野上西町内会遊園を出て旧土手道を南下する。高橋酒店(野上町3丁目11‐11)を過ぎて西を向くと古地バス停の標識が見える。古地とは旧野上村の字(あざ)である。
標識の背後が県立福山工業高校の第二グランド(福工会館が建つ 草戸町4丁目1‐11)だが、あの辺りを鷹取川(西の川)が流れていたのであろう。バス停の東に位置する工業高校(同3丁目9‐2)とデイリーヤマザキ福山野上町店(同3丁目16‐53)との間の水路が下井手川である。
北本庄の丸川分水から流れて来た農業用水路で昔は人が川浚いを行っていた。工業高校(戦前は県立福山工業学校)の講堂は福山空襲による焼失を免れて臨時の救護所になった歴史がある。高校から南東方向は焼けなかった家が多い。
『福山空襲の記録 / 福山空襲を記録する会(非売品 昭和五十年八月八日発行)』に昭和二十年当時福山市役所に勤務していた男性の手記が収録されており、県立福山工業学校の被災状況などが分かる。
戸籍簿を失って
高橋孝一
当時 市役所勤務二十八才
それは八月八日の夜の九時前であった。「福山が空襲を受けている。」という異様なさけび声に沼隈郡東村(現在福山市東村町)の自宅にいた私は庭先に走り出た。その瞬間はるか彼方の東の空が一面真赤に染まっているのが目に映った。…当時私の勤めていた福山市役所の戸籍兵事課は、古野上町の広島県土木出張所の二階に疎開していたので、ここは大丈夫だろうと思いながらも夜の白みかけるのを待って、急ぎ自転車で五里の道を福山へ向けて走った。神島橋を過ぎたころ、私の予想を大きくはずれているのに気がついた。一夜にして市街地の大半が焦土と化していたのである。駆けつけてみれば土木出張所は跡形もなく焼け落ちていて、もとより戸籍簿は庁舎もろとも一切灰燼(じん)に帰していたのである。なすすべもなく、しばし茫然自失。しばらくして公会堂(現NHK跡)が焼け残っていると聞いたので、一面焼け野原の中を目指して自転車を走らせた。…公会堂到着と同時に、被災者救援の指示を受けた私は、直ちに市民の避難所にあてられていた本庄町の円照寺に向かい、ここで炊き出しのにぎり飯の配給を手伝い、それが終わるとこんどは被災者救護のため、救護所にあてられていた県立福山工業学校へ自転車を走らせた。見れば焼け残った講堂には被災の重傷者がいっぱい収容されていた。やがてここで夜を迎えたが、空襲警報と燈火管制のため一切灯はつけられず、暗やみの講堂の中で不眠の一夜を明かしたが、やぶ蚊の襲来にはまことに閉口したものである。
空襲の翌日・翌々日の記録としても史料価値は高い。夜灯りがつけられず蚊取り線香もない中で害虫の攻撃にひたすら耐えるしかなかったという悲惨な状況が目に浮かぶ。
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