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淡屋のり子の晩年の映像を見て

2004-09-29 19:21:20 | 音楽一般
先日、ひょんな事から淡屋のり子の晩年の映像を見た。
なんというか・・・・・老いるという事は切ない事だと思った。
声は出てないし、息は続かない。音程は不安定だし、本当の最晩年の頃は歌詞を忘れてしまう事も度々だったそうだ。

なんだってそうなんだろうけれど、技術って体力の上に成り立っていて、老いるごとにひとつひとつ失われていくように思う。
どんなに緻密で奥深い技術の粋を極めた歌い手でも、これは必ずくる。
音楽家ってさ、若いころから丹念に丹念に気の遠くなるような時間をかけて苦行のような練習をして、音楽に対して正面から向き合って取り組んで果てしない推考を重ねて、自分を作り上げていくわけだ。
それは常人の想像を絶する意欲と忍耐、そして感性が必要な事なんだよね。
その先に、ひとつの歌だったり演奏がある。
気の遠くなる話なんだ。
でもね、年をとって行けば行くに連れて、そういった「積み重ねたもの」って、ひとつひとつ剥がれ落ちて、技術で包み隠す事のできない本当の自分が出てくる。
音楽を毎日毎日、365日休む事無く飽きるほど聴き続けていると、フッとそんな風に感じる時があります。
この淡屋のり子の演奏も出来のいい演奏では決してなくて、というか、客観的に評価すれば酷い演奏だったと思う。
でもそこには得も言われぬ不思議な感動があった。
表現したくても技術が追いつかないもどかしさ。
また、できる限り精一杯表現しようとする音楽の真摯さ。
そして、技術が追いつかないからこそ、本人が訴えたい情感の存在が確かなものに見えてくる。
「表現したい」って、スッゴク伝わってくる。
これは感動的だった。

これはジャズ系の巨匠と呼ばれる、特にピアニストを聴くと同じように感じる事がある。
湧き出てくるアイディアに指がもつれて追いつかずに、もどかしげに唸りながら弾いている演奏を聴くと、ね。
Bud Powellの後期のアルバムとか、最近のOscar Petersonなんかにも感じますね。

トップレベルの演奏を維持できなくなった時に、その音楽家が持っている、素のままで持っている情感や想いといったものが初めて表出してくる。
これは老境に入ったアーティストの悲哀を語るようなセンチメンタルな視点じゃなくてね、客観的に眺めての話し。
技術が必要じゃないって言ってるんじゃないよ。
むしろまったく逆。
この「剥がれ落ちて、素のままの情緒が見えてくる」ってのは、弛まずに積み上げて積み上げて、走り続けた人にしか見られないように思う。
積み上げた技術が中途半端な人、伝えるべき情緒がなくて、技術のみで魅せていたタイプの人、そういった音楽家にはこれは感じられない。
凄く大袈裟な言い方だけど「弛んだ人間はこの境地にはたどり着けない」。
伝えたい想いがない音楽は剥がれ落ちたあとに何も残らない。技術のない聴き苦しい演奏になるだけだ。
また、積み上げる事を途中で放棄した演奏者にも、最終的には何も残らない。結局伝えようという意欲が中途半端だったって事だ。
音楽は「伝えたい想い」があって本物だ。
技術なくしては成り立たない。技術だけでも成り立たない。
そこに「想い」があるから人は音楽を聴く。
そうであって欲しいと想う。

なんてね。
スゲェかっこつけた文章になってしまったな(笑)。

本日の安眠盤、Bud Powell(バド・パウエル、p)の「A Portrait Of Thelonious」
ではでは。

3 コメント

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これはくるなあ(泣) (med-swing)
2004-10-11 23:39:48
年齢からくる演奏能\力の低下と表\現したい内容との戦い。あまりにレベルは違うにせよ、僕も「アマチュアなのになんでこんなに苦しみながら音楽を続けなければならないんだ」と思った事もあります。

でも止められないんだよね。

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やめられない止まらない (TARO)
2004-10-12 22:40:48
僕はもう現役で演奏はしていないですが、音楽は楽しいですよね。

いっつも暮らしの中に音楽があるように・・・・・これはいくつになっても、ね。

音楽大好きですから。
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わっはっは (med-swing)
2004-10-12 23:51:42
なんか元気づくなあ。

今日のもきました(笑)。努力します。
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