たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

啄木であい道の歌碑(啄木中学時代の歌)

2011-06-14 | 啄木歌碑
啄木であい道は平成11年に設置され、ここには啄木が盛岡中学時代に詠んだ歌の歌碑もあります。盛岡駅前から開運橋か旭橋を目指して歩き、橋の手前の北上川沿いの両橋の間です。市営地下自転車駐車場の緑地公園内です。




 

花ひとつ
さけて流れてまたあひて
白くなりたる
夕ぐれの夢

石川翠江



翠江は啄木の盛岡中学時代の雅号で、盛岡中学4年の時に友人と回覧雑誌「爾伎多麻」(明治34年9月号)を編集し「秋草」の題で歌30首を発表しました。この歌は、その中の一つで、これらの歌は現存する啄木の作品中最も古い歌です。

 





血に染めし
歌をわが世の
なごりにて
さすらひここに
野にさけぶ秋

石川白蘋


この歌は、啄木が盛岡中学を退学する前後に、はじめて中央雑誌「明星」(明治35年10月号)に掲載され、自信を持って?この後文学で身を立てようと上京した。

翠江(すいこう)、白蘋(はくひん)は啄木の盛岡中学時代の雅号で、翠江は明治34年8月頃から12月頃まで、それ以降明治36年9月頃までは白蘋を使用している。なお、「白蘋」の雅号は啄木が育った宝徳寺の裏庭に白蘋の池があり、これに由来しており、「啄木」の号はお寺の境内の樹林をたたく啄木鳥から生まれたものです。(宝徳寺案内板)





 

花びらや
地にゆくまでの瞬きに
閉ぢずもがもか吾霊の窓

石川啄木



啄木明治36年9月17日野村董舟(胡堂)宛の手紙の中の一説吾霊の窓

この歌は啄木が胡堂に宛てた手紙の中にあり、長文の手紙の最後にワグネルの像掲げたる窓に蟋蟀の歌きゝつゝ
白蘋拝

「花びらや、地にゆくまでの瞬きに、閉ぢずもがもか吾霊の窓。」

とある。この歌は明治36年なので中学退学後ですが、この頃はまだ白蘋の雅号を用いている。

啄木は中学時代、麦羊子(ばくようじ)の雅号も使用していたが、これは明治34年12月末から35年の正月頃までの短い期間のようです。麦羊子の署名での歌は、野村胡堂宛ての手紙(明治34年12月31日)、金田一京助宛の手紙(明治35年1月1日)の中で、次のように詠んでいる。

争はむ人もあらずよ新春の春のうたげのかるたの小筐

石川麦羊子