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知識と耳、そして感性・・・・・

2006-01-11 20:34:04 | 音楽一般
うーっ、かなり酔っ払ってます。ヒック・・・・・。
そろそろ何か書かないといかんなぁ・・・・・ええと、いつもこのブログで「音楽を聴く上で知識は大事」だの「音楽を聴くために耳と感性を鍛える」だの偉そうなことを書いてるけど、最近ピアノ弾きの友人から、やっぱ知識と感性って大切なんだなって思わされる話を聴いたので、それについて書いてみようと思う。
より良く音楽を聴くには、具体的にどうしたらいいのかっつうような話しね。

ベートーベンの田園って曲があるよね。
田舎ののどかな田園の中、小川へと続く道を歩く。日は限りなく麗らかで、農夫たちが和やかに集う。雷雨が来て激しく地面を打つ、そして雲は過ぎ去って空は鮮やかに晴れ渡っていく。牧人は感謝と喜びの歌を歌い・・・・・ってな、そんな喜びにあふれた曲なのね。
この曲はね、オーストリアにハイリゲンシュタットという町があって(当時はウイーンの郊外だった)、ベートーベンがそこにある小道を歩いている最中に楽想を得たといわれているのね。そこは今でも「田園の小道」とか「ベートーベンの小道」っていわれて観光名所になってる。
友人のピアニストは学生時代にこの小道を実際に歩いたんだそうだ。
羨ましいなぁ。

ベートーベンって、父親にスパルタ式で無理やりピアノを弾かされる、厳しい幼少期を過ごしたのね。
で、17歳で唯一心許せる母を亡くして、酒飲みの父と2人の弟を養っていかなければいけない状況に放り出される。
そういった苦労を黙って耐え忍びながらウィーンでひたすら自身の音楽を磨いていたんだけれども、20代後半の頃から耳鳴りに襲われてだんだん聴力が減退していくという、さらなる不幸に見舞われる。
31だか2だかに、療養のために郊外のハイリゲンシュタットに居を移したんだけれども、一向に耳は良くならず、高まる不安と孤独感にこの頃2人の弟に当てて遺書を書いたりしてる。自殺しようと思ったってことかな?。
でもやっぱ音楽が大事で、自分の心の中に流れる音を聴きながら曲を書き続けるのさ。

で、この「田園」を書いたのは38歳のとき。ハイリゲンシュタットの例の小道を歩きながら着想を得たって言われてる。
幼少期からの苦労を耐え忍んでも報われず、音楽家の命ともいえる耳は聴こえなくなる一方で、常に孤独感に苛まれ続けている。人生決して幸福ではなく、何もかもうまくいかない・・・・・そんな時期にこの曲は書かれた。
自身の苦悩や虚しさを踏まえて、それでもあるがままに、この田園の春を悦ぼう・・・・・そんな曲なんだって。
そのことを知った上で、「田園の小道」を歩く。そしてまた「田園」を聴く(演る)・・・・・そこから得る感性への刺激、想像力の発露ってのは、もう一言では言い表せないほどのものがあるだろうね。
わかるかな?、感性を鍛えるということ。
音楽って作者や演奏者だけじゃなく、聴き手側にも想像力は必要なんだね。それにはたくさんの知識が必要になるっていうこと。

音楽を聴いて感じることって、例えば絵画を見て感じることや文章を読んで感じること、さらにはもっと些細な、空や海見て綺麗だなって感じたり、空気の冷たさに季節を感じたり、人と触れ合って気持ちを通わせたりっていう、そういった感性となんにも違いはないんだっていう、考えてみれば当たり前のことを最近あらためて思うようになった。
他人の気持ちを感じ取ろうとする人間性、小さな事柄からも様々な変化を感じ取ろうとする繊細さ、そういった感性って同じ繰り返しの日常生活の中で鈍化していきがちなものだけれどもね・・・・・視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚のすべてから感じ取れるということ、そうあろうと務めること。
そして情緒や情感を感じ取ろうとするなら、その人自身もやっぱり感情が豊かじゃなければいけないと思う。小さな事柄にも自分の感情を大きく動かすことができること、そしてそれを他人に、言葉や表情できちんと表現することができること。
そういう人の生活ってのは、素晴らしく豊かだと思う。
それって、音楽を感じることにすべて通じているんだよね。

あと「耳」を鍛えること。
技術だけが音楽のすべてではないけれど、演奏が技術的に高度であるかどうかを聴き分けることはやっぱり重要だと思う。
音楽における表現って、すべて技術によってなされるものなんだからね。
これはね、自分の好きな音楽に造詣の深い人、できれば演奏者が良い。そういう人を師匠にする(笑)、それが一番近道かもしれない。
その人と一緒に実際に演奏を聴きながら「この曲はこういう動機付けで書かれた曲で、こういう意味がこめられているんだよ」「この演奏のこの部分、ここがが技術的に高度なことをやっているんだよ」「これと聴き比べてみるとはっきりと違いがわかるでしょ」などとレクチャーしてもらうのが一番の近道だと思う。
僕もね、師匠はいっぱいいますよ(笑)。

耳を鍛える。そして知識をつける。
たとえ卓上の「お勉強」でも構わない。知識はあるに越したことはないよ。
そして常に感性を研ぎ澄ましておくこと。
そう努めれば、音楽を聴くことは驚くほど楽しくなると思うよ。

ムハハ、今日もなんのまとまりもない文章で偉そうに語ってしまいましたね。
しこたま酒飲んでるしね・・・・・仕方ないか。

ではではーん。


7 コメント

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思い描くこと (penkou)
2006-01-22 00:53:23
チョット失礼してTBさせていただきました。酔っ払って!という共通点だけなのですけど。なんか無理やりですけどエバンスをささやかに記載しましたし・・・



ところで「田園」のところを読みながら考えていたのですが、僕たちは「田園」を聴くと解説をすでに知っているのでここは小川のせせらぎとか、嵐とか思いながら聞いてしまいますよね。ロッシーニのウイリアムテル序曲の嵐もそうです。



ふと思ったのは、杉本博司という写真家の「劇場」というアメリカの映画館を撮った作品を見たときに、すでにこれは映画一本を上映しているのをレンズを開きっぱなしにして撮ったことを知っているのです。たいていの人は。そしてそれを前提にして論議し評価する。仮にただスクリーンに光を当てて露出を決め撮ったとしたらあれだけ評価されたか?どうも気になって

います。



TAROさんのこの論考でのテーマとはちょっと違いますが、一瞬触れているところもあるような気がしますので書いてみました。どうでしょうかね。
返信する
>penkouさん (TARO)
2006-01-22 02:25:32
や、こんばんはです。

お互い酔っ払ってダメダメですなぁ・・・・・って、失礼かな(笑)



僕は過度に傾倒しているものが音楽しかないので、音楽を範例としてしか物事の基準を語ることができません。

それを前提に聴いてくださいね。





>そしてそれを前提にして論議し評価する

>仮に~~としたらあれだけ評価されたか?



されないでしょう。



僕は杉本博司という写真家の「劇場」という作品を知らないので、正直なんともいえないのですが・・・・・。



これはどんな技芸、芸術でもそうなんですが、知識を持って初めて感じ取れる側面は必ずあるということだと思います。

だから僕はセッセとジャズの「お勉強」をしているんです。

その芸術が成立した時代背景、世情、動機、を知識として知れば、受け手の感慨や感動は必ず大きくなると思います。

「予備知識」って、感性を研ぎ澄ますためには重要ですよね。



ただ、予備知識なしで「自分の感性のみでまず感じてみよう」という姿勢は、受け手側としては重要だと思います。

まずそこから入って、それ以降興味が膨らめば「お勉強」していけばいいし、興味が膨らまなければ、それは「作品に魅力がなかった」か「受け手としての感性が未熟だった」かのどちらかだということだと思うんです。

「興味を懐かせる」というのは、その作品の持つ力であるわけですね。



何かに対する興味の範疇がどこまで伸びるかというのは、それはもう人それぞれだし、それ自体は良いことでも悪いことでもありません。

ただ「ジャズが好きだ」と思い込んだからには、貪欲に吸収して、より多くを感じていきたいですよね。

そのためには知識は絶対に必要だと思います。

よく「音楽に理屈はいらない。感じればいい」なんてことを言っている人がいますが、あんなもん嘘っぱちだから!(笑)。

・・・・・って、いやいや、どうも発言が暴言になりがちですね。

酔っ払いなのでご容赦いただければ・・・・。



ではでは。
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輝いている (penkou)
2006-01-22 10:12:00
一転快晴。雪が輝いています。すぐに解けちゃうのでしょうが・・・

このお天気にふさわしい明快なお考え、僕もほんとにそう思います。とても酔っ払っているとは思えない!杉本博司の作品は、僕の書いた前提ナシでも多分心を打ちます。そして考え込んじゃいます。僕もますますJAZZを探っていこう!有難うございます。
返信する
Unknown (penkou)
2006-01-23 13:30:25
チョッと言葉が足りなかったような気がしています。

もう既に僕は「劇場」をなぜ撮ったか、そしてどうやって撮ったかを知っていて観た(視た)のでして、もしそれなくして視た時にどう思ったかは、良くわかりません。

写真の見方も様々で、なぜこれを撮ろうとしたのかな?とかこの映画館の装飾はなんとしたことか!とか、微妙なプリントの濃淡に唖然とするとか、ということはあるのでしょうね。しかし観に行こうとしたのは既にそれらを知っていて好奇心を刺激されたからで、そうでなかったら見る機会はなかったかもしれません。

でも時折何気なく立ち寄った画廊や展覧会で、愕然としたということもなくはないので、そのあたりが考えてしまうところなのですが、それがTAROさんが言われる「受けてとしての感性」ということですね。
返信する
>penkouさん (TARO)
2006-01-23 20:58:38
こんにちは。

僕の言わんとしていることとpenkouさんの考えられていることは、概ね一致しているようですね。





>なぜ撮ったか、そしてどうやって撮ったかを知っていて観た



そういうことですね。

やっぱりその作品の背景や動機、生み出されるに当たって駆使されたノウハウの膨大さというものを知っているのといないのでは、感じ方は大幅に異なってくるということだと思います



なにかの芸術作品を鑑賞するときに、予備知識まったくなしで「そのものだけ」から感じ取るというのが、やはり一番純度の高い(へんな言い方ですが)鑑賞のしかただと思うんですね。

ただ、現代に至る中で人類が生み出してきた表現の様式とか方法論といったものは、個人の感覚のみで理解できるほど単純なものであるはずがないんですよね。

また、また表現しようとする感情や情緒の機微といったものも然り、自分独りが短い人生の中で感じて「知っている」と思っている感情や情緒なんて、人類が長い歴史の中で感じとって表現しようとしてきたそれに比べれば、もうハナクソみたいなものなんですよね。

だから、僕ら芸術の享受者?(笑)としては、人間にはこんなに複雑で奥深い感情、情緒があるんだということを、もっともっと知らなくちゃいけない。

それを表現するために、人類はこんなに繊細で洗練された方法論を生み出してきたんだということを、もっともっと知らなくちゃいけない。



例えば現代音楽や、絵画でいえばピカソの「キュビスム」とか・・・・・やっぱどっからどうみてもわけ分からないものってあるじゃないですか。

でも、それが単に奇を衒ったものでなく、研鑽の歴史の上に生み出されてきた表現方法である以上は、そこに表現する動機や必然性といったものは必ずあるということです。

デタラメやってるんでは決してない。

それを鑑賞者側が理解して感じ取るためには、やはり単純明快な感性では無理ですよね。

そのために「机上の」であってもいいから知識をつけることは近道だし、いい作品をたくさんたくさん鑑賞する必要があるということだと思います。

感性を育てるということですよね。





>もしそれなくして視た時にどう思ったか



僕らは願わくば、予備知識なしで「作品そのものだけ」に対峙したときに、そこにある表現を感じ取れるくらいまで感性を高めたい。

最低でも「お、なんだかよくわからないけど、これはなんかあるぞ!」くらいは感じ取りたい。

理解しきれないものを「ダメ、わかんない」って視野から締め出してしまうような単純な人間にはなりたくない。そういう人の生活って、情緒的に凄く貧しいですよね。

僕は豊かに(経済的にではないですよ)暮らしたい。

やっぱり「お勉強」は大事です。



逆に、技術的にははるかにレベルの低い平易なポピュラー音楽が万人に受けて、ジャズやクラシックよりはるかに大きなセールスをあげてしまう理由もここら辺にあります。

内包されている表現やその方法論が単純で、育ってない感性、鍛えられていない感性でもとりあえず理解できるから。

ポピュラー音楽のすべてが単純平易だといっているわけではないですけれど、ね(笑)。



うーん、どうも延々と語ってしまうなぁ。ごめんなさい、酒癖悪いですね(笑)。

この辺にしておきます。



ではでは。
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わかりますか? (ななし)
2009-10-05 20:23:00
父 母 耳 海 雲
の共通点わかりますか?
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>ななしさん (TARO)
2009-10-05 21:07:27
すべて2文字の言葉であるとか・・・・いや、ウソウソ(笑)

わかんないですね。
教えてください。
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