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箱根旅行雑感~オープンマインドということ~

2005-10-31 17:00:07 | 音楽一般
先週、古くからの音楽仲間と2人で箱根に2泊3日の旅行に出た。久しぶりにとっても楽しかったので、感じたことを徒然に書き殴ろうと思う。
今回の旅行に同行した友人は、クラシック音楽に造詣が深くて自らも演奏をする人。
その人は芸術全般に関して、自分の感じたことをいつもロジカルに理解して言葉にすることを好む僕とは対照的に「良いって感じるんだからそれで良いじゃん。なんでそう感じるのかはどうでもいい」って感じの、右脳型の人なのね(笑)。ただ小さい頃から正規の音楽教育をきちんと受けてきただけあって知識の量は半端ではないし、芸術に関する感性は目も耳も、僕なんかよりはるかに多くを繊細に感じ取ってるのさ。そういった部分で僕はその友人を素直に尊敬しているし、音楽を聴いて楽しむ上でもかなり影響を受けてる。
そんなふたりが、あちこちの美術館を見て回りながら、音楽をはじめとした芸術全般に関して延々とくっちゃべる。夜も宿泊先で温泉に浸かったり美味いもん食ったり、さらに酒を飲んだりしながら深夜まで語りまくる。
芸術と酒と温泉と美食の自堕落旅行・・・・・傍から見たらメチャメチャうるさかったろうなー(笑)。

そんな旅程の中で主に話題になっていたのが、前衛的な抽象芸術のお話。
音楽で言えば現代音楽やフリージャズ にあたるかな。芸術の中でもああいった難解なものって、表現したい動機が先なのか、コンセプトが先にあるのか、どっちなんだろうって・・・・・そんなことを延々と話しながら、あちこちの美術館を見て回っているうちに「ああ、芸術のある分野が難解だっていうのは、前衛的であるかないかに関わらず『異質だ』ってことなんだな」って思い至った。
前衛って、その時代において新しい試みであるということで、決して「前衛であるから=難解」なんじゃない。その時代もしくはその文化圏において広く認知されている方法論から見て異質だから、受け手側は難解だと感じるってことかな。
現代音楽等の前衛的で難解な様式を持つ音楽、または音楽以外の抽象芸術にしても、やっぱり表現したい動機付けがあってこそ生まれてきたものであって、決してコンセプトが先にあるわけじゃない。これは確実にいえると思う。それまでの表現方法が飽和状態で限界が見えてきたという側面は大きくあったかもしれないけど、表現するべきモチーフそのものも時代によって変化、発展、多様化するものなわけだからね。

今回見て回った美術館の中で、典型的な日本庭園を持つところがあったのね。
一面苔むした中の紅葉しかかった背の低い木々をくぐり抜けるようにして石畳を進むと、庭園の隅の小ぢんまりとした茶室が見えてくる。こんな感じ。
凄い!、美しい!!。
木々の間隔や敷かれている石畳の道幅、湾曲した小橋の角度や萩の植え込みの本数や色合いに至るまで、強烈な思惟と作為を感じるけれど、全体として見ればそれほど秩序だっているようには見えない。決して自然のすべてを強引にコントロールしているようには感じられないのね。
例えばさ、これが西洋のお城やなんかの庭園だったら、がっちりと長さの統一された芝にバシッと刈り込まれて形を整えられた植え込みが左右に等間隔でバーンと並んでてさ、中央の大きな石畳からこれまた等間隔に横道が出ている。中央には極めて均等の取れた幾何学的な造形の噴水がある。その一番奥に絢爛豪華な洋館や石造りのお城の本丸が堂々と見えてくる・・・・・って、そんな感じになるでしょ。
美的感覚が洋の西と東では大きく違うんだね。
ジャポニズムってあるじゃない。19世紀に入って、西欧の芸術に日本の絵画や工芸の様式が取り入れられていった流れね。「箱根ラリック美術館」にあったガラス工芸家「ルネ・ラリック」のその時期の作品で、3面の衝立の左右に対称的に木が立っていて、中央の右寄りに下方に小鳥が1羽、左より上方に2羽飛んでいるという、そんなのがあった。これがさ、ジャポニズム以前の従来の西洋的な美的感覚だったら、左右の小鳥の数と位置は一緒だったはずなんだよね。
ジャポニズムって、例えば絵画においていち早く取り入れていった画家たちっていうのは、ゴッホとかマネとかゴーギャンとかね、その時代の前衛と呼ばれていて、画壇からは異端として扱われ、公式のサロンからは締め出しをくっているような人たちだったそうなのね。
なんで異端とみなされたか、なんで締め出しをくったか・・・・・それってやっぱり「異質だったから」だよね。
シンメトリック(対称的)で規則的に秩序だった造形が良しされる当時の西洋の芸術と、自然と人為のバランスにおいてアシメトリック(非対称的)な造形に絶妙な調和を見出す東洋の審美基準。狩猟民族で、自然と隔絶して生活して、自然を完全に人間の作為においてコントロールする発想の欧米の美術と、農耕民族で、自然の中に暮らして自然と人間の作為のバランスの中に美を見出す日本の美術。
宗教観にもこの違いは顕著だよね。絶対的な神の領域を描くことを良しとした中世ロマネスクを伝統に持つ西洋美術。対して日本の古代の宗教観は「万物すべてに神が宿る」というとってもファジーかつ寛容な(笑)なものだった。
さらに生活様式や言語によっても審美基準や表現方法は変わってくる。これは東西のどっちが良いとか優れているとか言ってるんじゃないよ。

ただね、その時代や文化、さらには個人の審美基準にそぐわないものを「ああ、これはだめだ」と否定してしまう感性では、感じられる情緒の幅はあまりにも狭いなって思うのね。未知の審美基準を否定せずに理解しようと勤め、取り入れ、また試みてきたからこそ、各芸術の発展や進化があったのであり、引いては審美基準もそうやって広がってきた。ジャポニズムにせよ、前衛音楽にせよ、抽象芸術にせよ、ね。表現者の「異質なものを理解しようという知的な欲求」「新たな様式を試みようという意欲」「より多くを表現したいという貪欲さ」そういった優れた感性によって、芸術は形作られる。
優れた、後世に名を残す芸術家たちは、その時代時代の範疇で、常にオープンマインドだったんだね。

でさ、「彫刻の森美術館」でピカソの彫刻やら絵画やら、例の有名なやつを眺めてきた。こんなやつね。イヤーッ、もうさっぱり!、全然分かりませんでした(笑)。
これは「キュビスム」という「描く対象を複数の焦点から眺めて、それを合成した図象で表す」とか「3次元の物体を2次元の平面に置き換える」といったコンセプトの技法らしいんだけど、 わかるこれ?、わかんないよね(笑)。ピカソって、名前だけなら誰でも知ってるってくらい有名な巨匠でしょ。でもその作品は素人には全然理解できない。こんなもん誰だってわかんないよねぇ(笑)。
印象派の出現によって対象や色彩が分析、分解される。後期印象派に至ってデフォルメが施され、構図の取り方が写実から離れる。これらの絵画に内包された表現を理解するには、やっぱり見たまんまで感覚的に捉えているのでは限界があるよね。
でもこれだけの巨匠といわれている人がやることなんだから、絶対に何某かの理由や必然性があるのは間違いないと思うんだ。興味がわいたので、ちょっと「西洋絵画の歴史」なんてもんをお勉強することにした。現在それに関する本を貪るように読んでる。
どんな芸術でも前衛的になればなるほど、作者が「なぜその技法を用いて表現するに至ったか」を知らないと、深く踏み込んで感じ取ることはできないと思う。作者はなぜそれ以前の技法に拠ることを選ばなかったのか、旧来の技法にどんな限界を見ていたのか、「新しい技法で何を表現しようとしたのか」を知らなければいけない。旧来の技法では表現できない領域が動機付けとしてあったからこそ、新しい技法、様式が試みられて、時代を経てそれが前衛から一分野へと定着していくわけだ。

今回上記の日本庭園のある「箱根美術館」で、日本の古陶磁器なんかも見てきた。茶器とかね。僕の興味や知識の範疇外の分野ではあるんだけど、それなりに楽しかったよ。
それでさ、鑑賞しながら僕の大好きな番組「開運!なんでも鑑定団」で、中島誠之助さんが依頼品にダメ出ししたある場面を思い出したのね。あれは瀬戸黒の茶器だったかな・・・・・そのときね「この茶器は、形式的な造形においては完璧です。すべての条件がそろっていて完璧なんですよ。でも残念ながら本物ではありません。何が足りないかというと、歴史の重みがないんです」って言ったのね。それで「それを理解するには、もうとにかく美術館に行って朝から晩まで、いい作品をたくさんたくさん見てください。見て楽しむことをもっともっと積み重ねてください」って言って、その発言を締めくくっていた。
僕ね、この発言にはかなりの衝撃を受けたんだよね。
この人って、陶磁器に関する机上の知識も半端じゃないじゃないでしょ。そういう人が、最終的には感性を研ぎ澄ますことにすべてがあるんだよっていう旨の発言をすることの凄さっていうかさ・・・・・そんな感性を持っていることを心底羨ましく思った。
今回の旅行で同行した友人もね、一緒に音楽を聴いてて僕よりはるかに色々聴き取って感じていて、もう本当に嫉妬を覚えることが頻繁にある。

現代に生きて芸術の楽しみを享受する僕らも、常にオープンマインドでありたいなって。感じることに貪欲でありたい。そうでないと単純に損なんだよね。常に感性を柔軟に、生理的に難解なものや異質なものを否定せずに、理解しようと勤めること。音楽にせよ芸術総体にせよ、より楽しむためにはそういうオープンマインドが絶対に必要なんだ。形から入るのでも、理屈から入るのでも、机上の「お勉強」でも、それは決して馬鹿にしたもんじゃないんだよ。
そして、たくさんたくさん見て、聴いて、感じること。
知ること、感じることのどちらが欠けても片手落ちだよね。
今回の旅行ではそんなことをヒシヒシと感じてきました。
やっぱ旅行はいい。
非日常で知らない風土や異文化に触れるっていうのは、感性をフレッシュにするし「もっと知ろう、もっと感じよう」っていう意欲を新たにさせてくれる。

また音楽を楽しく聴いていけそうだ、なーんて(笑)。