玉川上水みどりといきもの会議

玉川上水の自然を生物多様性の観点でとらえ、そのよりよいあり方を模索し、発信します。

小平の一本榎

2021-04-04 11:19:24 | エッセー

小平の一本榎

高槻成紀

 小平市に熊野宮という神社がある。別名を「一本榎神社」ということなので、その由来を調べてみた。すると、かつてここにエノキの大樹があって、人々に大切にされていたということだった。このあたりは「逃げ水の里」と呼ばれていたらしい。これは水が逃げてしまう場所という意味で、雨が降っても関東ロームに吸い込まれてしまうということであろう。同じ範囲である「田無」という地名も同類であろう。そのため、人家もない荒漠たる原野であったらしい。武蔵「野」ということは野原、つまり林ではないということで、林のない広々とした景観の場所であったようだ。

  新古今だから鎌倉時代の歌に

「行く末は空もひとつの武蔵野に草の原より出づる月かげ」

(九条良経、新古今和歌集)というのがある。この「空もひとつ」というのは山がなくて見上げる空に邪魔ものがないだだっ広い草原ということであろう。だから月が出てから入るまでずっと見ていられるということを歌ったものらしい。また、

「むさしのは月の入るべき峰もなし尾花が末にかかる白雲」

(藤原通方、続古今和歌集)

も似たようなイメージだが、こちらでは尾花(ススキ)と雲を織り込んで視覚的遠近感を描いている。

 鎌倉時代の都びとが実際に武蔵野に来て歌ったかどうかは怪しいが、武蔵野はそのような荒涼とした場所とイメージされていたということであろう。

 その小平のエノキの大樹の話は江戸時代のことだから、小平一帯は草原地帯で樹林が乏しかったことはまちがいないようだ。小平には青梅街道が通っており、田無から箱根ヶ崎(瑞穂町)をつないでいたが、この間に人家はもちろん飲み水もなかったので、歩く人々は、晴れれば喉が乾き、風雨があれば難渋する大変なコースであったという。そこにあったエノキであるから目印にもなり、たどり着けば休憩の場所になったようだ。私はスリランカに何度か行ったが、直径が2メートルを超える沙羅双樹の大樹があり、人々が日陰で休んでいるのを見た。このエノキもそのような木であったろう。その木の下にいれば涼風が吹いて実に気持ちが良かったと伝えられているそうだ。

 

 さて、もともと荒凉とした武蔵野に17世紀に玉川上水が掘られ、水が得られるようになって木も生えるようになった。日本列島は高温多湿であるから、潜在的には植物はよく育つ。玉川上水では水質確保のために樹木は育ちすぎないように管理されていたが、戦後はよく育つようになった。玉川上水で木々が育つ間に、ようやく育っていた周囲の雑木林は次々と宅地に変わっていった。それは昭和の30年代(1960年代)に特に著しかった。そして気付いてみれば、豊かな緑は大きい公園を除けば玉川上水だけになっていた。その緑には野草もあり、鳥も昆虫も豊富にいて互いにつながりを持って生きている。

 私たちは想像力を持とう。その想像力で鳥になって空から玉川上水を見おろそう。そして400年ほどの時間を遡り、その時間を早送りしてみよう。そうすれば、今ある玉川上水の緑の貴重さ、ありがたさが特別のものだということがわかる。そして、長い年月をかけて育った樹木を、桜を楽しむというだけの目的で皆伐するということが、いかに愚挙であるかということがよくわかる。私たちはそういう時間の流れの中にいることを忘れてはならない。

++++++++++++++++++++++++++

追記

4月5日に熊野宮に行ってきました。近い所に住んでいながら申し訳ないことに初めてお参りしました。大きな鳥居があって参道があり、そこを進むと目立ったのは夫婦欅と呼ばれるケヤキでした。神社はその奥に小さく見えました。

熊野宮の夫婦欅

 

 「エノキはどこかな?」と奥に進むとありましたが、割合狭い場所にあり、縄張りに囲われていてちょっと窮屈そうでした。石碑には「小平の一本榎」ではなく「武蔵野の一本榎」と書いてありました。直径は1mを少し下回るくらいでした。

 

武蔵野の一本榎

 

 

 見上げると若葉が出かかっていました。この木は江戸時代の木の次の次で3代目ということです。

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿