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ジャズの歴史⑤”40年代のクールジャズ”

2005-05-18 18:45:08 | ジャズの歴史
怒涛の勢いで普及浸透していったビ・バップだけど、これだけ一世を風靡していると例によって「やっぱ人と違う事がやりたい」という人たちがポツリポツリと現れてくる。

40年代後期において、ホットでヴァイタルな、言ってみれば自己主張の音楽だったビ・バップの熱気に対して「あんなムキになってるのはダサい。もっとクールに行こうぜ」といった動きが、より進歩的な白人ミュージシャンを中心に発生してくるのね。
具体的には、ビ・バップのグループ表現としての音楽的な不統一感を払拭する為にアレンジが取り入れられたり、それまでてんでバラバラに行われていた各自のアドリブソロにしても、各自が具体的な方向性を持って構成していこうといった申し合わせが行なわれ、さらにはサウンドの厚みを出すために楽器の編成を工夫したりといった事が試みられるようになる。
感性でモリモリと吹きまくるビ・バップに対して、知性的に音楽的な統一感を求めていこうとした動き・・・・・この「クール・ジャズ」もしくは「クール派」と呼ばれる音楽の先鞭をつけたのが、ジャズ史上でも屈指のビッグバンドリーダーであるWoody Herman(ウディ・ハーマン、cl,as,vo)とMilesだった(Milesは黒人ですが医者の息子であり、経済的にも恵まれて音楽的な教養を身につけて育ってきている、当時の黒人社会の中でも希少な例)。
Hermanのビッグバンドは、流麗で涼しげなフレージング、知的で抑制の効いたサウンドを生み出していく。この47年に結成された、いわゆる「セカンドハード時代」(1度バンド潰して、これが2度目)にあたるHerman楽団の中核を担ったのがStan Getz(スタン・ゲッツ、ts)、Herbie Steward(ハービー・スチュワード、ts)、Al Cohn(アル・コーン、ts)、らを始めとした「フォー・ブラザーズ・サウンド」と呼ばれる黄金のサックスセクションだったのね。
このあと楽団から独立した彼らは、50年代の頭まで続くクール派を、ある意味牽引していく事になる。

そしてHermanのセカンド・ハード結成に遅れる事1年、Miles率いるノネット(九重奏団。トランペット、トロンボーン、アルト&バリトンサックス、フレンチホルン、チューバ、ピアノ、ベース、ドラムスの編成)による歴史的なライブが、ビ・バップの温床でもあったニューヨークのライブハウス、ロイヤル・ルーストで行なわれる。
これはMilesとJerry Mulligan(ジェリー・マリガン、bs)、Gil Evans(ギル・エヴァンス、p,arr)の3人のスモールオーケストラの構想に端を発し、Lee Konitz(リー・コニッツ、as)やMax Roach(マックス・ローチ、ds)などが参加、また、作編曲にJohn Lewis(ジョン・ルイス、p)が協力したりと、の錚々たる顔ぶれによってそれまでのバップとは一線を画する、その後のジャズの方向性を示唆するかのような音楽が演奏されたのね。
Miles本人の言葉を借りると「静かなところでガールフレンドとすごすような音楽がやりたかった。ビ・バップじゃ女は口説けないだろ」だそうな(笑)。
このノネットは当時の聴衆には受けが悪く、数週間で出演を打ち切られてしまうんだけど、49年から50年にかけて同グループでのレコーディングが行なわれて、ある意味クール・ジャズの夜明けを告げたとも言える名盤「Birth Of The Cool」(クールの誕生)に繋がっていく事になる。。
クール・ジャズは、それまでのバップの強烈なフレージングとリズムを抑制する事、そしてビッグバンドの手法である編曲を取り入れる事で現出したけれど、Herman楽団のフォー・ブラザーズ・サウンドにせよMilesのノネットにせよ、Lester Young(レスター・ヤングts)からの影響が多分にあったようね。
Lester Youngは30年代からFletcher Henderson(フレッチャー・ヘンダーソン)やCount Basie(カウント・ベイシー)の楽団で活躍して、バップ以前から繊細で流麗な演奏をいち早く行なっていたテナー奏者で、クール・ジャズの原点はこの人にあるといってもいいでしょう。

バップからクールへと時流が傾く中で、飛び切り特殊な位置にいた存在としてLennie Tristano(レニー・トリスターノ、p)が挙げられる。Lennie Tristanoは46年にシカゴからニューヨークへと進出してきた盲目のピアニストで、自身の活動はもとより数々の弟子を育ててTristano一派、Tristano学派とも呼ばれる、当時のジャズ界の席巻していたバップ派(クール・ジャズも基本的にはバップ・イディオムの応用と発展によるもので、その意味ではバップ派と言える)とは一線を隔した独自の派閥を形成。高度な音楽理論に裏打ちされた独自の音楽は、無調、半音階といった現代音楽の手法を取り入れて、70年代に最盛期を迎えるフリー・ジャズの理念にも通じる独自の往き方を示した。
Tristanoをクール派とする事には異論もあるかも知れないけれど、当時のジャズ界で知的で透明感のあるサウンドを追求していたという意味では、広義でのクール・ジャズと捉えていいと僕は思う。
このTristano学派の代表的な演奏者としては、Milesのノネットに参加したLee KonitzやWarne Marsh(ウォーン・マーシュ、ts)ら、そして直接の門下ではないけれど、色濃く影響を受けたクール派としてGeorge Shearing(ジョージ・シアリング、p)などがいる。
彼らは後にバップ派と自然に同化していくまで、ジャズ界の動静に背を向けた孤高の活動を続けていく。

40年代後半からバップに対するアンチテーゼとして台頭してきたこれらクールの動きは、バップのようにそれぞれのミュージシャンの繋がりによる一連のムーブメントとしてあったわけではなく、演奏者個々のアイディアや実験的な試みが同時並行的に多発する形で起こってきたもので、スイングやビ・バップなどのようにジャズ史の中でひとつのカテゴリー、ひとつの演奏法として確立するまでに至る事はできなかったようね。
また、スイング時代に多発したビッグバンドも一流楽団を除いて徐々に主流から外れていき、ゆっくりとではあるけれど衰退の路を辿りつつあった。

その他の40年代の特筆するべき事象として、Jazz At The Philharmonic(略してJATP)が挙げられるかな。
JATPはNorman Granz(ノーマン・グランツ、後に名門レーベルVerveを設立する敏腕プロデューサー)によって44年に発足した、オールスター・ジャム・セッションによる大型コンサートで、当時のほとんどのジャズメンがなんらかの形で名を連ね、それまでは個人的なセッションでしかありえなかったような共演を次々と聴衆の前に実現させていった。
ジャムによる大型コンサートという形式上、多数の観客に大向こう受けする大音量のハードブローがもてはやされ、ミュージシャンの創造性を奪っていったという難点もあったようだけど、JATPを模倣した同種の他の企画も次々と発足し、それぞれが多数の名盤を残していく。ライブ録音という習慣が定着したのも、この形式の企画がきっかけになったと言っていいと思う。

前章に引き続いて1940年代のジャズ界を追ってきたけど、圧倒的な改革となったバップ革命のムーブメントと、それに付随する形でアーティスト達が様々な可能性を模索して、それぞれがそれぞれの方法論で思索を続けていた時代だと言えるでしょう。
そして、「楽曲としての統一感を模索する」というクール派の掲げたテーマは、以降のジャズの永遠の課題として後の世代に受け継がれていく事になる・・・・・。

2 コメント

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こんにちは (saku)
2005-05-21 12:36:27
TAROさんの記事を読んでいるおかげで、記事に引用できました。



これからも参考にしていきたいので楽しみにしてますねー
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>sakuさん (TARO)
2005-05-21 22:49:14
や、こんにちはです。



こんなしょぼいところの記事でよかったらがんがん引用しちゃってください。



最近はネタ切れで書く事がないのですが、今はジャズリスナーを対象にした「100の質問」を作っています。

できたらここで公開しようと思います。



ではでは。
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