書きたいことを書ききれていなかったので、少々加筆、修正しました。
いつもこのブログを読んでくださっているpenkouさんが絶賛している、keith Jarrett(キース・ジャレット、p)の、2002年ピアノソロによる来日公演「Radiance」を、3~4日かけてじっくりと聴き込んだ。
penkouさんに約束したので、今回はこの感想というか、考えさせられたことを書こうと思う。
Keithはいつも、自分が何を表現したいのか、何を考えてどういった試みをしているのかということを、観念的に捉えて言葉にすることを好む人のように思う。
彼のアルバム、特に一連のピアノソロのアルバム、のライナーには大抵、その演奏にどういった動機とコンセプトを持って臨んだかということが彼の言葉で書かれていることが多くて、いつもライナーを読むのが楽しみなんだけれど、今回もやっぱ面白かった。
これ、手元にアルバムがある人はライナー全文を是非読んで欲しいんだけど、ちょっと要約しつつ概要を引用してみようか。
今までのピアノソロアルバムは「演奏するたびにエネルギーを新しいものに変換する」ことが主眼だった。でも今回は「今度はエネルギーだけではなく、実際の楽曲形式も、新しいものに変換される素材の中に含めてしまおうと思った」んだそうだ。
んで「演奏の始めの部分にメロディの要素が―それどころか、モチーフとなる要素さえもが―欠落していることに(少なくとも)一瞬戸惑うかもしれない。出てくる音に、動機となるコンセプトの存在がまったく感じられないからだ」って書いていて、でも戸惑うかもしれないけど、聴き手には「私のやることを辛抱して見守っていただきたい。すべての試みはリスクを伴うもの」だし「今回も、皆さんをがっかりさせるためにこうした演奏を試みたわけではない」って呼びかけてる。
彼自身はこのとき行った演奏に対して「結果として出てくるいかなる演奏をも意識しないためにあらゆる努力を払ったにもかかわらず、コンサート自身が音楽的な構成を持つような形で進んでいたことに気付いた時、私は少々ショックを受けた」という評価をしてる。
ただ「そう感じる必要はないのかもしれない。なぜなら、次に何かを弾かなければならないという”必然性”に迫られた自分自身が、曲をつなげる方法を無意識のうちに取捨選択していたはず」で「結局のところ、演奏するのも我々自身であり、演奏するように促されるのも我々自身なのだ」って結んでる。
面白いよね。
これだけでも色々と読み解けてくるね。
まずアルバムを聴いた僕の感想からいこうか。
結論から言うと「否定しない。きちんと聴けてます」ってとこでしょうか。
いつも「Koln Concert」や「Standards, Vol.1」といった、頗るつきに美しいメロディを歌いまくるKeithを基準に耳を傾けた僕には、かなりキツイと感じられた。「これはきちんと集中して音楽に対峙しないと、軽く聴き流せるもんじゃないな」って感じかな。
ご存知のように彼のソロピアノは「そのときその場での即興」を旨としていて、今回は「実際の楽曲形式」も即興で形作ることに取り組んだと。だから「メロディの要素」「モチーフとなる要素」「動機となるコンセプト」の存在が感じられないと言ってるんだね。
冒頭調性もビートもなくほとんどフリージャズ、しかも超前衛のやつ。
音楽が鳴り始めれば、大抵の人間は規則的な拍子にノリたがるし、音が落ち着く(ルート、トニックに行く)ことを期待するよね。音楽(少なくとも西洋音楽の常道)ってのは、リズムの躍動と音の安定への欲求が満たされていくことに快感を感じるもんなわけだ。
それがないの。4拍子でも3拍子でもなく、音がどこに落ち着くのかも漠然としてしまって、不安定な水の中を、どこに流れるくのかわからずに、ゆらゆら漂ってる感じ。これはクセのある嗜好品みたいなもんで、この浮遊感を前提に聴けばそれが快感になってきたりもするんだけどね。ただそうかと思うと、数曲置きにいつものKeithよろしく、バリバリにロマンチックなメロディが飛び出してきたりもする。聴いてる側はそれにホッとしたりしてね。
これは「無秩序から秩序へ」という、彼自身の意図なんだろうか(笑)。
自由な即興という方法論を突き詰めると、リズムと調性の否定というところに行き着いてしまうものなのかね。
僕は、コンセプトや方法論をすべて否定してまったく自由な演奏をすればいいという類のフリージャズの一分野には、あまりいい印象を持ってない。
調性と拍子という束縛があるからこそ、それぞれの音や楽節が意味を持つわけだし、そこからの逸脱も「逸脱である」という意味を持ち、表現として成立するものだと思うんだ。
僕らは鼻歌で何気なくメロディを口ずさむときって、なぜか必ず3拍子か4拍子系のリズムに乗っていて、12平均律のいずれかの調性に近い音を選択してしまうでしょ。また大抵は一定のテンポに乗っていることがほとんどだよね。そして、僕らは初めて聴いた音楽に対して、図らずも自分のそれまでの経験の中から類似したものを探し出して分類、理解して安心したがるように思う。
これらの傾向ってのは、僕らが「音楽ってのはこういうもんだ」って無意識に(勝手に?)定義づけてしまっているからなんだね。
考えさせられるよね。
規則的でインテンポなリズムに乗っていることは、本当に心地良いことなのか・・・・・不規則なリズムと、規則的なリズムのテンポを極端に変化させる(クラシックでは日常だよね)ということのどこに違いがあるのか。安定に向かわない旋律や進行でも、美しいと感じるものがあるのではないか・・・・・というよりも、美しいと感じる感性を限定しているのは、実は聴き手の方なのではないのか。
こういうのってかなり気の遠くなるような思索だし、また思索してもそれですぐに感性が広がるわけでもない。聴き手は色々な音楽を、幅広く許容して聴き続けていくしかないんだけれどね。
それでもやっぱりKeithのこの演奏は、既知の音楽の中に類似したものを見つけることがほぼできると、僕は思う。
調性があって「そこからいかに逸脱するか」という自由と、調性をまったく否定してしまった「まったくの自由」・・・・・Keithのこの音楽は、彼がいくら「コンセプト」を排除しようとしても、やはり調性内に留まっていると思う。
コンセプトを前提にしないことを試みた結果メロディを歌うことが希薄になって、だから彼は聴き手に「私のやることを辛抱して見守っていただきたい。すべての試みはリスクを伴うもの」とか「皆さんをがっかりさせるためにこうした演奏を試みたわけではない」って言ってるわけだ。
でも結局「結果として出てくるいかなる演奏をも意識しないためにあらゆる努力を払ったにもかかわらず、コンサート自身が音楽的な構成を持つような形で進んで」しまっていて、それが「少々ショック」だったってことね。
やっぱり「次に何かを弾かなければならないという”必然性”に迫られた自分自身が、曲をつなげる方法を無意識のうちに取捨選択していた」わけだ。これは自分に身についている音楽の「コンセプト」のなかから、無意識に取捨選択してしまっていた、ということだよね。
皮肉というかなんというか、だから「結局のところ、演奏するのも我々自身であり、演奏するように促されるのも我々自身なのだ」って結論づけているわけね。
結局音楽は「メロディに帰る」と、僕は思う。
いや、別にKeithを皮肉ってるわけじゃないよ。
そうでなくて、そこから見えるのは、この試みはKeith自身にとっても「挑戦」なんだなってこと。
結果を確信して自信を持って語りかけるのではなくて、良い表現をするためにできる限り可能性を模索してトライしていこうという取り組みなんだなってこと。
普通さ、高名なピアニストが聴衆に「辛抱して見守って」なんて言わないよ。
真摯だよね。
創造するという挑戦に真剣に取り組んでいて、それを聴衆にも理解して欲しいという・・・・・音楽家としてとても真摯な態度だと思う。
この「Radiance」は、完成された作品というよりは、まだ過渡期にある「真摯な音楽家の創造に対する真剣な挑戦」、僕にはそう聴こえてきます。
どうでしょうか?。
こんなところで~す。
penkouさんいかかでしょうか。
以前からpenkouさんと交わしていた「創造とは?論」に、一応の目処がつくような文章になったと思いますが(笑)。
ではでは。
いつもこのブログを読んでくださっているpenkouさんが絶賛している、keith Jarrett(キース・ジャレット、p)の、2002年ピアノソロによる来日公演「Radiance」を、3~4日かけてじっくりと聴き込んだ。
penkouさんに約束したので、今回はこの感想というか、考えさせられたことを書こうと思う。
Keithはいつも、自分が何を表現したいのか、何を考えてどういった試みをしているのかということを、観念的に捉えて言葉にすることを好む人のように思う。
彼のアルバム、特に一連のピアノソロのアルバム、のライナーには大抵、その演奏にどういった動機とコンセプトを持って臨んだかということが彼の言葉で書かれていることが多くて、いつもライナーを読むのが楽しみなんだけれど、今回もやっぱ面白かった。
これ、手元にアルバムがある人はライナー全文を是非読んで欲しいんだけど、ちょっと要約しつつ概要を引用してみようか。
今までのピアノソロアルバムは「演奏するたびにエネルギーを新しいものに変換する」ことが主眼だった。でも今回は「今度はエネルギーだけではなく、実際の楽曲形式も、新しいものに変換される素材の中に含めてしまおうと思った」んだそうだ。
んで「演奏の始めの部分にメロディの要素が―それどころか、モチーフとなる要素さえもが―欠落していることに(少なくとも)一瞬戸惑うかもしれない。出てくる音に、動機となるコンセプトの存在がまったく感じられないからだ」って書いていて、でも戸惑うかもしれないけど、聴き手には「私のやることを辛抱して見守っていただきたい。すべての試みはリスクを伴うもの」だし「今回も、皆さんをがっかりさせるためにこうした演奏を試みたわけではない」って呼びかけてる。
彼自身はこのとき行った演奏に対して「結果として出てくるいかなる演奏をも意識しないためにあらゆる努力を払ったにもかかわらず、コンサート自身が音楽的な構成を持つような形で進んでいたことに気付いた時、私は少々ショックを受けた」という評価をしてる。
ただ「そう感じる必要はないのかもしれない。なぜなら、次に何かを弾かなければならないという”必然性”に迫られた自分自身が、曲をつなげる方法を無意識のうちに取捨選択していたはず」で「結局のところ、演奏するのも我々自身であり、演奏するように促されるのも我々自身なのだ」って結んでる。
面白いよね。
これだけでも色々と読み解けてくるね。
まずアルバムを聴いた僕の感想からいこうか。
結論から言うと「否定しない。きちんと聴けてます」ってとこでしょうか。
いつも「Koln Concert」や「Standards, Vol.1」といった、頗るつきに美しいメロディを歌いまくるKeithを基準に耳を傾けた僕には、かなりキツイと感じられた。「これはきちんと集中して音楽に対峙しないと、軽く聴き流せるもんじゃないな」って感じかな。
ご存知のように彼のソロピアノは「そのときその場での即興」を旨としていて、今回は「実際の楽曲形式」も即興で形作ることに取り組んだと。だから「メロディの要素」「モチーフとなる要素」「動機となるコンセプト」の存在が感じられないと言ってるんだね。
冒頭調性もビートもなくほとんどフリージャズ、しかも超前衛のやつ。
音楽が鳴り始めれば、大抵の人間は規則的な拍子にノリたがるし、音が落ち着く(ルート、トニックに行く)ことを期待するよね。音楽(少なくとも西洋音楽の常道)ってのは、リズムの躍動と音の安定への欲求が満たされていくことに快感を感じるもんなわけだ。
それがないの。4拍子でも3拍子でもなく、音がどこに落ち着くのかも漠然としてしまって、不安定な水の中を、どこに流れるくのかわからずに、ゆらゆら漂ってる感じ。これはクセのある嗜好品みたいなもんで、この浮遊感を前提に聴けばそれが快感になってきたりもするんだけどね。ただそうかと思うと、数曲置きにいつものKeithよろしく、バリバリにロマンチックなメロディが飛び出してきたりもする。聴いてる側はそれにホッとしたりしてね。
これは「無秩序から秩序へ」という、彼自身の意図なんだろうか(笑)。
自由な即興という方法論を突き詰めると、リズムと調性の否定というところに行き着いてしまうものなのかね。
僕は、コンセプトや方法論をすべて否定してまったく自由な演奏をすればいいという類のフリージャズの一分野には、あまりいい印象を持ってない。
調性と拍子という束縛があるからこそ、それぞれの音や楽節が意味を持つわけだし、そこからの逸脱も「逸脱である」という意味を持ち、表現として成立するものだと思うんだ。
僕らは鼻歌で何気なくメロディを口ずさむときって、なぜか必ず3拍子か4拍子系のリズムに乗っていて、12平均律のいずれかの調性に近い音を選択してしまうでしょ。また大抵は一定のテンポに乗っていることがほとんどだよね。そして、僕らは初めて聴いた音楽に対して、図らずも自分のそれまでの経験の中から類似したものを探し出して分類、理解して安心したがるように思う。
これらの傾向ってのは、僕らが「音楽ってのはこういうもんだ」って無意識に(勝手に?)定義づけてしまっているからなんだね。
考えさせられるよね。
規則的でインテンポなリズムに乗っていることは、本当に心地良いことなのか・・・・・不規則なリズムと、規則的なリズムのテンポを極端に変化させる(クラシックでは日常だよね)ということのどこに違いがあるのか。安定に向かわない旋律や進行でも、美しいと感じるものがあるのではないか・・・・・というよりも、美しいと感じる感性を限定しているのは、実は聴き手の方なのではないのか。
こういうのってかなり気の遠くなるような思索だし、また思索してもそれですぐに感性が広がるわけでもない。聴き手は色々な音楽を、幅広く許容して聴き続けていくしかないんだけれどね。
それでもやっぱりKeithのこの演奏は、既知の音楽の中に類似したものを見つけることがほぼできると、僕は思う。
調性があって「そこからいかに逸脱するか」という自由と、調性をまったく否定してしまった「まったくの自由」・・・・・Keithのこの音楽は、彼がいくら「コンセプト」を排除しようとしても、やはり調性内に留まっていると思う。
コンセプトを前提にしないことを試みた結果メロディを歌うことが希薄になって、だから彼は聴き手に「私のやることを辛抱して見守っていただきたい。すべての試みはリスクを伴うもの」とか「皆さんをがっかりさせるためにこうした演奏を試みたわけではない」って言ってるわけだ。
でも結局「結果として出てくるいかなる演奏をも意識しないためにあらゆる努力を払ったにもかかわらず、コンサート自身が音楽的な構成を持つような形で進んで」しまっていて、それが「少々ショック」だったってことね。
やっぱり「次に何かを弾かなければならないという”必然性”に迫られた自分自身が、曲をつなげる方法を無意識のうちに取捨選択していた」わけだ。これは自分に身についている音楽の「コンセプト」のなかから、無意識に取捨選択してしまっていた、ということだよね。
皮肉というかなんというか、だから「結局のところ、演奏するのも我々自身であり、演奏するように促されるのも我々自身なのだ」って結論づけているわけね。
結局音楽は「メロディに帰る」と、僕は思う。
いや、別にKeithを皮肉ってるわけじゃないよ。
そうでなくて、そこから見えるのは、この試みはKeith自身にとっても「挑戦」なんだなってこと。
結果を確信して自信を持って語りかけるのではなくて、良い表現をするためにできる限り可能性を模索してトライしていこうという取り組みなんだなってこと。
普通さ、高名なピアニストが聴衆に「辛抱して見守って」なんて言わないよ。
真摯だよね。
創造するという挑戦に真剣に取り組んでいて、それを聴衆にも理解して欲しいという・・・・・音楽家としてとても真摯な態度だと思う。
この「Radiance」は、完成された作品というよりは、まだ過渡期にある「真摯な音楽家の創造に対する真剣な挑戦」、僕にはそう聴こえてきます。
どうでしょうか?。
こんなところで~す。
penkouさんいかかでしょうか。
以前からpenkouさんと交わしていた「創造とは?論」に、一応の目処がつくような文章になったと思いますが(笑)。
ではでは。
まだ過渡期にある「真摯な音楽家の創造に対する真剣な挑戦」。僕もそう受け止めます。僕が感じ、考えたことを素晴らしく旨く表現してくださったと思います。
今朝何気なくNHKを見ていたら、日曜美術館名選で日本画家高山辰雄氏が取り上げられ、70代のメッセ時ージと90歳を超えてからのコメントが紹介され、25年前に模索していたことを、しばし絶句しながら『何かあるのだ』となお模索する様子を見て、涙が出てきました。キースもそうなのかもしれない、TAROさんのいう「創造とは?論」。僕も建築をつくることに関わっているので、自分のことのように実感できます。
ところで僕の持っている「Kind Of Blue」は2005年の7月に発売されたリイシュー盤なのですが、フラメンコ・スケッチの別テイクが収録されています。
マイルスは枠組みしかないような曲を書き留めたものをメンバーにわたし、「メンバーはレコーディング以前にこれらの曲を演奏したことがないため、各曲の最初の完奏が例外なく”テイク”になると私は考える』と、ビル・エバンスが書いています。テイクされたフラメンコ・スケッチのエバンスのピアノのソロ部分のたとえようもない、高貴な美しさを聴くと、別テイクの存在を考えさせられます。エバンスはインプロビゼーションにも触れていますが、キースのピアノに向かってから手に委ねる?やり方とは僕は違うような気がするのですが、同じと考えたほうがいいのでしょうかね。
元に戻りますが「Kind Of Blue」のライナーを書いたロバート・パーマーはマイルスが探していたのはメロディーだと書いていて,TARO論と一致しますね。しかし!キースの「調性もビートもなくほとんどフリージャズ」を演奏しながら、例の唸りが聴けたりすると、本当に真摯に音に取り組んでいるのだとしみじみと、業(ごう)のようなものを考えてしまいます。
ボチボチ秋が来るようですね。
一雨ごとに涼しくなっていくんでしょうね。
>枠組みしかないような曲を書き留めたものをメンバーにわたし
これは結構Milesの常套手段というか、いっつもこのやり方ですよね。
人選の妙でしょうか。
なんであれで良いものができるんでしょうねぇ・・・・・なんか全員をビビらしといて、「さあみんな、こんな感じでバーッとやって」って(笑)。
そのうちあんま曲すら書かなくなっていったし・・・・・不思議な人ですね。
>最初の完奏が例外なく”テイク”になる
ジャズではファーストテイクが採用されることが多いんですよね。
多少ミスがあっても、最初の新鮮な感覚が大事ということでしょうか。
Evansは「作曲された音楽と、そうでない『ジャズ』があるんだ」といっている人ですから、即興や交感といったファクターを何より重視していたのでしょう。
キャリアの最後まで、トリオによる演奏にこだわって、「みんなでインプロヴァイズしてればそれでいい」って思ってた節がある。
対してMilesはあまり即興そのものを絶対視している感じはなくて、スコアやアレンジ、さらにはテープ編集までバンバン用いる。
そこら辺が彼のバランス感覚でしょうか。
>ピアノに向かってから手に委ねる?
>やり方とは僕は違うような気がするのですが
「あらかじめなんの枠組みも用意しない」という点で、Keithのやり方はより奔放であるといえますが、例えばもしこれが「完全なる偶然性」によってなされる創造なら、それは何も知らない赤ん坊や子供をピアノに向かわせて好きに叩かせたのと、本質的にはまったく変わらないということになります。
聴けばわかるとおりKeithの演奏は音楽として成り立っており、決して「赤ん坊の遊び」ではない。
ではそこにある差、「赤ん坊の遊び」と「手に委ねる演奏」の間に横たわる違いというのはなんなのか。
それが音楽を音楽たらしめる、音楽の本質なのではないでしょうか。
>業(ごう)のようなものを考えてしまいます
表現者というのは凄いですね。
以前、Stan Getzの遺作に関して書いた記事、
http://blog.goo.ne.jp/taromiles/e/9aa6b591ed6e23e4111045fa0015e340
↑これです。
に、同じようなことを書いたので、よろしかったら読んでみてくださいませー。
ではでは。
スタン・ゲッツの晩年の記述、スタンゲッツの素晴らしさとTAROさんの想い、心打たれます。表現者と言う言い方は素晴らしいですね。エバンスもそうでしたね。「People Time」をいずれ聴きます。
明日夜行便でトルコへ行ってきます。それでは又・・・
トルコにいかれるんですか?、いいですね。
向こうに行った感想なども、penkouさんのブログで聞かせていただけると嬉しいです。
>People Time
これは聴くべきですね。
「聴くべきですね」なんて言うと独善的で失礼かもしれませんが、それだけこの盤には価値があると思います。
Getzのメロディが歌いに歌っていて、Kenny Barronのピアノにも無造作なところがまったくなくて・・・・・そこには悲壮感なんてものはまったくなくて・・・・・聴いていると気持ちがジワーッと暖かくなります。
あったかいです。
ひたすらあったかいです。
泣けますよ。
僕は2枚組み1枚目の2曲目「Night And Day」で泣きました。
メチャメチャお勧めです。
是非御一聴あれ。
では、お帰りをお待ちしております。