たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

江南義塾盛岡高等学校内の啄木歌碑

2011-02-16 | 啄木歌碑
明治30年盛岡高等小学校3年の啄木は、江南義塾盛岡高等学校の前進である学術講習会に通い、中学受験に備えております。学術講習会は尋常中学校および師範学校入学予備学科を講習しており、当時から予備校のような学校があったわけです。江南義塾高校が現在の前九年に移転されたのは昭和55年で、啄木が通っていたころの学術講習会は日影門外小路にあり、現在の盛岡中央郵便局の傍でした。江南義塾高校を訪れ校長先生の話を聞きますと、啄木が学術講習会に在籍していたことは啄木の友人伊東圭一郎の書により広く知られておるようでしたが、本校に在籍した書類が見つかりませんでした。ところが、昭和55年の前九年への移転の際、旧校舎解体時に校長室の屋根裏から当時の「束修領収書」(入学金領収書)が見つかり、その中に石川一(啄木の戸籍名)、伊東圭一郎の名があり、啄木の在籍が裏付けられました、ということでした。。高校では昭和58年6月に創立90周年・石川啄木歌碑除幕式を行っております







己が名を ほのかに呼びて
涙せし
十四の春に かへる術なし

啄木
(一握の砂)



江南義塾高校の住所表示は前九年であり、周りの住所表示には安倍館町や厨川、天昌寺町、館坂橋を渡ると館向町があります。この辺は前九年の役に際して,安倍貞任が最後に立てこもった厨川柵の場所で、その範囲は現在の通称「館坂」、天昌寺町から北天昌寺町、前九年町まで広域にわたると見られております。これらの場所は北上川と雫石川に挟まれ、二つの川は下流3kmほどで合流するため、川が自然要塞になっている。
次の写真で、手前の川が北上川、鉄橋の下から流れて来るのが雫石川で、下橋中学の下流1kmほどで合流している。








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