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僕がディスクレビューをやらないわけ

2006-01-01 15:43:48 | 音楽一般
2005年中になにか書くとか言っておきながら、2006年が明けてしまった。
ただ単におサボリさんだったのでしたー(またかよ)。
とりあえず新年一発目の記事を書いてから、また酒飲もうと思う。

この前ね、ある友人から「なんでお前のブログではお勧めのアルバムとかの紹介をやらないの?、そういうの読みたい人結構いると思うんだよね」なんて言われたのね。
そんなん読みたいヤツぁいねーって(笑)。話のネタとしてアルバムを採りあげて誘い水のように使うならともかく、ブログに書かれたディスクレビューを真面目に読んで、本当に参考になるヤツなんていないいない。
僕が「ジャズ名盤100選」のようなレビューをここでやらない理由、以前にもどっかで書いたけど、それをもう一度はっきり書いてみようと思う。

皆さんは音楽を聴いて「優れている」と判断するときに、いったいどんな基準を置いていますか?。
「好き」もしくは「嫌い」を判断するときに基準はいらない。それはもう100%感覚。聴いてみて良いと感じるか感じないか。その根拠を突き詰めて分析すれば、そこに基準や傾向は見つけることができるかもしれないけど、基本的にそんなことをしなくても判断はつくし、その必要もないやね。
これが優劣の判断をする場合はそうはいかない。なにかを「優れている」「劣っている」と断じるときには、そこに明確な理由、というか基準が必要だと思う。自分の好き嫌いをイコール優劣とするような、つまり「嗜好」と「優劣」を混同してしか考えられないような利己的単純人間は論外としてね(笑)。
僕の場合その演奏(イコール音楽、としていいでしょう)を「優れている」と判断するときに基準としているのは、その演奏で出される音が「意図したコントロールの上に執り行われている」こと、そして「そのコントロールが隅々まで行き届いていること」かな。
でねでね、じゃあそれを言葉にして伝えるときにどう言ったらいいかって考えるとね、うーん・・・・・「繊細にコントロールされてミスのない完成度の高い演奏」とか「美しい叙情性を高度な技術で伝えきっている」・・・・・「自身の感情を完璧に音に変換することに成功した稀有な名演」とか?・・・・・しっくりこない。
やっぱ音楽を客観的に言葉で伝えるって難しいよね。

大晦日の昼間に自分の部屋で音楽聴きながら、某ジャズ評論家2人の対談を読んでたのさ。Bill Evans(ビル・エヴァンス、p)についてのことをテーマに、あれこれと語ったようなやつだったかな。
その2人は、1人はまったく演奏の経験や知識は無しで、もう1人は50を過ぎてから少々楽器をいじり始めたけれども、まぁ音楽理論は知らないに等しい・・・・・基本的に純リスナーサイドの人たちなわけね。
こういう人たちが音楽を評するときに、いったいどんな価値基準、判断基準を置いて、どういう言葉、文言を用いて評するのかというのは、僕はとっても興味があるのさ。なんでかっていうと、それは「音楽を理解するというのはどういうことなのか」っていう、リスナーとして音楽を楽しもうとする人にとって本質的な問いに直結すると思うから。だからああいう評論家の文章って僕はちょくちょく読むのよ。
彼らがその対談で、アーティストや演奏を評するのに使っていた言葉をいくつか抜き出して挙げて見ると、「聴き易い」「中身の濃い」「演奏の質」「音楽そのもののクオリティ」「表現の強度」「音楽的には凄く高度な深いことをやっている」「彼はスキルとして出しているのではなく本質として出している」「凝縮された表現力」・・・・・なんてとこかな。
面白いでしょ。
評論家ってこんなもんなんだよ(笑)。
この言葉をつらつらと読んで、そこから演奏を想像することができる?。僕はできないなぁ。
「聴き易い」これはまあいいでしょう。
「中身の濃い」とか「演奏の質が高い」、「表現の強度が強い」なんてのは、いったいどういう音を指して言ってるのかね?。
「音楽そのもののクオリティ」ってのは、音楽を評するのに「音楽そのもの以外のクオリティ」なんて論外なんでないのかね?。
「音楽的には凄く高度な深いことをやっている」って、高度ってのは技術的に高度ってことかな?、深いってのはなにが?、技術の蓄積?、それともモチーフの思い入れか?。
「スキルとして出しているのではなく本質として出している」って、さもなにか凄い神通力が働いているような言い方だけど、「スキル」は別に「出すもの」ではなく音を出すための方法でしかないし、演奏で出だすのは本質ではなくて単なる「音」だよ。そもそも本質ってなんだ?。「凝縮された表現力」ってのもさ、「表現力」って結局演奏者の「スキル」とイコールだし、それは出す音に反映されるけれども、音になってしまえばもう関係ないんだよね。
って、まあケチをつけ始めればキリがないんだけど、この人たちって結局何も言ってないんだなぁって。
思うのがさ、音楽ってそこからテレパシーが出るわけでもないし、なにか特別な力が働くことは絶対にない。魔法でも超能力でもなく単なる「現象」なんだから、出てくるのは「音だけ」なんだよね。最終的には「音という現象」でしかない。それにどういう影響を受けるかは聴き手の問題でしかないの。
どういうことかって言うと、どんなに強烈な印象や感動、影響を受けたとしても、その原因は「どういう音だったか」という現象面から必ず説明がつく物だって言うこと。
それがなんで、それで飯を食ってるようなプロの評論家でさえああいった抽象的な言い方しかできないのかっていうと、現象面から説明しようとすると、最終的には音楽理論と音響学の単純な数値化による測定というところにたどり着いちゃうから。
評論家の大多数は音楽理論なんて持っていないし、よしんば持っていてそれに基づいて評論を書いても、そうすると読み手側にも知識量が要求されてしまう。曲に対して物理的な数値化による検証なんてしようもんなら紙面がいくらあっても足りないし、そんなもん読むヤツいないからね(笑)。
上記のその対談でもさ、最終的に「フレーズは真似できても感覚は真似できない」とか「演奏の質って聴く人によって違う。その人の体調、趣向もある」なんてところに話が行っちゃって、その是非を論じていた。で、「演奏の質」ってなんなの?ってなって、「わかんないひとにそれを説明してもしょうがない」なんて言ってんの(ギャハハ)。

僕がこのブログでかしこまったディスクレビューを書かない理由はここにある。
音楽の評論って結局は、装飾的な言葉で自分の思い入れを押し付けるような抽象論か、理論にある程度踏み込んだ情緒性のない文章か、そのどちらかにならざるを得ない。あとは曲目やパーソネル、そして録音時の史実に基づく簡単なエピソードなんかをどっかからパクッてきて、適当に紙面を埋めてカタログ的に体裁を整えるくらいしかやることがない。
どうしたって文章で客観的に音楽の良さを伝えることなんてできっこないし、誰が書いてもありふれちゃうんだよ。
なにも伝えることができないんなら、やる意味がないんだよね。そういった文章は書いてて楽しくないし、僕は読んでも楽しくない。
書籍だのね、他人に任せておけばいいんだよ。

そんなとこです。
新年早々まとまりのないなげー文章になったな。
ベロベロ酔っ払ってるんで仕方ないか。

ではでは~ん。