前々回の投稿で、「音楽家は孤高であってはいけない」って記事を書いたよね。
その記事に、いつもいつもここを覗いてくださっている方から「じゃあ絵画、絵描きの世界はどうなんだ?」といった趣旨のコメントを頂いたのね。
ずいぶん久しぶり、ふた月半くらいぶりのポスティングだったんだけど、いつも僕のブログをちょくちょくチェックしてくださっていて、何か書いたらいつもコメントしてくださってるという・・・・・ありがたいよね。
頂いたコメントの内容が内容だったので、今回は音楽と絵画の性質の違い、また芸術全般において音楽がどんな位置づけにあるかってなことを、徒然に考えてみようと思う。
えーと、まず音楽と絵画の違いはってとこから。
これは「時間芸術」と「空間芸術」の違いというのが大きいんじゃないかな。
「空間芸術」である絵画の場合、受け手は発信者が「技術を用いるその場」に立ち会うことはめったにない。発信者は原則として時間に縛られずに心置きなく技術を用い、ミスもまあ取り返しが利く。受け手は基本的に技術そのものとは関わりがなく、作品の「完成形」のみを受け取る。「やり直しが効く」ってことだね。
「時間芸術」である音楽の場合、録音されたものを除外すれば、受け手は「演奏される作品」を受け取ると同時に、発信者が「技術を駆使するその場にリアルタイムに立ち会う」わけです。演奏は時間の進行と不可分で、曲中において演奏が(時間が)常に進んでいってしまう以上、発信者は1度犯してしまったミスを取り返すことはできないよね。受け手にとっても「作品がどれだけ完成されるか」は、演奏が終わるその瞬間までわからない。1度成立してしまった演奏は「やり直しは効かない」。
Eric Dolphy(エリック・ドルフィー、as,bcl,fl)の名盤「Last Date」の最後の「音楽は終わると空中に消えてしまう。2度と再び取り戻すことはできない」という名言の通りにね(笑)。
技術はあらかじめ尽くしておいて「結果」を重視する「空間芸術」、描きあがったものを見せて表現とする「絵画」。対して、技術を用いる過程そのものが作品であり、作品が完成されたときはもうすでに作品は存在しない、「創り上げる過程」を聴かせて表現とする「音楽」。
前々回の記事で書いたように、「作品そのものの意味」を差し置いて「技術を見せる」ことに満悦する輩が、絵描きよりも音楽家に多いように感じるというのは、ここら辺に起因してるんじゃないかな。
また、これは僕が思っていることなんだけど、人間にとって、視覚は「それそのものだけでも知性的な意味を持つ」のに対して、聴覚は「それそのものだけでは知性的な意味を持ちにくい」(意味を持たないとは言いません)という性質があると思う。
これは「言葉」というものをとりあえず度外視して話すけど、例えばある山があって、それが噴火したのを影響のない遥か遠くから眺めるとするよね。
それはひと目見ればそれがどういった物でどういった現象で、安全か危険か、近寄るべきか離れるべきかといった「自分にとってのその事象の意味」というのは、まあ概ね知覚される。
これが、視覚まったくなしで「ドドーン!」という音のみだとしましょう。そうすると、それは「山が噴火した」という事象であるとは判別できない。「危険そうだな」ってのは少しは判るかもしれないけど、それが「山の上からマグマが噴出した現象である」とは、やはり知覚はされにくいでしょう。視覚以外の四感をフル活用したとしても、ね。
つまり、映像(絵画)はそれそのもので人間にとって意味づけを獲得できるのに対して、音響(音楽)はそれそのものだけだと意味は知覚されにくく、現象を抽象的にしか捉えられないという限界があるわけだ。
山を描いた絵を見れば、人は「ああ山だ」と思う(抽象的な前衛のものは別としてね)けど、山を表現した音楽を聴いても「おお!、山だ!」と思うかというと、それはちょっと(笑)。
人間の事象に対する知覚において、五感の中でやはり主眼をなすのは概ね視覚である。それで、そこにコミュニケーションのツールとしての利便性を求めて、聴覚にも事象としての意味づけをすることで出来上がってきたのがたのが「言葉・言語」であると。
つまり音楽という現象は、それ自体では「ある程度抽象的な音の羅列」でしかありえないんじゃないかな。
絵画、描くという行為が「目の前の映像(すでに知性的な意味づけがなされた)を模写する」ところから始まっているのに対して、音楽は必ずしもそうではない。
音楽の起源は間違いなく系統だった言語ができあがる以前であって、もともと言語ほど精密な意味づけがあったものではないのかも知れない。むしろ連続した音(旋律線)やリズム、音響そのものに感覚的な刺激を受けるというところから始まっていて、人間がその知性の発展の過程において、知性的な意味づけを表現する方法を音にも求めていったということだと思うんだよね。
これは蛇足だけど、つまり演奏に言語(歌詞)を乗せて意味づけするというのは、音楽では後発の表現方法なんだね。
空間に何某かの知性的な意味づけを表現する空間芸術。絵画、彫刻、あと機能美を追及するという点で建築なんかもこれに含まれるかな。
時間の進行に伴って展開して、空間的な実在性を持たない時間芸術。これは音楽と、あと朗読とかかな・・・・・。
あとこのふたつの特徴を併せ持つ時空間芸術ってのもある。演劇、映画、舞踏とかがこれにあたるでしょう。
これらの中で「知性的な意味づけを必要としないところから始まっている」(これは「知性的な意味づけがなくても表現として成立する」ということだよね)というところに、芸術全般における音楽の特殊性があると思う。
それって結構凄いことだよね。
そこになにかの意味づけを求めなくても、その現象単体で人間の情動を喚起できる、もしくはその傾向が強い、ってことはね。
うん、なんだか思いつくままに書き殴っちゃったけど、「絵画と音楽の違い」でパッと考えて出てきたのはこんなとこかな。
読み返してみてもわけわかんないね(笑)。
まあいいや。
このテーマに関しては、まだまだ考えつくせていないような気がするので、気が向いたらまた書きます。
ではではー。
その記事に、いつもいつもここを覗いてくださっている方から「じゃあ絵画、絵描きの世界はどうなんだ?」といった趣旨のコメントを頂いたのね。
ずいぶん久しぶり、ふた月半くらいぶりのポスティングだったんだけど、いつも僕のブログをちょくちょくチェックしてくださっていて、何か書いたらいつもコメントしてくださってるという・・・・・ありがたいよね。
頂いたコメントの内容が内容だったので、今回は音楽と絵画の性質の違い、また芸術全般において音楽がどんな位置づけにあるかってなことを、徒然に考えてみようと思う。
えーと、まず音楽と絵画の違いはってとこから。
これは「時間芸術」と「空間芸術」の違いというのが大きいんじゃないかな。
「空間芸術」である絵画の場合、受け手は発信者が「技術を用いるその場」に立ち会うことはめったにない。発信者は原則として時間に縛られずに心置きなく技術を用い、ミスもまあ取り返しが利く。受け手は基本的に技術そのものとは関わりがなく、作品の「完成形」のみを受け取る。「やり直しが効く」ってことだね。
「時間芸術」である音楽の場合、録音されたものを除外すれば、受け手は「演奏される作品」を受け取ると同時に、発信者が「技術を駆使するその場にリアルタイムに立ち会う」わけです。演奏は時間の進行と不可分で、曲中において演奏が(時間が)常に進んでいってしまう以上、発信者は1度犯してしまったミスを取り返すことはできないよね。受け手にとっても「作品がどれだけ完成されるか」は、演奏が終わるその瞬間までわからない。1度成立してしまった演奏は「やり直しは効かない」。
Eric Dolphy(エリック・ドルフィー、as,bcl,fl)の名盤「Last Date」の最後の「音楽は終わると空中に消えてしまう。2度と再び取り戻すことはできない」という名言の通りにね(笑)。
技術はあらかじめ尽くしておいて「結果」を重視する「空間芸術」、描きあがったものを見せて表現とする「絵画」。対して、技術を用いる過程そのものが作品であり、作品が完成されたときはもうすでに作品は存在しない、「創り上げる過程」を聴かせて表現とする「音楽」。
前々回の記事で書いたように、「作品そのものの意味」を差し置いて「技術を見せる」ことに満悦する輩が、絵描きよりも音楽家に多いように感じるというのは、ここら辺に起因してるんじゃないかな。
また、これは僕が思っていることなんだけど、人間にとって、視覚は「それそのものだけでも知性的な意味を持つ」のに対して、聴覚は「それそのものだけでは知性的な意味を持ちにくい」(意味を持たないとは言いません)という性質があると思う。
これは「言葉」というものをとりあえず度外視して話すけど、例えばある山があって、それが噴火したのを影響のない遥か遠くから眺めるとするよね。
それはひと目見ればそれがどういった物でどういった現象で、安全か危険か、近寄るべきか離れるべきかといった「自分にとってのその事象の意味」というのは、まあ概ね知覚される。
これが、視覚まったくなしで「ドドーン!」という音のみだとしましょう。そうすると、それは「山が噴火した」という事象であるとは判別できない。「危険そうだな」ってのは少しは判るかもしれないけど、それが「山の上からマグマが噴出した現象である」とは、やはり知覚はされにくいでしょう。視覚以外の四感をフル活用したとしても、ね。
つまり、映像(絵画)はそれそのもので人間にとって意味づけを獲得できるのに対して、音響(音楽)はそれそのものだけだと意味は知覚されにくく、現象を抽象的にしか捉えられないという限界があるわけだ。
山を描いた絵を見れば、人は「ああ山だ」と思う(抽象的な前衛のものは別としてね)けど、山を表現した音楽を聴いても「おお!、山だ!」と思うかというと、それはちょっと(笑)。
人間の事象に対する知覚において、五感の中でやはり主眼をなすのは概ね視覚である。それで、そこにコミュニケーションのツールとしての利便性を求めて、聴覚にも事象としての意味づけをすることで出来上がってきたのがたのが「言葉・言語」であると。
つまり音楽という現象は、それ自体では「ある程度抽象的な音の羅列」でしかありえないんじゃないかな。
絵画、描くという行為が「目の前の映像(すでに知性的な意味づけがなされた)を模写する」ところから始まっているのに対して、音楽は必ずしもそうではない。
音楽の起源は間違いなく系統だった言語ができあがる以前であって、もともと言語ほど精密な意味づけがあったものではないのかも知れない。むしろ連続した音(旋律線)やリズム、音響そのものに感覚的な刺激を受けるというところから始まっていて、人間がその知性の発展の過程において、知性的な意味づけを表現する方法を音にも求めていったということだと思うんだよね。
これは蛇足だけど、つまり演奏に言語(歌詞)を乗せて意味づけするというのは、音楽では後発の表現方法なんだね。
空間に何某かの知性的な意味づけを表現する空間芸術。絵画、彫刻、あと機能美を追及するという点で建築なんかもこれに含まれるかな。
時間の進行に伴って展開して、空間的な実在性を持たない時間芸術。これは音楽と、あと朗読とかかな・・・・・。
あとこのふたつの特徴を併せ持つ時空間芸術ってのもある。演劇、映画、舞踏とかがこれにあたるでしょう。
これらの中で「知性的な意味づけを必要としないところから始まっている」(これは「知性的な意味づけがなくても表現として成立する」ということだよね)というところに、芸術全般における音楽の特殊性があると思う。
それって結構凄いことだよね。
そこになにかの意味づけを求めなくても、その現象単体で人間の情動を喚起できる、もしくはその傾向が強い、ってことはね。
うん、なんだか思いつくままに書き殴っちゃったけど、「絵画と音楽の違い」でパッと考えて出てきたのはこんなとこかな。
読み返してみてもわけわかんないね(笑)。
まあいいや。
このテーマに関しては、まだまだ考えつくせていないような気がするので、気が向いたらまた書きます。
ではではー。
私も普段から「音楽とアートの違いって何だろう?」と、漠然と考えてみたりしていたんです。一応どっちにも関わった経験があるので。
なかなか自分なりの言葉で、その疑問を整理することができなかったんですけど、
TAROさんの記事を読んで、腑に落ちたような気がします。
ライブペインティングというジャンルもありますが、描いている過程のパフォーマンスを見せることをメインの目的としながらも、評価されるのはパフォーマンスそのものではなく、結果として完成したアートであるという事から考えても、
やっぱり絵画というのは完成した「かたち」そのもので評価されるものなんだなあ…ということがわかります。
最近絵を描きながら思うことなのですが、音って改めて凄いなあ…と。
例えばピアノでCのメジャーコードを弾くと、楽しそうに聴こえるのに、この中間の音(E)をフラットにしただけで、たちまちマイナーで悲しそうな音に聴こえてしまう。
色や線で楽しさや悲しさを表現するって結構大変なのに、音なら一発でそれができてしまう…というのが、凄いなと思うんですね。
絵だって技術は大事ですが、技術だけを見せるようなものはあまり面白くないですし、音楽ではなおさらそうだろう…と常々思います。私も最近では知名度やテクではなく、聴いて心に響くミュージシャンを選んでライブに行っております。
これからも色々参考にさせてもらいます!
かなりサボってたんですが、いつも読んでいただいてありがとうございます。
>色や線で楽しさや悲しさを表現するって結構大変なのに、
>音なら一発でそれができてしまう
いつも考えるのですが、メジャーを明るい、マイナーを暗いと感じる人間の感性というのは、いったいどこから来ているのでしょうね。
それは世界中、いつの時代においても普遍的な、そして不変の感性なのでしょうか?。
メジャーを暗い、マイナーを明るいと感じる人がいたとしたら、その感性は間違っているのでしょうか?。
協和音程を不快と感じ、不協和を美しいと感じる人がいたとしたら、それは間違いなのでしょうか?。
もしかしたら、人間の審美基準は推敲や歴史によって習慣づけられた、後天的なものなのかもしれないということです。
ただ、どういった音律を採るかは別にしても「トーナリティがあるからこそ、ひとつひとつの音が意味を持つ」ということだと思います。
もしトニックも何もなしで、すべての音の意味づけ(価値?)が同じだとしたら、それはなんの音が鳴っても同じだということになります。
それが、僕がフリージャズのある部分を好ましいと思えない理由なんですね。
法則、拘束、束縛があるからこそ、音楽は音楽足りえると、僕はそう思います。
>最近では知名度やテクではなく、
>聴いて心に響くミュージシャンを選んで
技術とモチーフ(表現したい情動)、これは不可分で、どちらが欠けてもいい音楽にはならない。
どちらも必要で、どちらが上でも下でもなく、「表現する」上ではどちらも必要。
技術がなくても感情が伝わると思っているやつの音楽はオナニー。
感情がなくて技術だけを見せ付けて、結局何も伝えていない音楽も、それはやっぱりオナニー。
僕ら鑑賞者は、豊かな感情を、研鑽に裏打ちされた確かな技術で伝えてくる、そんな上質な音楽を「心に響く」と感じられるように、感性を研ぎ澄ましておきたいものですね。
ではでは。
つくづく時間の面白さを感じます。
ところで時間が消えていくとすると、録音され、それを僕たちが繰り返し聴くことができる、聴きこむほどに見えてくる、感じるものが沢山出てくる。例えばライブは一回性に命をかけると言うこともありますよね。それを繰り返し聴く行為をどう考えればいいのでしょうね。
ボチボチ秋がきますかねぇ。
早くうだる夏は行っちまって欲しいものですねぇ。
ヒィ・・・・・
>繰り返し聴く行為をどう考えればいいのでしょうね。
それは偏に「文明ってありがたいものですねぇ」と(笑)。
録音技術があるからこそ、僕らは「空中に消えてしまう」音楽を、繰り返し追体験することができる。
ありがたいことです。
まあそれも半分本音なのですが、そうですね・・・・・以前「ジャズはライブこそ本質だ?(笑)」という記事
http://blog.goo.ne.jp/taromiles/e/e6fd7921883379ffa4b0a8b023afea27
↑ここですね、でも同じようなことを書いたんですが、どんな芸術に接するときにも、それは「その1回限りの体験」だということです。
同じ絵を、同じ録音を、同じ映画を、同じ書籍を、何度も繰り返して鑑賞するとして、それでも「以前の自分とまったく同じ自分で作品に対峙する」ことって、不可能なんですよね。
だから、僕らは常に新しい刺激を受けられるように、感性を研ぎ澄ましておきたい。
そして、芸術に接するその一瞬一瞬を、より深く感じていきたいですね。
そんなところです。