返しているうちに、若手ミュージシャンたちがジャムセッションで実験的に試みていた新しい奏法が注目を集め始める。
当時ジャムセッションが盛んだったニューヨークのハーレムと呼ばれる一帯。その中の一軒のジャズクラブ、ミントンズ・プレイハウスに集う若者達のあいだから、そのムーブメントは起こってきた。
この新しい奏法の音楽的な特徴として「コード進行に複雑な経過和音を取り入れ、その構成音からアドリブフレーズを組み立てていくこと」や「4ビートのリズムをシンバルでレガート(途切れず滑らかに)に刻み、バスやスネアのアクセントをオフビート中心に用いる」などが挙げられるかな。
振り幅の大きいエキサイティングなフレージングが、途切れる事の無い煽動的な躍動感を持ったビートによって演奏される・・・・・ジャズ史上に類を見ない大革命となったビ・バップの誕生ね。
もう少し突っ込んでビ・バップがジャズにもたらした音楽的な変化を説明すると、コード進行が煩雑になると同時に、コードそのものの構成、ボイシングも極めて複雑なものが試みられるようになり、結果的にその構成音から成るメロディも複雑化していく。
ドラムス等のリズムセクションに関してもテンポやリズムキープにおいて様々なパターンが試みられ、さらには多種多様なフィルイン(楽節ごとの区切りのスペースに入れる『オカズ』のフレーズですね)などの試行錯誤によって、バンド全体で高度なインタープレイが行なわれるようになっていった。
また、スイングジャズがビッグバンド中心に成立して、ジャズとは別個の白人の音楽として認識されていた節があると言うのは前章で述べたけど、それに対してビ・バップは黒人ジャズの復権や白人ジャズへの対抗意識、黒人の音楽的創造性の誇示といったエモーションも多分に含んでいたようね。
それに加えて、41年末、日本軍のパールハーバー奇襲による開戦から45年まで続く太平洋戦争の真っ只中という事もあり、不穏な社会情勢に対する不安の憂さを晴らすような、熱い激情の迸りを内包していた。
一般的にビ・バップの完成が40年代なかばに成されたとされている事からも、音楽は世情を写す鏡なんですなぁ。
この当時のミントンズ・プレイハウスには、その後のジャズ界を牽引していく巨匠たちがゴロゴロたむろして、夢のような共演を連夜繰り広げていたのね。ビバップ誕生の立役者たちの顔ぶれを追って見ましょう。
新しい奏法のアイディアを生み出していちはやく試みていたのがCharlie Christian(チャーリー・クリスチャン、g)。この人によってギターはれっきとしたソロ楽器と認められたと言ってもいいでしょう。
バップのリズム面の改革に大きな影響を及ぼしたのが、ドラマーのKenny Clarke(ケニー・クラーク)。現在にいたるまでのジャズの基本リズムを生み出したと言えるでしょう。
一般的に「ビ・バップを創った人」として認知されているのがCharlie Parker(チャーリー・パーカー、as,ts)とDizzy Gillespie(ディジー・ガレスピー、rp)。
Parkerの天才的な創造性と演奏の技術によって、生みの苦しみ(アイディアはあっても、実際に演奏に還元する事ができなかった)の最中にあったバップのアイディアは次々と具現化され「現実の音」となっていった。
GillespieはParkerと対で語られる事が多いですが、そのユーモラスな性格や立ち振る舞いで、ビ・バップを一般に広める役割を担ったらしい。
Thelonious Monk(セロニアス・モンク、p)。ミントンズ・プレイハウスのレギュラーピアニストだったこの人もバップ完成に大きな影響を及ぼしたんだけど、彼自身のフレージングやタイミングはバップとは一線を隔したものであったため独自の路線を歩み、ピアノにおけるバップは彼の弟分とも言えるBud Powell(バド・パウエル)によって40年代半ばに結実する事になる。
Miles Davis(マイルス・デイヴィス、tp)。ビ・バップ以降のジャズの発展はすべてこの人から生み出されたと言ってもいい天才児も、この時期のミントンズの常連だった。
挙げていけばキリがないんだけど、この時期のミントンズ・プレイハウスでジャムっていた人達がいなかったら、ジャズの歴史なんてのはもう50年代で終わってたんだよね。もっと言っちゃうと「Milesがいなければ」でもいいかな。
その意味で、ビ・バップの誕生と言うのはジャズの歴史を振り返っても空前絶後の大事件だったんだね。
5年間かそこらの急激な奏法の改革のもとにもたらされたビ・バップだけど、課題がないわけではなかったのね。ってよか、激情と熱意のもとに急速に創られた音楽が完成度が高いわけないやね。
ジャムセッションの中から生み出されてきたという事実を見れば分かるように、ビ・バップはアドリブソロ主体の、言ってみれば「ぶっつけ本番」の音楽だったのね。高度で複雑なインプロヴィゼーションが発達するのとは裏腹に、各ソロ同士の関連性やつながりが希薄になり、楽曲としての統一感が取れないという問題が出てきたんですな。
ちょっと解りづらいかな・・・・・ええと、ビ・バップのバンドとしての平均的な演奏形式は、まず全員でその曲の主旋律を主体としたテーマを1コーラス演って、そのあとそれぞれのメンバーが1コーラス(じゃない場合もあるけど)アドリブソロを取る。それで全員のソロ回しが終わったらまたテーマを演ってエンディングと、まぁこんな感じなわけです。
でね、例えば恋愛の素晴らしさを表現した曲があるとするでしょ。それを演奏する時、もとの譜面にしたがって忠実にテーマを演奏したあと、メンバーそれぞれがまったく別の曲と言っても良いメロディをアドリブで演るわけだ。
それぞれがてんでバラバラにね。同じなのはコード進行だけ。
まるで駅伝でバトンが渡されるように「はい俺は終わり。次どうぞ」と回されていく・・・・・曲自体が謳っている恋愛の素晴らしさはどこへ行ったやら・・・・・これじゃぁひとつの楽曲としての統一感がまるでなくなるのは無理もないし、複数の奏者が集まってバンドで演奏する意味もあんまりないよね。
つまり、その場の熱気や閃き、激情の趣くままに演奏を展開する事で、表現の深度と言うか、モチーフに対する解釈が見えにくくなってしまったのね。
ビ・バップは確かに一大革命だったけど、インプロヴィゼーションを前面に押し出す事によって楽曲としての統一感を失う結果に繋がってしまったのさ。この「楽曲としての統一感」(演奏者各々の認識も、演奏の内容も)を追求すると言うのがこの先のジャズの歴史の大きなテーマとなっていく事になる。
ビ・バップばかりがクローズアップされがちな40年代ですが、メインストリームとはならずとも、独自の往き方をしめしたムーブメントは、少数ですが他にもいくつかあったのね。
次章では40年代におけるビ・バップの発展とともに、ビ・バップ以外のジャズ界の動向を探ってみる事にします。
はい、いかがでしたでしょうか。
こうやって見ていくとビ・バップの誕生って、ジャズで1番大きな事件だったんだね。
次回はクールジャズについて触れる事になります。
ではでは。
で、本当の実力と創造性を持ったミュージシャンたちにしてみると、書き譜に従って編曲の通りに演奏するスイングジャズでは自己主張できるのは短いソロパートに限られていて、物足りなくなってきたわけです。ぶっちゃけた話し、みんなもっと目立ちたかったのさ(笑)。
スイングが徐々に主流から外れていった40年代初頭、戦時中という社会情勢による精神的な抑圧と、ビッグバンドでの「お仕事」では発散できない音楽への情熱が相乗効果的に作用して、ミュージシャンが思い思いに集まってぶっつけで演奏する、言ってみれば「技比べ」的なジャムセッションが盛んになっていったのね。
仕事での演奏活動が終わってから各々ブラブラと集まってきて、深夜から明け方まで・・・・・アドリブ飛び入りなんでもあり。
これはもう趣味だよね、趣味(笑)。
そんなこんなを繰り返しているうちに、若手ミュージシャンたちがジャムセッションで実験的に試みていた新しい奏法が注目を集め始める。
当時ジャムセッションが盛んだったニューヨークのハーレムと呼ばれる一帯。その中の一軒のジャズクラブ、ミントンズ・プレイハウスに集う若者達のあいだから、そのムーブメントは起こってきた。
この新しい奏法の音楽的な特徴として「コード進行に複雑な経過和音を取り入れ、その構成音からアドリブフレーズを組み立てていくこと」や「4ビートのリズムをシンバルでレガート(途切れず滑らかに)に刻み、バスやスネアのアクセントをオフビート中心に用いる」などが挙げられるかな。
振り幅の大きいエキサイティングなフレージングが、途切れる事の無い煽動的な躍動感を持ったビートによって演奏される・・・・・ジャズ史上に類を見ない大革命となったビ・バップの誕生ね。
もう少し突っ込んでビ・バップがジャズにもたらした音楽的な変化を説明すると、コード進行が煩雑になると同時に、コードそのものの構成、ボイシングも極めて複雑なものが試みられるようになり、結果的にその構成音から成るメロディも複雑化していく。
ドラムス等のリズムセクションに関してもテンポやリズムキープにおいて様々なパターンが試みられ、さらには多種多様なフィルイン(楽節ごとの区切りのスペースに入れる『オカズ』のフレーズですね)などの試行錯誤によって、バンド全体で高度なインタープレイが行なわれるようになっていった。
また、スイングジャズがビッグバンド中心に成立して、ジャズとは別個の白人の音楽として認識されていた節があると言うのは前章で述べたけど、それに対してビ・バップは黒人ジャズの復権や白人ジャズへの対抗意識、黒人の音楽的創造性の誇示といったエモーションも多分に含んでいたようね。
それに加えて、41年末、日本軍のパールハーバー奇襲による開戦から45年まで続く太平洋戦争の真っ只中という事もあり、不穏な社会情勢に対する不安の憂さを晴らすような、熱い激情の迸りを内包していた。
一般的にビ・バップの完成が40年代なかばに成されたとされている事からも、音楽は世情を写す鏡なんですなぁ。
この当時のミントンズ・プレイハウスには、その後のジャズ界を牽引していく巨匠たちがゴロゴロたむろして、夢のような共演を連夜繰り広げていたのね。ビバップ誕生の立役者たちの顔ぶれを追って見ましょう。
新しい奏法のアイディアを生み出していちはやく試みていたのがCharlie Christian(チャーリー・クリスチャン、g)。この人によってギターはれっきとしたソロ楽器と認められたと言ってもいいでしょう。
バップのリズム面の改革に大きな影響を及ぼしたのが、ドラマーのKenny Clarke(ケニー・クラーク)。現在にいたるまでのジャズの基本リズムを生み出したと言えるでしょう。
一般的に「ビ・バップを創った人」として認知されているのがCharlie Parker(チャーリー・パーカー、as,ts)とDizzy Gillespie(ディジー・ガレスピー、rp)。
Parkerの天才的な創造性と演奏の技術によって、生みの苦しみ(アイディアはあっても、実際に演奏に還元する事ができなかった)の最中にあったバップのアイディアは次々と具現化され「現実の音」となっていった。
GillespieはParkerと対で語られる事が多いですが、そのユーモラスな性格や立ち振る舞いで、ビ・バップを一般に広める役割を担ったらしい。
Thelonious Monk(セロニアス・モンク、p)。ミントンズ・プレイハウスのレギュラーピアニストだったこの人もバップ完成に大きな影響を及ぼしたんだけど、彼自身のフレージングやタイミングはバップとは一線を隔したものであったため独自の路線を歩み、ピアノにおけるバップは彼の弟分とも言えるBud Powell(バド・パウエル)によって40年代半ばに結実する事になる。
Miles Davis(マイルス・デイヴィス、tp)。ビ・バップ以降のジャズの発展はすべてこの人から生み出されたと言ってもいい天才児も、この時期のミントンズの常連だった。
挙げていけばキリがないんだけど、この時期のミントンズ・プレイハウスでジャムっていた人達がいなかったら、ジャズの歴史なんてのはもう50年代で終わってたんだよね。もっと言っちゃうと「Milesがいなければ」でもいいかな。
その意味で、ビ・バップの誕生と言うのはジャズの歴史を振り返っても空前絶後の大事件だったんだね。
5年間かそこらの急激な奏法の改革のもとにもたらされたビ・バップだけど、課題がないわけではなかったのね。ってよか、激情と熱意のもとに急速に創られた音楽が完成度が高いわけないやね。
ジャムセッションの中から生み出されてきたという事実を見れば分かるように、ビ・バップはアドリブソロ主体の、言ってみれば「ぶっつけ本番」の音楽だったのね。高度で複雑なインプロヴィゼーションが発達するのとは裏腹に、各ソロ同士の関連性やつながりが希薄になり、楽曲としての統一感が取れないという問題が出てきたんですな。
ちょっと解りづらいかな・・・・・ええと、ビ・バップのバンドとしての平均的な演奏形式は、まず全員でその曲の主旋律を主体としたテーマを1コーラス演って、そのあとそれぞれのメンバーが1コーラス(じゃない場合もあるけど)アドリブソロを取る。それで全員のソロ回しが終わったらまたテーマを演ってエンディングと、まぁこんな感じなわけです。
でね、例えば恋愛の素晴らしさを表現した曲があるとするでしょ。それを演奏する時、もとの譜面にしたがって忠実にテーマを演奏したあと、メンバーそれぞれがまったく別の曲と言っても良いメロディをアドリブで演るわけだ。
それぞれがてんでバラバラにね。同じなのはコード進行だけ。
まるで駅伝でバトンが渡されるように「はい俺は終わり。次どうぞ」と回されていく・・・・・曲自体が謳っている恋愛の素晴らしさはどこへ行ったやら・・・・・これじゃぁひとつの楽曲としての統一感がまるでなくなるのは無理もないし、複数の奏者が集まってバンドで演奏する意味もあんまりないよね。
つまり、その場の熱気や閃き、激情の趣くままに演奏を展開する事で、表現の深度と言うか、モチーフに対する解釈が見えにくくなってしまったのね。
ビ・バップは確かに一大革命だったけど、インプロヴィゼーションを前面に押し出す事によって楽曲としての統一感を失う結果に繋がってしまったのさ。この「楽曲としての統一感」(演奏者各々の認識も、演奏の内容も)を追求すると言うのがこの先のジャズの歴史の大きなテーマとなっていく事になる。
ビ・バップばかりがクローズアップされがちな40年代ですが、メインストリームとはならずとも、独自の往き方をしめしたムーブメントは、少数ですが他にもいくつかあったのね。
次章では40年代におけるビ・バップの発展とともに、ビ・バップ以外のジャズ界の動向を探ってみる事にします。
はい、いかがでしたでしょうか。
こうやって見ていくとビ・バップの誕生って、ジャズで1番大きな事件だったんだね。
次回はクールジャズについて触れる事になります。
ではでは。
「JAZZの歴史」興味深く読ませていただきました。
今後ともよろしくお願い致します。
こんにちは。
コメントありがとうございます。
そちらにも伺いますね。
よろしくお願いします。