緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

顕在意識の中だけで生きていると……。

2024-06-11 | 魂・潜在意識
  顕在意識の中で潜在意識と共に生きているという話をしていますが。
それがほぼ顕在意識がこの世の見える世界だと。
潜在意識は魂で、源で、心の奥の奥で繋がっていると。

そして顕在意識の中でも魂と肉体の心(この世に生まれてきて最初の親に育てられた元になっている心)
その顕在意識の中でも水面下の心とか考えや思いと、表面の態度や言葉や行動とが食い違っているといそんな話をしていました。

自我が目覚めることなく、自分に向き合うことなく、自分の外側にばかり意識が行っている人が多い世の中になってしまっていると。

幼い赤ちゃんの時に一度目の自我の目覚めがあり、青春期などに二度目の自我の確立という事になるんだけど、それが反抗期という事でもあって、親の世界観と違う外の世界を知るという、
その辺から環境や観る視点や視野の方向で自我に目覚めて行かないと自我がいつしかエゴとなり、
実際私は母親の世界が正しいと信じていましたから反抗期はありませんでした。だから高校生ぐらいの時は絶対的に自分は正しいと思っていたし、みんなを世話してたし、統率してたし、それはみんな同じ世界観だと信じ込んでいたのでした。
多分、外にばかり意識が向いてしまい、外側への自己承認欲求が強くなってたと思う。
だから結婚を機にカルチャーショックが大きく、悩む事となったもんです。

そのエゴも最初は自分を知るためだったはずなのに、
憧れたり、真似たり、比べたりしながら自分を認識するのを見失ってしまうのでしょうか。
その相手は最初は親だったり、友達だったり身近な相手からどんどん広い世界へ広がるともっと自分を見失う。

そのまま自分を見る事、客観的に観れなくなって、自己承認欲求が強くなる。
その根底にはいろいろな感情を学ぶためでもあるので、
同時進行って何でも難しいんでしょうね。
そこの下に育った環境に愛が溢れていたり、愛の絆が強いと心が守られながら自分を見ることも自分に自信をつけることも出来るんでしょうが、

みんながみんなそうではない、環境は違いますから。
その育てている親だって親に育てられていますから。
環境の違いを言い合ったところで仕方がない。
産まれて命を与えられたことだけが平等なんです。

二日ほど前に朝ドラの話で、その時代に新憲法が出来て平等だの個人の尊厳だのが決めれたと言いましたが、
それが始まりで、未だに変わっていないという話。
個人が生まれて、生きて気づいて行かないと変わらないという事でした。

その顕在意識の中での心の水面下と表面のバランスが取れていない人。
当の本人は自分に気づいていない、気づいたとしてもバランスを取ろうとしない。
それが自我で、強いエゴとなっている。

変わろうとしない、成長しようとしない。
エゴが強くなるといつしか自分の世界に籠ってしまう
自分の潜在意識にも気づかない、
全てが繋がっている広い潜在意識の世界にも気づけない。

そしてエゴの中で傲慢・高慢・我慢となってしまう。
例えば、高齢になると眼や耳が制限がきつくなる人が増えますが、
多分に広がる事を避けエゴの中(顕在意識の中)にいる人が多い。

私の母親も至ってそういう性格です。
もとは凄く愛ある人で優しい人間ですが、
人間関係が苦手、人を信じない、自尊心が低い、人間関係を持とうとしないので自分の世界観だけを正しいと思っている。
その母親が、50歳の時に三叉神経痛を発症、高齢になって白内障でレンズが曇る、緑内障になる、肋間神経痛
三叉神経痛は祖母と同じ、性格もよく似ている。

私は母親が三叉神経痛を発症した時が結婚の時で、その時から心や感情や見えない世界を学び始めた時。
多分母親も本当はそんなきっかけだったと思っている。
神経は神の道です。もっと広がり自我に目覚めるきっかけだったと。

それをせず、外側の神様を求めていたし、自我は閉じ込めて行った。
多分色んな環境がそうしたとは思うけど、
時代の背景もあるので自我を目覚めるのも難しい時代だったし。

三叉神経痛は目のまわりの神経、見える世界の心の眼ばかりでは心の眼は成長しません。
現実の眼に制限がかかるのも理解できます。
眼が曇る、視野が消える。
そうなっちゃうのも理解する。
自分に気づき、自我を知り、心の視野を広げ、心の眼を使うとまた世界観は変わるだろうに。

耳だってそうです、心の耳を使おうとしない。
人の話しを聞かない、聴こうとしない、聴いているようで聞いてない。
人の話しを自分の世界観だけで理解しようとする、

それだと顕在意識の肉体部分はそりゃ劣化するし老化するでしょう。
たとえそうなったとしても心や潜在意識と共に生きようとすれば、
機能が回復するわけではなくても見えるようになったり、聞こえる様になったりするのです。
機能が回復しないと言っても、細胞は常に生まれ変わっていますけどね。

肋間神経痛でも肋骨というのは肉体の要の心臓だったり、その心臓は心だったり、それをガードしている部分ですよね

もう既に心臓や心が壊れそうだよという、もう守れ切れないよ~ってSOSを出しているんではないかと思うんですよ。

自我をしっかり観ていない人は自分が吐いている言葉にも気づいていない。
心の奥とは心、心と言葉は裏腹だったりというのはそういう事だと。

人に向いていながら自分を傷つけている。
自分の機能を傷つけて劣化させている。

最近その母親を眼科に送り迎えしているのですが、
会う度に目が見えない、耳が聞こえない、肋間神経痛が痛いと言います。
昔は孫にも神さんが何でも治してくれると言っていたのに。
未だに神さんは信じているのに。自分は信じていない。
眼は白内障の手術もしているし、緑内障の目薬や投薬もしている。
耳も既にテレビのボリュームも50以上です。

足もおぼつかない、ふらふらです。
勿論87歳なので仕方がない老化を受け入れないといけない年齢ですが、

まだ買い物の押し車は使いにくいとか、杖は使いにくいとか、
昔から老人クラブやそういう老人というものの価値観を否定している。
すっかり自分は老人だというのに。

三叉神経痛というと顔面神経痛と似ていて、風にあたっても痛い、クーラーも痛い、ご飯食べるのも痛い、そんな感じです。

母親を車に乗せる時にはクーラーもつけない。
でも炎天下に迎えに行く時には、着くまでに車内を少しは冷やしておかないといけない。
そうするけど、10分ぐらいで到着するのでまだドアの内側とかは熱いんです。

そしたら、車熱いなと言います。
今日は外が暑かったからね~と言いますが、聞こえて無いです。
今クーラーで冷やしたんやけどね、まだドアは熱いかもねとか言いますが、
私はクーラーなんて絶対アカン!もっての外や!!とか言います。
もちろん母親が乗る時にはクーラーも切ってますが。
人の気づかいなんて気にもしないわけです。

そして私が大きな声を出してでも喋れば良いのですが、運転中ですから話さないでいると、空気を感じるのか言い訳してきます。
耳が聞こえへんねんとか、もう年やからと。
言い訳というのは自分の心と言葉が違うのを正当化するものです。
分かっていても認めない。

聞こえない耳であっても、私がどんな人間かなんて考えていないので、どんな言葉を発してくれるかなんて考えもしない。
自分の勝手解釈で応えてきます。
それが知っててなら知りませんよ、それは気が悪いだけです。
自分のしている事、自分が発している事を認識していないだけです。

聞こえない耳であっても人の事を理解しようと思ったり、聴こうとしたり、意識を相手に向けたりすることで変わって行くのです。
自分の事を認識する事でしか成長は無いのです。

病気や劣化や老化が悪いわけではない。
その性格や心が悪いわけではない。
ただ魂は教えてくれている。
成長のために。
顕在意識だけではなく潜在意識と生きるため。
心の眼、心の耳を使うという事は潜在意識と通じているからです。

本来、顕在意識は氷山の一角と言われていると話していますが、
そして顕在意識の中で自分が生きていると思っているけど、潜在意識によって生かされている。
その潜在意識は奥で繋がっている。
だから無視はできないんです。

そう出来ていないと、どうしても生き辛くなってしまうんです。

潜在意識の繋がりの中で宇宙意識・神意識で生きるためです。


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