本物のジャズはできない論は、やっぱり日本人のジャズファンからするとムッと来る言葉だよね。
読んでくれてる人はお気を悪くされたでしょうか?(笑)。
前回の記事に、ここをいつも覗いてくださっている方から「そんなこと言ったって、日本人にジャズメンにだって、世界的に評価されてるいいミュージシャンがいっぱいいるじゃん」という主旨のコメントを頂いた。もっと同様の書き込みがあるかなとも思ったんだけど、普段の強引な物言いがたたって静かなものでした(ニャハハハ)。
もちろんその通りですよ。
日本人にだってスゲェ人はいっぱいいる。
で、ちょっと重複するかもしれないけど、このコメントに関して思うことを、今回は書かせてもらうことにします。半分レスのようですが、文体は普段の記事の言葉遣いでいかせて頂きます。ご容赦くださいね。
ええっと、そうね、やっぱり「何が本物であるか」というところに話が集約されてまうんだけど、僕は「本物である、偽物である」を、必ずしも「音楽的に優れている、劣っている」という論旨と結び付けているわけではないのね。そうでなくて、ここで書いたのは「文化(文明?)的背景を前提に、音楽は育まれる」ということなんだ。
ジャズにはジャズが、その姿で育ってくる基盤というものがあって(それは生活様式だったり、民族性だったり、気候だったり、土地柄だったりします)、それを度外視して、音楽を記譜して音をなぞるだけでは、やはり否応なしに異質なものが生まれてきてしまう、と。
これはリズムを例にとると平易なんだけど、例えばスイングというリズム感、所謂「跳ねる」リズム。一般にジャズを譜に起こす際、普通ポピュラーとかで使われるシャッフルなんかの3連系のリズムと混同して考えられがちなんだけど、実はスイングって素直に3連符では跳ねていない。
ビートの頭が一瞬喰い気味に入ってきたり、オフビートになる2拍目4拍目の3連が、普通の8分音符に近いまっすぐなノリで刻まれたりと、もっとストレートに近いあっさりとした溜めで刻まれる。また、3より細分化されたネバッこいリズムもある。グリングリンとこねくるような泥臭いスイング、これは所謂「ファンキー」時代に多いかな。
僕も詳しくはないし、手元の音を聴いていても色々なパターンがあるようで、食うにせよモタるにせよ、一概に「これぞスイング」って言いきることは難しいんだけど、やっぱスイングって、譜に書ききれない微妙なノリなわけだよね。
詳しいことは以前の歴史物の記事に譲るけど、このノリを育んだのは、やっぱり19世紀末から20世紀初頭にアメリカ南部にあった社会背景、生活、そして黒人文化だったわけで・・・・・、それを感覚的に耳で捉えて理解しようとしても、やっぱり無理があると思うんだよね。そこで生まれて、その社会背景を共有していない限り「感覚」って身につかない。また、人種(生物学的な)の違いでも「感覚」は違うのかもしれない。
ここではリズムを例に取ったけど、それはリズムだけでなく、ハーモニーの感覚、フレージングも含めた音楽総体に関する感覚すべてで、だよね。音楽的な「感覚すべて」が「育ってきた社会背景、生活」を措いてはありえない。
そこから言えば、例えばEvansだって、白人だし、彼のスイングはバタ臭く3連で跳ねることが多い。現代的なハーモニー感覚や、モードを持ち込んで、リズムよりも「メロディを歌う」ことに重きを置いた。リズミックじゃない、極めてジャズっぽくない音楽。つまりジャズの成立過程から見るとひとつの「異端」なわけであってさ。
こういったことを頭において、「何が本物か」(ジャズとはなにか=ジャズのアイデンティティ)を論じ始めると、もうそれは「ルーツ」に帰らざるを得ない。ちょっと前の記事で書いた「Wyntonの活動がジャズを遡るようにして行われている」理由はここら辺だね。「ジャズの背景」「ジャズのアイデンティティ」を誇るのが彼の音楽であると。
で、前回も書いたように、ジャズが各国、各生活背景、各社会背景に拡散していって、「本物のジャズ」とは違った音楽が生まれてくるというのは、これは時代の趨勢として当然なわけだ。情報はあっという間に世界を駆け巡り、民族の「血」も次第に混ざり合っていく。それが良いことか悪いことかは別としても、「文化、生活様式、社会背景」(=感覚)って、常にグローバルに混ざり合っていく時代なわけだ。日本だってもう普段からちょんまげ結って着物着ている人ほとんどいないし(笑)、日本のアイデンティティなんて、もう殆ど残っていないといっても大袈裟ではない。
それと同じようにさ、「ジャズも変容していく」わけだよね。
それを念頭に「日本人に本物のジャズはできない」という言葉を、黒人の著名なジャズメンが発したときに、我々日本人のジャズファンは何を感じるか。感じ取れるか。
ここが重要!。これは重要だよ!。
「なんだよ、つまんないこと言いやがって」と色めきたつか「そんなん嘘だよ」と一笑に付すか・・・・・ムッと来るのはわかるけど、音楽を深く楽しもうとするなら、これはどちらもつまらない反応なんじゃないかと、僕は思うんだよ。「本物偽物」を「良し悪し」と位置づけて単純な二元論で捉えてしまうのは簡単だけど、それじゃあまりに単純すぎるし面白くない。その発言を言わしめるなにかがあって、そこにジャズがジャズたる所以があるのかもしれないって考えるのが、極めて自然じゃないかな。
じゃあこの人が言っている「本物のジャズ」ってどんな音楽だろう。それは黒人的な音楽?。じゃあ黒人的ってどういうの?。
日本人のやっているジャズは偽物なの?、本物とどこが違うのかな?。それは「日本的」なの?。
それならヨーロッパのジャズは?、ヨーロッパっぽいジャズってどんなん?。それも偽物かな?。
どんなジャズがスイングしていて、どんなジャズがスイングしていないの?。
ファンキーなジャズってどんなん?。
ってね、これらを問うことができる?。
それを「耳で」聴き分けて、「おお、黒人っぽいねぇ」「日本人っぽい」「おお、ヨーロッパ的だ」「スイングしてるねぇ」「泥臭いなぁ」なんて感じる為には、アメリカの黒人の、日本人の、欧米各国の、生活や背景と歴史を知っていて、そしてそれをイメージできないと無理。
例えばカントリーやディキシーを聴いたときに「古き良き開拓時代の名残」を感じる為には、アメリカの古き良き開拓時代を知らなくちゃ、絶対に無理なんだよ。それがなきゃ「古臭くてダサイ音楽だな」で終わっちゃうじゃん。
カントリーは西部か。そこで飲まれていた酒はなに?、トウモロコシだからやっぱバーボンかな?。人々の仕事は?、農作業?、あの時代の南部だから、やっぱ綿花?。交通手段は馬?、馬車?、幌馬車か。厩で馬が草を食んでるだろうね。ディキシーの場合は最南部だから、移動手段は船かな、川を登っていく蒸気船?。植物は?、西部はサボテンかな?、南部の川沿いは結構鬱蒼としてるかもね。開拓時代には何が食べられていたの?、そういえば西部劇の酒場のシーンで、トマトベースで豆がいっぱい入ってるスープが浅い皿に盛られていて、スプーンで食べているのを映画で見たことあるよね。酒場は木造2階建てで扉は両開き?。保安官が町を仕切ってるのかな?、所謂シェリフか(笑)。テンガロンハット、革のベルト、硝煙の匂い、縛り首がまだあったんだけ?。まわる風車、乾いた風、転がる樽、砂埃、草の匂い、桑の音・・・・・。
「カントリー」「ディキシー」という言葉だけで、あなたはどれだけイメージを膨らませることができる?。実際に音を聴いたときに、どれだけその時代、その土地まで飛んで行ける?。
何かの演奏を聴いたときに、その背景にある風景や気持ち、色や温度、空気や匂い、そして生活を、パッと思い浮かべられる能力、感じられる能力。
それってそのまま「知っていること」、そして「思い描くこと」と、イコールなんだよ。
知っていればいるほど、想像力ははるかに飛翔して、音楽は深く感じられるんだ。
またまとまりのない文章だね。
ええと、どうしよっか・・・・・だから、一見不遜に感じる発言、それが日本人のジャズファンにとってどんなに面白くない発言であっても、まずは「なぜそう言ったのか」「その発言が出てきた背景」、これを問えよと、そう言いたいのね。そこにはなんかあんだよ。絶対に。
これだけダラダラ書いといて、言いたいのは実はその一行だけだったんだけど(ギャハハ)。
収拾がつかなくなったのでこの辺でやめます。
ではでは。
読んでくれてる人はお気を悪くされたでしょうか?(笑)。
前回の記事に、ここをいつも覗いてくださっている方から「そんなこと言ったって、日本人にジャズメンにだって、世界的に評価されてるいいミュージシャンがいっぱいいるじゃん」という主旨のコメントを頂いた。もっと同様の書き込みがあるかなとも思ったんだけど、普段の強引な物言いがたたって静かなものでした(ニャハハハ)。
もちろんその通りですよ。
日本人にだってスゲェ人はいっぱいいる。
で、ちょっと重複するかもしれないけど、このコメントに関して思うことを、今回は書かせてもらうことにします。半分レスのようですが、文体は普段の記事の言葉遣いでいかせて頂きます。ご容赦くださいね。
ええっと、そうね、やっぱり「何が本物であるか」というところに話が集約されてまうんだけど、僕は「本物である、偽物である」を、必ずしも「音楽的に優れている、劣っている」という論旨と結び付けているわけではないのね。そうでなくて、ここで書いたのは「文化(文明?)的背景を前提に、音楽は育まれる」ということなんだ。
ジャズにはジャズが、その姿で育ってくる基盤というものがあって(それは生活様式だったり、民族性だったり、気候だったり、土地柄だったりします)、それを度外視して、音楽を記譜して音をなぞるだけでは、やはり否応なしに異質なものが生まれてきてしまう、と。
これはリズムを例にとると平易なんだけど、例えばスイングというリズム感、所謂「跳ねる」リズム。一般にジャズを譜に起こす際、普通ポピュラーとかで使われるシャッフルなんかの3連系のリズムと混同して考えられがちなんだけど、実はスイングって素直に3連符では跳ねていない。
ビートの頭が一瞬喰い気味に入ってきたり、オフビートになる2拍目4拍目の3連が、普通の8分音符に近いまっすぐなノリで刻まれたりと、もっとストレートに近いあっさりとした溜めで刻まれる。また、3より細分化されたネバッこいリズムもある。グリングリンとこねくるような泥臭いスイング、これは所謂「ファンキー」時代に多いかな。
僕も詳しくはないし、手元の音を聴いていても色々なパターンがあるようで、食うにせよモタるにせよ、一概に「これぞスイング」って言いきることは難しいんだけど、やっぱスイングって、譜に書ききれない微妙なノリなわけだよね。
詳しいことは以前の歴史物の記事に譲るけど、このノリを育んだのは、やっぱり19世紀末から20世紀初頭にアメリカ南部にあった社会背景、生活、そして黒人文化だったわけで・・・・・、それを感覚的に耳で捉えて理解しようとしても、やっぱり無理があると思うんだよね。そこで生まれて、その社会背景を共有していない限り「感覚」って身につかない。また、人種(生物学的な)の違いでも「感覚」は違うのかもしれない。
ここではリズムを例に取ったけど、それはリズムだけでなく、ハーモニーの感覚、フレージングも含めた音楽総体に関する感覚すべてで、だよね。音楽的な「感覚すべて」が「育ってきた社会背景、生活」を措いてはありえない。
そこから言えば、例えばEvansだって、白人だし、彼のスイングはバタ臭く3連で跳ねることが多い。現代的なハーモニー感覚や、モードを持ち込んで、リズムよりも「メロディを歌う」ことに重きを置いた。リズミックじゃない、極めてジャズっぽくない音楽。つまりジャズの成立過程から見るとひとつの「異端」なわけであってさ。
こういったことを頭において、「何が本物か」(ジャズとはなにか=ジャズのアイデンティティ)を論じ始めると、もうそれは「ルーツ」に帰らざるを得ない。ちょっと前の記事で書いた「Wyntonの活動がジャズを遡るようにして行われている」理由はここら辺だね。「ジャズの背景」「ジャズのアイデンティティ」を誇るのが彼の音楽であると。
で、前回も書いたように、ジャズが各国、各生活背景、各社会背景に拡散していって、「本物のジャズ」とは違った音楽が生まれてくるというのは、これは時代の趨勢として当然なわけだ。情報はあっという間に世界を駆け巡り、民族の「血」も次第に混ざり合っていく。それが良いことか悪いことかは別としても、「文化、生活様式、社会背景」(=感覚)って、常にグローバルに混ざり合っていく時代なわけだ。日本だってもう普段からちょんまげ結って着物着ている人ほとんどいないし(笑)、日本のアイデンティティなんて、もう殆ど残っていないといっても大袈裟ではない。
それと同じようにさ、「ジャズも変容していく」わけだよね。
それを念頭に「日本人に本物のジャズはできない」という言葉を、黒人の著名なジャズメンが発したときに、我々日本人のジャズファンは何を感じるか。感じ取れるか。
ここが重要!。これは重要だよ!。
「なんだよ、つまんないこと言いやがって」と色めきたつか「そんなん嘘だよ」と一笑に付すか・・・・・ムッと来るのはわかるけど、音楽を深く楽しもうとするなら、これはどちらもつまらない反応なんじゃないかと、僕は思うんだよ。「本物偽物」を「良し悪し」と位置づけて単純な二元論で捉えてしまうのは簡単だけど、それじゃあまりに単純すぎるし面白くない。その発言を言わしめるなにかがあって、そこにジャズがジャズたる所以があるのかもしれないって考えるのが、極めて自然じゃないかな。
じゃあこの人が言っている「本物のジャズ」ってどんな音楽だろう。それは黒人的な音楽?。じゃあ黒人的ってどういうの?。
日本人のやっているジャズは偽物なの?、本物とどこが違うのかな?。それは「日本的」なの?。
それならヨーロッパのジャズは?、ヨーロッパっぽいジャズってどんなん?。それも偽物かな?。
どんなジャズがスイングしていて、どんなジャズがスイングしていないの?。
ファンキーなジャズってどんなん?。
ってね、これらを問うことができる?。
それを「耳で」聴き分けて、「おお、黒人っぽいねぇ」「日本人っぽい」「おお、ヨーロッパ的だ」「スイングしてるねぇ」「泥臭いなぁ」なんて感じる為には、アメリカの黒人の、日本人の、欧米各国の、生活や背景と歴史を知っていて、そしてそれをイメージできないと無理。
例えばカントリーやディキシーを聴いたときに「古き良き開拓時代の名残」を感じる為には、アメリカの古き良き開拓時代を知らなくちゃ、絶対に無理なんだよ。それがなきゃ「古臭くてダサイ音楽だな」で終わっちゃうじゃん。
カントリーは西部か。そこで飲まれていた酒はなに?、トウモロコシだからやっぱバーボンかな?。人々の仕事は?、農作業?、あの時代の南部だから、やっぱ綿花?。交通手段は馬?、馬車?、幌馬車か。厩で馬が草を食んでるだろうね。ディキシーの場合は最南部だから、移動手段は船かな、川を登っていく蒸気船?。植物は?、西部はサボテンかな?、南部の川沿いは結構鬱蒼としてるかもね。開拓時代には何が食べられていたの?、そういえば西部劇の酒場のシーンで、トマトベースで豆がいっぱい入ってるスープが浅い皿に盛られていて、スプーンで食べているのを映画で見たことあるよね。酒場は木造2階建てで扉は両開き?。保安官が町を仕切ってるのかな?、所謂シェリフか(笑)。テンガロンハット、革のベルト、硝煙の匂い、縛り首がまだあったんだけ?。まわる風車、乾いた風、転がる樽、砂埃、草の匂い、桑の音・・・・・。
「カントリー」「ディキシー」という言葉だけで、あなたはどれだけイメージを膨らませることができる?。実際に音を聴いたときに、どれだけその時代、その土地まで飛んで行ける?。
何かの演奏を聴いたときに、その背景にある風景や気持ち、色や温度、空気や匂い、そして生活を、パッと思い浮かべられる能力、感じられる能力。
それってそのまま「知っていること」、そして「思い描くこと」と、イコールなんだよ。
知っていればいるほど、想像力ははるかに飛翔して、音楽は深く感じられるんだ。
またまとまりのない文章だね。
ええと、どうしよっか・・・・・だから、一見不遜に感じる発言、それが日本人のジャズファンにとってどんなに面白くない発言であっても、まずは「なぜそう言ったのか」「その発言が出てきた背景」、これを問えよと、そう言いたいのね。そこにはなんかあんだよ。絶対に。
これだけダラダラ書いといて、言いたいのは実はその一行だけだったんだけど(ギャハハ)。
収拾がつかなくなったのでこの辺でやめます。
ではでは。
何故ブランフォード・マルサリスがそう言ったのか、そういうコメントをせざるを得なかったのかがよくわからないのですが、やはりJAZZとはなにか、音楽とは何か、表現するつまり創るとはなにかということになっていきますよね。
「血」でしょうかね。血でしか表現できないものってあるのかもしれないとは思います。
しかしモダンムーブメントの考え方は、それを否定した、というよりそれにこだわらなくなった、しかし時を経ると厳然としてその存在を無視は出来ないことに気がついてきた、チョット理屈先行ですが・・・
数奇屋建築を外国人が創れるか、興味を持つ建築家が現れないということでもあるのかもしれませんが、つくれないと僕は思うのです。それを模索しながら、その仕組みを身に着けながらも自分のものを作ろうとするから・・・そして自分の血がなせるものしか結局はつくれない。
だからだめということではなく、何か面白いものが生まれるかもしれない。そして血は社会や時代がはぐくむものなのではないかと思うのです。
ところで、カントリーやファドやゴスペルやフォルクロ-レや正調民謡などを聴くと、なぜか「懐かしい」いとう気持ちが染み込んできます。生まれてきたものだからでしょうか。人が自然とのかかわりの中で・・・
いつもコメントありがとうございます。
連休は光陰矢のごとし。
僕も何もしないまま終わってしまいましたよ(泣)。
>何故ブランフォード・マルサリスがそう言ったのか、
>そういうコメントをせざるを得なかったのか
「せざるを得なかった」というより、彼らにとってみれば「日本人のジャズ」は、「外国人が建てた数奇屋建築」に見えるんでしょうね。
僕は外国人が建てた数奇屋造りを否定するつもりはありませんが、国粋主義者にとってそれはどうでしょうか?。
そういった意味で、ジャズを誇っている彼らにしてみれば、外国人のジャズが奇異に映ることもあるのでしょうね。
>「血」でしょうかね。
そうですね。人間の体格や骨格、気性や感性って、やっぱりその土地の気候、風土、郷土、そしてそれによって育まれた地域ごとの社会背景、そういった基盤のもとで代をかさねることによって、徐々に培われていくものだと思います。
もちろん個人差はあるのでしょうが、統計的に見れば各国、各文化圏によって民族性に違いが出てくるというのはあると思います。
本文で書いたように、文化も血もしだいしだいに混ざり合っていくことは避けられないわけで、その中でどういった感性、文化、音楽が生まれてくるかというのは、一朝一夕には語れない。また逆に、そこにこそ近現代の文化の面白さがあるのかも知れない・・・・・ジャポニズムなんてのは、そのいい例ですよね。
>なぜか「懐かしい」いとう気持ちが染み込んできます
これは僕独自の意見になってしまうのですが、どんなジャンルのものであっても、例えば宮廷文化ようなものよりも、その時代時代で庶民の生活に根ざしていた文化の方が、身近に感じる、郷愁、懐古を感じるように思います。
料理なら絢爛豪華な宮廷料理より庶民の郷土料理に、絵画ならルネッサンス期やバロック期よりも印象派やバルビゾン派に、日本画なら絵巻より浮世絵に、音楽なら宮廷音楽より民族音楽に・・・・・少なくとも僕は懐かしさを感じます。
どちらが優れているかということではなく、これは僕の感性は小市民だってことですね(ワハハハ)。
カントリーやファドやゴスペルやフォルクロ-レや正調民謡、これらはやっぱりその時代の庶民の生活に根ざしていた音楽だということだと思います。
これは建築ではどうなんでしょうかね?。僕は建築様式にはまったく知識がないのですが、penkouさんはどんな建築に「懐かしい」を感じますか?。
ムフフ、文化論を闘わせるのは楽しいですね。
熱いなぁ。
ではでは。
Wyntonの記事が読みたかったのですが、
どこかだわかりませんでした
結局、農耕民族は、
ONにアクセントが付いちゃうんでしょうかね。
Jazzを行う環境や歴史って大事ですよね。
単純なことですが、
乾いた空気は音が鳴る鳴る!!
その上、DNAとくれば、
太刀打ち出来ません。
また遊びに来ます!
コメントありがとうございます。
>Wyntonの記事が読みたかったのですが
http://blog.goo.ne.jp/taromiles/e/bee6a2d647d15cdaa7d7194831dceb48
ここのことでしょうか?。
「ジャズ構造改革~熱血トリオ座談会~」の感想を書いたふたつ目の記事ですが、ちょっとWyntonにも言及しています。
>結局、農耕民族は、
>ONにアクセントが付いちゃうんでしょうかね
以前読んだ綾戸のインタビューで、面白い記述がありました。
綾戸さんは日本語の歌詞を歌わないのですか?、という問いに「『ン』が聴こえてくるから恥ずかしいんですよね」って答えてたんです。
例えば、美空ひばりの「真っ赤な太陽」だったら「ン真っ赤に燃~えた、太陽だ~から、ン真夏のう~みは~♪」って。
なるほどですよね(笑)。
>Jazzを行う環境や歴史って大事ですよね。
そうですね。
ジャズのみならず、すべての文化は「環境や歴史」によって育まれる。
音楽を含めた「文化」をより深く享受しようとすれば、「環境や歴史」=「知識」は不可欠なんですよね。
だからこそジャズは面白い!
まあそんなところです。
ではでは。
当方20年以上黒人音楽の真似事して飯食ってますが
日本人にSoulやJazzは出来ないと痛感しております
いや 別に出来なくていいんですけどね
あれは「アフリカン アメリカンの民族音楽」ですから
いくら真似してもRootsが違いますもん
日本人がいくら真似しても演歌歌ってる黒人みたいなもんですかね?
日本人は日本のRootsを踏まえて独自の解釈でやればいいと思います
当ブログの管理人をしておりますTAROと申します。
以降お見知りおきを。
>日本人にSoulやJazzは出来ないと痛感しております
>いや 別に出来なくていいんですけどね
>日本人は日本のRootsを踏まえて独自の解釈でやればいいと思います
仰るとおりだと思います。
それぞれの文化圏が他の文化圏の音楽を吸収して、独自の色彩を持った音楽を生み出していく。
そこに現代の音楽の面白さがあるのでしょう。
ただ、音を羅列して干渉するという単純な行為に、本物偽物なんていうことが論じられてしまう音楽ってヤツは、心底面白い文化だなぁと思うんですね。
リスナーにとっては本物であることに必ずしも価値があるわけではなく、音楽的に良い表現ができていれば、それは聴くに値するわけですね。
以前、歌手のEPOが言ってたのですが、「世界中の民族で、子守唄はよく似ている」と。
子守唄とか労働歌、その前の祭祀音楽はプリミティブの最たるもので、ジャズとかロックと言うものは、もっと民族毎の感性をもって進化させたもの。
そこには風土とか、肉体的、体力的な違いが反映されるでしょう。
恐らく世界中の民族が建てる小屋は似ているが、数寄屋造りは日本の風土に影響された集大成だと思います。