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緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

あとりえ "ぽみえ"

∞美容室です・・・完全予約制でマンツーマンでの完全技術∞ しっかりお話を聞き、丁寧な美容技術を提供させていただきます∞ 10:00~15:00(当日予約・時間外OK)不定休・・・ ★カット★カラー★パーマ★セット★着付けets.   ★スピリチュアルな会話もセッションもオーケーです ★

へその緒を哲学しよう (*^^)v

2024-10-03 | スピ的視点

へその緒の話をしていて、二日間途中でスルーしてました (^^;)
赤ちゃんとしてこの世に命を授かって細胞が肉体を作って行く時に母親からの栄養を得るためのへその緒 (^.^)

そのへその緒はただ栄養を取り入れるだけではない、
字の意味のごとく、「緒」は糸の端、いとぐち、物事の始まり、きっかけ、つなぐもの。
赤ちゃんは精子と卵子が融合して肉体を作っていきますが、最初に出来るのは血管だと言わええています。
私は心臓なのかなって思っていました。
血管が出来て、バイパスが出来て、それから心臓なんだそうです。

そういわれるとその方が腑に落ちたりしますよね。
母との血縁やそこから派生している血縁からきっかけができ始まり、
それによって心の部分が作られていき、
そこから自分の人生の糸口を探していくという。
何とも不思議な神秘な生命の誕生だなと思います。

そのへその緒はこの世に出てくると切ってしましますが、
そこには見えない絆が繋がっているのです。
心にしまわれているという。

それを母なる大地である導きと天の魂・神様の導きによって始まっているのだと。
「天地人」で繋がりながら生きていくんだなと (^.^)

それは導きでもあるけど、人間の個は二本足で自律しながら自分の人生を歩んでいくんだなと !(^^)!
そう人間は自立(自律)するために生まれてきたんです。
ちゃんとアンテナを立てながら繋がりながら生きている。
自律のアンテナは自律神経でもある。

肉体のバランスを取るためにも自律神経って凄く大切です。
人間生きている時には肉体レベルと精神レベルと同時に考えて生きていないといけない事がそこからでも理解できます。

いつも私の指針ですが「魂と体と心」のバランスです。
その「魂と体と心」が繋がって自律して精神的に独立しながら生きていく事を魂は導いている。
魂は自由に生きるためにこの世に生を受け肉体を与えられ心を育てながら生きている。

そんな始まりのきっかけでもあるへその緒、
それを切った時に人間は、独立・自立・自律・自由が始まっているのです。

その独立・自立・自律・自由を学ぶために体験が始まり、
壁にぶつかり、壁を超えるための人生を経験している。

親をも越える、子供も自由に放つ。
人間が作った意識の壁をドンドン超えていく。

人間が作った意識、それは想念だったりするもするけど、それに囚われている自分をどんどん解放してやる。

人間が作った想念、たとえば昭和時代であれば、義理・義務・人情・責任などがありますが、本当の意味で本質と向き合えばその先に自由があるのです。
その想念を作ったのが愛だとしても、それを手離し解放されるのも愛だと知る。
その先に魂の自由がやって来る。
自由解放が有ったとしても、自分の奥には見えない魂とのへその緒が繋がっているのです。

肉体の最期を迎えたとしても意識は必ずその見えないへその緒の奥へ魂が魂の源へ戻って行くのです !(^^)!

へその緒はたかがへその緒ではない、見えない繋がりの糸です (*^^)v




へその緒

2024-10-01 | スピ的視点
子供って、へその緒が母親と繋がっていて、産まれてくるとそれを切りますよね。
そのためか、母親との絆とか、信頼関係とか、縁も深いと思っています。
縁も色々でいつも言うように良いとか悪いとかはそれぞれ生きている人間が価値観で決める事なので、魂のバランスを取るために選んできた縁です。

娘でも息子でもです。
産まれてくるとそれぞれの人生が始まり自律へ向かって成長していきます。
母の子宮は産まれてくるために借りるだけ。
それでもへその緒を切っても観えない糸で結ばれています。
その糸は愛で、心の故郷となり自律するのにも、安心感とかになり進めると思う自信となったりします。

中には、母親との縁が薄かったとしても、その奥の宇宙とは繋がっていますから、そんな人には何か学びの課題があるのでしょう (-_-)
もっと奥の大きな魂の縁とかを学ぶという大きな使命とか役割もあるという事です。

自分の心の中には必ず魂の源と繋がっていますから(^.^)
母なる大地が導いてくれるというのが母親との縁です。
それでも現実の世界では肉体の縁もあります。

そこで勘違いが起こってしまうのでしょう。
産んだ母親は子供を自分のものだと勘違いし、
子供も母親が絶対的存在に (>_<)

あぁ~……、アカン!
今日は忙しくて夜になってブログ記事書いているんですが、
今テレビでドレミファドンがやってて、80年代の歌謡曲当てクイズなんですよ!!
めちゃ歌謡曲好きで全然手が止まって歌ってしまい、進まない!!
ここらでブログ止めます笑笑




価値観の違いの浄化。

2024-09-30 | スピ的視点
  冠婚葬祭には価値観の違いや人間関係が絡み交差するという話でもありました。
本来なら単純に、結婚時なら幸せを分け合い交じるんだろうし、葬祭の時には慈しみ悲しむといった感情が交差したりする。
なのになぜか感情が絡んだりするのが邪魔くさいなと。
それは各々のそれぞれに対する価値観が違うからなんだろう。
誰もが論争したい訳でもなく、喧嘩したい訳でもなく。
結婚なら門出を祝えばいいし、葬儀なら故人を偲び慈しみ尊重すればいいのに。
すんなりそうならない事が悲しい。
人間は美しく生きると望むのに、醜さが現れる。

葬儀の時なら故人を偲ぶために、そしてその人の人生をそのまま尊重してあげるためにいろいろ話してあげることが良いと思ってたりするんだけど。

あんな事もあったね、こんな事もあったね、悪かったことも良かったこともその話をしてあげる事で浄化してあげると思ったりしてるんだけど。

そんな事すらもしないで、死んだ途端に急に片付けだの家の処分だの。
兄夫婦とそんなスピードについて行けないという話を昨日にしていました。

今までの付き合いや、母親に対しての思いも違うから当たり前だろうけど。

「思い」はきっと同じなんだろう、母への甘えや愛や思いやりや依存やその思いもカタチが変わります。
なので、「思い方」、「感じ方」や表現が変わると全く違うものになるんですね。
そして、その「思い」でも最終的に愛だとしてもです。
だからお互いがその違いを知って理解しあって交われば良いんだろうけど。
これも人間性の次元が違うと全く交わりません。

それが悲しいなと思ってしまうし、気を削がれるから疲れてしまうのですね。

母が生きている時にはこんな事も肉体の心ですから知る由もなく、気づきもしないでしょうが、まさに私の母も気づきませんでした。

でも肉体を離れると、魂ですから気づくのです。
それを浮遊して観ているし、案じているでしょう。
なんていう念と宿題を残してしまったと後悔するかもしれません。
後悔したとしてももう届きません。
その魂の後悔を理解し自身が浄化して消すしかなく、自ら(魂)が光るしかない。
肉体の経験なしに理解するしかないんでしょう魂も。
それは子孫の理解成長進化が届くか届かないかです。


私は母親が救急車に運ばれるときに、お腹がキュルキュル来て起きてトイレに行ってから知らせが来るまでの間たまたまウトウトしていたんですが、
次の日というかもうその日、長女もおばあちゃんのところに行く日だったので、私も母親の髪の毛を切りに行こうと思っていて。
そしてその時に今まで思っていた事、我がまま過ぎる母に対して思う事や考えをぶちまけようと思っていました。
母親と私が歯車が狂ったように母はみんなに言いまくっていたので、なんでそうなったか、母の我がままの全てを今まで言えなかったことを言うつもりでいました。
私は母親の言うとおりに生きてきました、母親は自分が言った事を忘れたり自分だけで反省したりします、私には絶対謝らないし訂正しない。
言うとおりに生きて来たとしてても、私と母親の人生は違います。
出逢ってきた人の数も違うし、その分価値観の上書きの数も違います。

母は子離れが出来ていなかったんでしょう。
自分の思い通りに娘が生きて来たと思っていたのに自分の考えや世界観からどんどん離れて行くのが嫌で腹立っていたんだと思います。
だから私に腹立っていた、でも多分自分に腹立っていたんだと分かっていたと思います。
私と同じで自尊心も自己肯定感も低いですから、だから自分の母親、私の祖母の事も嫌いだと言ってました。
そこをクリアできないと、自分が生まれて来た事すらも受け入れられないと思います。
だから自分を好きになれない、自分を認められなかったんだと。
それをすべて私にある意味押し付けて来た。
だから段々私が自分の意志や考えをもつ事がどうしようもなく寂しくてそして腹立ったんだと思います。
私は母親を見てそれを気づき学びました。
そんな気づきが有ったので、ある私の誕生日に感謝の手紙を書きましたが、その数年後の父親の三回忌の時に私のその手紙を恨みの手紙をよこしたと言いました!
その事は私は凄くショックできつかったです。
何で感謝の手紙が恨みの手紙になったんだと。
言い訳する気にもならないぐらい深く傷付きました。
多分そんな頃からだと思います歯車が狂ったのも、
これも価値観の違いです。
それでも母親自身が自分で気づかない限りそんな事は解消なんてできないし、私自身ショックすぎて言葉を失っていました。
それでも言うとおりにしていました。
あんたとは世間話なんて出来ん喋らん、あんたの意見は要らん、私の話を聴くだけで良いねん、頼んだ事だけしに来てくれたらいいねん、来てほしい時、やって欲しい事がある時は言うからと、そんな事を言い放っていました。

そんな事を今更ぶちまけたところで理解できるとは思いませんが、
言いたい事だけは言ってやろうと思ってました。
私の長女がそれを嫌がるので今までは止めていましたが、
その長女の事だって、東京の方から2週に一度来ている事も知らず、わがまま放題だったので、もう結構私の中で限界が来ていました。

その事をセコムから知らせが来るウトウトしている間に眠れなくて考えていました。
きつくない程度にどんな言葉で表現したら良いんだろうとか。

その時にふと思いが募って心の奥で叫んだ言葉があるんです!!
それは……、「私は世界一優しい!!」って!
何でそんな言葉が出て来たかは不思議だったんですが、
その直後にセコムからの救急車呼びますの電話だった。

後に兄との価値観の違いが露になってしまいましたが、
母は最後に凄い働きをしてくれたと。

苦しみの中で、深夜12時半ごろ長女に電話したけど繋がらず、セコムのボタンを押した。そして兄の所へ電話が行ったけど出なかった。
そして私の所へ電話でした。
私は直ぐに出で、セコムとの連絡、救急隊と連絡、病院へ直行とすることが出来たんです。
私から兄、嫁さん家電としましたが中々繋がらず。
入院してから呼吸が止まった連絡も私の所でした。
その後長女に連絡、兄の所でしたがホント繋がらず。

一番に行動させてくれた事が後になって救われたと思ました。

私が電話に出なかったり、起きなかったとしたら、兄夫婦に何を言われたか分かりません。
遺品整理にしても家の売買にしても権利はあったとしても凄くきつい言葉が飛んできてたと思います。
長女が電話に出なかったのも東京だと知らなかったので出ない方が良かったんです。出たらすぐにでも来てくれると母は思うでしょうから。

必然という事はこういう事なんだと思いました。
全てのタイミングは全てに対して起こると思っていました。

最後の私の叫び、「自分は世界一優しい!!」という言葉も、
私が母に言った言葉でもなく、自分自身に伝えたんだと思います。

うだうだ悩んだとしても自分の思いや考えは自分が認めて自分に自信を持てば良いんだと (-_-)
自信が無ければ自信持つ生き方に変わって行けば良いんだと。

でもきっとあの時は私の魂はそう叫んだと!!
そんな自分に感謝したいなと思う事で、母の今までをスッキリ浄化できるのかなと思っています。
きっと今頃魂がそう観ていると。
合掌。



人生の真理

2024-09-23 | スピ的視点

昨日で母との最期が終わりました、
浄土真宗が告別式という言葉を使いません、お別れじゃないんですと式場のちょっと人生先輩のスタッフさんが教えてくれたので、私もお別れという言葉を使わないでおこうと思ってます (^.^)

昨日はうちに泊まっていた娘たちも今日に帰り、
ボチボチ落ち着いて日常に戻して行こうかと (^.^)

凄く多くの気づきや学びがありました (^.^)
自分の意志や考え、人生観と死生観は確立していますが、
人との融合で相手側のいろんな心理を学びながらも
理解を学んでいくという事は続きます (^.^)
自分の成長拡大のためです (^^;)

その中のひとつで、
「優しさ」というテーマ
優しさも奥深くて、表面的なものから自分勝手な優しさとか、
内側の弱さからの優しさとか、
本人も気づかない優しさとか、
強さから来る優しさとか、
本当に真理とか本質って奥深いなと。

それでも真の優しさって、
やっぱり「理解」やなぁ~と思った (^.^)
理解って自身も成長するし、
人へも心寄せて思いやりが持てるし、
無理に優しくしないでも、無理に心寄せることが出来なくても
無理に思いやりを持つことが出来ないとしても
他を尊重する事へは繋がるし、
尊重は他をひとりひとり一つ一つ自身が卒業することが出来、
尊重は心の執着も手放すことが出来るなと。

その「理解」ってこと自体ももちろん難しいし奥深い
人生の中での真理追及は奥深くて面白い





母親の事!

2024-09-18 | スピ的視点
  内臓疾患のない母、三叉神経痛が主で、それによって様々な困難を伴っている状態。
今回は、呼吸をしても二酸化炭素を吐き出せないというのと、痰が吐き出せないというのが主な症状。
それによって胸が痛くなって救急車を呼んだ。

呼吸でも吸うて吐いてというどちら共のバランスが取れないと駄目だという事ですね。

私も呼吸が浅い方なので、一生懸命吐く方に意識を持っていってます。
吸う方は大概自然に吸ってるらしいのですが、吐く方って難しいんですよね。

この呼吸も意識の出入りとして考えると、
思考の出入りでもあるし、思いや心、感情の出入りでもあると思います。
私もだったんですが、母も我慢の昭和人間、
自分でも言ってました、我慢我慢の人生だったと。
私は母のその言葉を聞いて、元旦那も我慢我慢の人間で、
その時にそれについて凄く哲学したんですが、
我慢もほどほどでないと、それは一番自分のエゴで、傲慢高慢になると。
強情にもなるし、壁にもなる。

それに気づいた私は、自分自身も我慢の質について凄く考えました。
多少の我慢は良いけど、我慢している間に事の本質が変わる場合があるんです。
それが自分軸か他人軸でも変わるし、
強情になったり、壁にもなって自分の中に心を溜めてしまう事になると、自分の中で変化が起きる。
その変化は連鎖にもなるし、肉体細胞にも影響を与える。

吐き出せない感情も同じだなと。

呼吸も酸素を吸って、要らない二酸化炭素を出すという事。
これが上手くできない母。
その我慢してきた感情などの吐出しが起こったんだなと。
自分ではできないので、医療の力を借りたんだなと。
そのまま持って死なないように強制掃き出しだったんだなと分析した。

そのせいで肺の中には痰がいっぱい詰まっていたようです。
自分で吐き出す力が無かったようで。
それで苦しくなったと。
身体は正直だったんだなと私は思いました。

肺の心を分析すると、心配とか不安、悲しみ、過去の失敗、そんな事らしいのですが、それらを吐き出せもせず、抑え込んでいるとどうでしょうね。

すんなり吐き出せてたなら痰というカタチや塊にもならなかったかもしれませんね。
それがまた影響して炎症を起こしたり、呼吸が止まったりとなるんでしょう。
しっかり意識していないと意識の分離も間違え誤嚥性肺炎となったりします。

よく高齢者に誤嚥性肺炎が起こると言いますが、
それも意識を精査して分析して分離する道を間違えるのでしょう。
若いうちに性格治しやと何日か前に何度か記事にしていますが、
心理カウンセラーのおのころ心平氏によると、呼吸して入って来た息(外からの意識と情報)は、肺に到達するまで23回も選別されると言われています

その選別に自分の意識が働くとしたらどうでしょう。
自分の中の間違いとかに気づけなかったらどうでしょうって感じですね。
それで消化出来ずに吐けなかったらどうでしょう。

そんな事を考えながら母の人生と今向き合ってるんだな私もって思ってます。
母の事を魂レベルで向き合いたいなと (^.^)
父の時もそうでしたが、善いも悪いも無く、正解だった間違いだったもなく、
魂の人生を生きて来たか、生きれなかったか、
人生をやりきったか、やり残したかも含めて。
全てのそのままの人生をそのまま尊重してあげたい、ただそれだけです。