森崎稲荷神社の北側に江戸時代の京橋の橋脚の一部が復元保存されている。旭川右岸の緑地には貴重な石造物が集められ観光客の目を引く。説明板に記された文字は下記の通り。
京橋の橋脚
京橋付近は山陽道と旭川との水陸交通の要所として、明治の中頃まで岡山の表玄関としての繁栄を続けていました。
京橋は文禄年間(一五九五年頃)、宇喜多秀家の時代に現在の場所に木橋で架設されたもので、その後、洪水等により橋は幾度も流出を繰り返していました。
ここに復元した石材橋脚は、京橋(大正六年架替)の基礎補修工事を平成三年から四年にかけて実施した際に旭川の河床で発見されたものです。この橋脚には、西暦一六八一年にあたる「延宝九年辛酉十月日」と刻まれており、「天和元年 留帳」(岡山大学附属図書館蔵池田家文庫)の「京橋繕被仰付覚」に
一 柱中通り三本根入無之故少ノ水出申刻も殊外うこき申ニ付其段申上石ノ扣柱三本立ル
西より一 一 壱本ハ 地入六尺七寸地より上壱丈三尺三寸
西より二 一 壱本ハ 地入七尺壱寸地より上壱丈三尺四寸
西より三 一 壱本ハ 地入七尺地より上壱丈三尺弐寸
右ハ七月廿七日より取懸り八月十八日出来通り初池田大学日置左門
と記述されているところから、当時、京橋補修に使用した石材の一部と推定されています。
八角柱は大きな流出物が直接橋脚に当たるのを防ぎ、橋脚も水の抵抗が少なくなるように工夫され、洪水に対する配慮がなされた形状、構造となっています。
平成五年三月
岡山県岡山地方振興局 建設部
旭川の氾濫による被害は数多くの文献に記載されているが、明治25年(1882)岡山滞在中に大水害に遭った夏目金之助が松山の正岡常規に送った2通目の書簡は惨状を知る上でとても参考になる。神経質な彼は相当に堪えていたことが分かる。
書簡26 八月四日(火)正岡子規〔全集(大6)〕消印ハ便
松山市湊町四丁目十六番戸 正岡常規宛
岡山市内山下町百三十八番邸片岡方より
小生去る二十三日以後の景況御報申し上んと存候へども鳥に化して跡をかくすとありし故旅行中にもしやと案じ別段書状もさし上げず居候先便にも申し上候通り当家は旭水に臨む場所にて水害中々烈しく床上五尺程に及び二十三日夜は近傍へ立退終夜眠らずに明し二十五日より当家の金満家にて光藤と云ふ人の離れ座敷に迎え取られ候処同家にても老祖母大患にて厄介に相成も気の毒故八日目に帰宅仕候…
実に今回の水は驚いた様な面白い様な怖い様な苦しい様な種々な原素を含む岡山の大洪水又平凸凹一生の大波瀾と云ふべし然し余波が長くて今に乞食同様の生活を為すは少し閉口石関の堤防をせき留めるや否や小生肛門の土堤が破れて黄水汎濫には恐れ入る其に床下は一面の泥で其上に寢る事故余程身体には害があるならんと思考仕る許りで目下の処では当分此境界を免がるゝ事能はざらんとあきらめ居候
猶委細は御面会の節 頓首頓首
八月四日 平凸凹
子規さま 尊下
暴れ川はその後も度々川べりの住民を恐怖に陥れた。昭和9年(1934)9月21日、室戸台風の接近により内山下の辺りが水浸しとなり相生橋が流失した。これが大規模な河川改修工事に着手するきっかけとなった。私は表具師幸吉之碑の前に移動し穏やかな川面を見つめて帰り支度を始めたのだった。
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