シンボルロードを南東に進み西沖野上バス停を通過すると立派な公衆トイレが視界に入る。今日の話を始めるにあたってこのトイレが目印になるのだ。
私は2年前に旧川口村の古老から干拓地での稲作について聞き取りを行った。そして話を切り上げる際に戦前の野上火葬場の位置を尋ねたのだった。老人は一瞬顔を曇らせたが、次のように語ってくれた。
「沖野上の遊歩道の途中に大けー便所があるんが分かるかの。はー知っとんなら話は早いわ。便所の向かい側、そう酒屋がある辺が火葬場じゃったなー」
大正生まれの男性の話を要約すると公衆トイレから現在のバス道路(鷹取川=西の川左岸堤防を取り除いた跡)を横断した西側付近が火葬場跡地に該当する。戦前の地図を確認したところ、向こう側がまさに川岸であった。
野上の市営火葬場 野上土手外にあった、この市営火葬場にエピソードがある。
市制施行間もない大正七年、三吉町と野上町にあった火葬場は老朽化していたので新しく野上町(西の川土手際)に新設することに決定、翌八年六月完成したが、竣功検査直前に大水害に会い、浸水破損により使用不可能になった。請負人に直ちに応急修理させたが、この請負人も水害を受けており仕事ははかどらなかった。水害後伝染病死没者も続出し、火葬場前は棺が累々たる有様であった。やっと完成したが、要求された修理費一、二〇〇円の予算がなく、阿武市長は参事会で予備費から四〇〇円を認めてもらい、三〇〇円を衛生費から流用支出し、計七〇〇円に値切り請負人を説得して支払いを済ませた。
ところがたまたま、翌九年は市長の改選期、この支出方法が不当であったと反対派議員の市長攻撃材料となり、市民を巻き込み紛糾した。この時、横山運治助役が矢面に立ち、責任を取る形で辞表を提出し、ようやく終結した。(松軒阿武信一伝)参考までに、この頃の福山市の死者は過去一〇年間の年間平均五五六人。その内、火葬する者三八三人(約六九%)、残り一七二人強はまだ土葬であった。(福山市議会史)
この市営火葬場は、敷地二九九坪五、建坪四六坪五、かまは、特等‐一・一等‐二・二等‐四、計‐七あり、昭和一二年の火葬数は八三九屍体という。(川口郷土誌)火葬は逐年増加はしているが、先に触れた昭和二六年版市勢要覧では、全市平均火葬率九三%、寝棺率七〇%となっており、また燃料の薪束は一屍体平均二五束とある。著者も野上火葬場での弔いには何回か行った記憶があるが、現在は奈良津町に移り、葬儀もできる立派な斎場となっている。
『福山市多治米町誌(平成五年・1993)』
野上火葬場は稼動する直前に大水害に見舞われ使用不可能になるという汚点を残してしまった。なぜ市は災害の多発する川べりに火葬場を建設したのか。推測するに地価が安くて悪臭問題が発生しない場所(人家の少ない地域)を消去法で選んだ結果であろう(戦前の火葬場は海や川の近くに建設された例が多い)。黒歴史から言えるのは、行政のトップは最悪の事態を想定して避難場所を設定し人的被害や経済損失額を算出しておかなければならないということだ。奈良津に火葬場を移したのは正解だったが、悲惨なことに昭和20年(1945)8月8日の福山空襲によって再び使えなくなるのだった。
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