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ジャズの歴史③”30年代のスイングジャズ”

2005-05-11 23:38:29 | ジャズの歴史
はい、ジャズの歴史第三章。
今回はスイングジャズのお話ね。

20年代が明けるとともに最盛期を迎えたアーリージャズの時代。その時代が終焉を迎えて、次にジャズの歴史が大きく動くきっかけとなる出来事が20年代が終わるのとほぼ同時に起こる。
それは29年10月24日、ニューヨーク、ウォール街の株式市場の大暴落、世に言う「暗黒の木曜日」に端を発した世界大恐慌。
でまぁ、なんで株が暴落したのかとか、どうして大恐慌になったかとかは経済学の本とかでも読んでもらう事にして、ジャズです。
大恐慌のせいで世の中みんな音楽なんぞ聴いてる余裕が無くなって、まぁミュージシャンたちはジャズの演奏じゃ食えなくなっちゃったのね。サッチモクラスの超メジャーなアーティストでもヨーロッパに巡演して仕事を見つけるような有り様だったわけ。
ジャズじゃ食えなくなったから、アメリカ国内ではみんな何をしてたかっていうと、不況でもどうにかこうにか需要のあったスイートミュージックのお仕事に精を出してたんですな。その日暮しでなんとか凌いでたと・・・・・・。
この時期に、上記のように複数の有力な奏者たちが食うために渡欧して巡演を重ねる事によって、ジャズの解説書が当地で著されたり、演奏自体もドンドン模倣されて、後々ヨーロッパでジャズが育ってくる種が撒かれる事になる。
大恐慌のおかげでジャズは海を渡って広まる事になったんだねぇ。

本国アメリカでは30年代後半にルーズベルト大統領のニューディール政策が一時的なカンフル剤の役目を果たして、浮き沈みしながらも次第に景気が回復してくる。それにつれてアメリカ国民の音楽の嗜好もそれまでの古風なニューオリンズスタイルやアーリージャズから離れていって、ダンサフルで刺激的なジャズを求めるようになってく。
これがスイングジャズの誕生。これをきっかけに再びジャズは隆盛を迎える。
そのムーブメントの中心になった都市はニューヨーク。米国最大の都市であるニューヨークには、多くのダンスホールやレコード会社、レコーディングスタジオやコンサートホールなどがあって必然的に各地のミュージシャンたちが集結する事になり、多数の優秀なビッグバンドが進出、結成されて当時の音楽シーンを担っていく事になるわけさ。
スイングという名称は黒人によるジャズのメインストリームから出たのではなくて、白人のバンドリーダーであるBenny Goodman(ベニー・グッドマン、cl)のバンドがロサンゼルスの公演で大好評を得た時から、彼の楽団を中心とした白人のビッグバンドの音楽に対してつけられた呼称なんだって。当時は黒人のジャズとはまったく別の白人による新しい音楽と捉えられていたみたい。
だけどGoodmanのバンド自体が、ビッグバンドの草分け的な存在であるFletcher Henderson(フレッチャー・ヘンダ-ソン、黒人です)の楽団の楽曲や編曲手法を大幅に取り入れてスタイルを築いていた事実からしても、スイングがジャズの延長線上に派生してきたジャンルである事は間違いないと思う。
ともあれ、こうしてダンスミュージックとしてのスイングジャズは最盛期を迎えたのね。
ビッグバンドによるゴージャスなサウンドをバックに贅沢にダンスを楽しむという娯楽は一世を風靡して、数々の楽団が脚光を浴びる。
この時期に活躍したビッグバンドのリーダーを白黒問わずに列挙してみると、サッチモとFletcher Hendersonを別格としてDuke Ellington(デューク・エリントン、p)、Benny Goodman(ベニ-・グッドマン、cl)、Glen Miller(グレン、ミラー、tb)、Lionel Hampton(ライオネル・ハンプトン、vib)、Benny Carter(ベニ-・カーター、as)、Count Basie(カウント・ベイシー、p)・・・・・挙げていくとまだまだきりがないんだけど(笑)、多数の楽団が百花繚乱の態で咲き乱れる。
ビッグバンドという演奏形態の隆盛はバンドの花形としてボーカリストを多数輩出して、ジャズボーカルというジャンルも次第に確立されてくる事になる。
またそれぞれのバンドが、演奏の見せ所であるソロパートの充実を図っていく過程で各楽器の優れたソロイストを生み出して、その結果ソロイスト同士のセッションによるスモールコンボでのレコーディングも数多く行なわれる事になったのね。
スイング時代は、以降のスタイルや奏法につながっていく様々な可能性が開けてきた時代なんですな。

この時期、ダンスミュージックとしてスイングジャズは多くの大衆に受け入れられて、非常にポピュラーな大衆音楽の地位を獲得してくるんだけど、いつの時代にも人のやってる事に背を向けるマニアックな奴等はいるもので、大衆化されたスイングに背を向けてニューオリンズジャズを復権しようという動きも一部であったらしい。
もはや引退していたジャズ創成期の古老たちを探し出してのコンサートやレコーディングが盛んに行なわれて、ちょっとしたリバイバルブームのような現象になったんだけど、結局この路線を継続して受け継いでいくような流れは起こらなかった。
40年代に入るとこの勢力は徐々に下火になって、アーリージャズ時代のアーティストでその後もジャズのトップシーンで活躍していったのはサッチモだけだったみたいね。

同時期のヨーロッパに目を向けてみましょう。
前述のようにアメリカのビッグネームが巡演した事で、少しづつジャズが演奏されるようになってきてはいたんだけど、ほとんどのアーティストが独創性や創造性といった点でアメリカのミュージシャンに一歩を譲っていたというのが実情で、まだ模倣の域を脱していなかったみたい。
その中で1人で気を吐いていたのがジプシーの血を引く孤高のギタリストDjango Reinhardt(ジャンゴ・ラインハルト)。
渡欧して彼と共演したアメリカの奏者たちが、こぞって彼の才能や音楽性を高く評価して、46年にはDuke Ellingtonに招聘されてアメリカの土を踏む。
ヨーロッパジャズの先駆者として本場のジャズシーンにも多大な影響を与えていったのね。

わずか10年足らずの間に多数の逸材を輩出して、世界的な規模にまでジャズという音楽の認知を広げていったスイング時代だけど、40年代の到来とともに次第に落日を迎える事になる。
原因として、41年のアメリカの太平洋戦争参戦によってガソリンの配給制度などで交通機関に制約がかかり、なおかつ徴兵により若手ミュージシャンが退団を余儀なくされた事によってビッグバンドの維持と巡演が難しくなった事。さらに戦時中の特別税制としてダンスに税金がかかって(って、なんじゃそりゃ)ダンスホールやボールルームなどの経営が悪化し、次々と閉鎖に追い込まれていった事などが挙げられる。
そこに著作権がらみの対立によりミュージシャンによる吹込みの拒否「第一次レコーディングストライキ」という大事件が重なり、「もうビッグバンドなんかやってられるかー!!」となっちゃったわけ。
ダンスミュージックとしてではなく、コンサートなどの鑑賞用の音楽として利潤が得られるような有力な楽団は以降の時代にも潰える事なく存続していくんだけど、ジャズは再びクラブやバーなどでの小編成による演奏が主流になっていく。

 戦時下の不安定な社会情勢の中で様々な気運を孕みつつ、ミュージシャンたちの次代のジャズへの渇望は、徐々にその胎動を大きくしていったのでありました。

いかがでしたでしょうか。
最近ブログに書くネタが切れてきて、非常に苦しんでおります。
苦肉の策として以前に書いた文章を引っ張ってくるという事をやってるんだけど、この続きも出し惜しみせずにババーっと載せちゃうかな・・・・・そうすっとまたネタがねぇ(笑)
そのうち考えます。
まぁいいや、とりあえず次からモダンジャズだね。

2 コメント

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疑問 (saku)
2005-05-12 13:18:15
こんにちはー



こういう時代背景とかは、どこで覚えてくるんですか?

いつか、うんちくみたいなんを語れるようになりたいとか思ったりはするんですけど。



あとはこの演奏家はこういう演奏をするとか。

やっぱ聴き込む事が重要なんですかね??

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>sakuさん (TARO)
2005-05-12 18:43:12
ええと、ちょっとsakuさんのこのコメントで、書きたいテーマと言うか、音楽愛聴に関する激情が込み上げて来たので(笑)、sakuさんのコメントへのレスは、次の投稿に独立した記事として書きました。

ご覧になっていただければと思います。



ではでは。
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