日常と考えるヒント < By Taki Katayama >

< 論及、述懐、日常/旅/グルメ >

猛威を振るう新コロナウイルス/中々収まらないコロナウイルス、

2021-01-28 | 述懐
2019年末、中国武漢で発生したコロナウイルスは、1年以上も経過しており、そろそろ収束しても良い時期だが、未だ猛威を振るっており、人類は、残念乍らコロナ・ウイルスを制圧出来ていない。

日本では、2回目の非常事態宣言が出され巣籠り生活が続いているが、明確に感染が抑えられたのかどうか、今日現在分かっていない。



新型コロナウイルスの感染拡大は、社会活動のやり方へも影響を及ぼしており、我々の生活も色々変化しだしている。今迄、都心の一等地に事務所を構えていた企業の中にもリモートワークで事務所が必要なくなり、地方に本社を移転する企業も出て来ている。

また、「密」になるのを避けるため葬儀にまで変化が起きている。親類縁者・知人が一堂に会する形式を敬遠し、少人数の肉親だけで見送る簡素な式を選択するケースも増えてきている様だ。



特に、大変なのは、飲食・旅行関連業界は、移動・ソーシアルデスタンス・感染対策・緊急事態宣言により、経営がままならない状態になっている。政府は、休業補償・資金援助等々による業界の生き残りを補助しているが、完全且つ全体を救う手立てが取れず、政府もその対策に四苦八苦している状態であり、各国も同じ状況と問題に直面しており、如何にこのコロナ・ウイルスが世界に与えた影響の大きさが分かる。

現在の期待は、コロナウイルス感染予防ワクチンが普及することなのだろうが、漸く米国・英国等々でワクチン接種が始まったばかりである。日本も3月中旬当たりからワクチン接種が始まるようであるが、果たして、これらワクチンでコロナウイルスを制圧できるのか誰も確信を持っているわけでなく、過去の経験と免疫の機能から感染予防出来るだろうと推測しているに過ぎないのである。



1年延期されたオリンピックも、この状況なら、実施することは感染を拡大するだけで危険であり、恐らく実施は出来ないであろう。



TVも新聞も朝から晩まで、コロナ関連の報道ばかりであり、ドラマも過去に収録したものばかりが再放送されている状況であり、本当に社会全体が変って来ていることを実感している。早く収まって欲しく、それを願うばかりである。



***********************************************
<コロナ・ウイルス感染者数、死者数:2021.01.28>





猛威を振るう新コロナウイルス

2020-04-16 | 述懐
昨年末、中国武漢でコロナウイルスが発生した。当時、世界の誰もがこの新コロナウイルスを『パンデミックを起こす様な厄介なウイルス』と言う認識を持っていなかった。中国の武漢市の医師である李文亮(Li Wenliang,34)氏は、早くから警告を発していたが、その警告は無視され、世界に広がった。

4月3日現在、猛威を振るっているコロナウイルスの世界の感染者数が100万人を超えた。
(米国243千人、イタリア115千人、スペイン112千人、ドイツ84千人、中国82千人、フランス60千人、イラン50千人、英国34千人、スイス19千人、トルコ18千人、ベルギー15千人、オランダ45千人、カナダ・オーストリア11千人、韓国9.9千人、ポルトガル9.0千人、ブラジル8.0千人、イスラエ6.9千人、スエーデン5.6千人、ノルウエイ・オーストリア5.4千人、日本2.4千人、注)米国ジョンホプキンス大資料)



死者の数は、世界で52,983人となっており、最も被害の多かったのは、医療崩壊が起こったイタリアである。
(イタリア13.92千人、スペイン10.35千人、米国5.93千人、フランス5.39千人、中国3.30千人、イラン3.16千人、英国2.92千人、オランダ1.34千人、ドイツ1.11千人、ベルギー1.01千人、日本0.062千人、注)米国ジョンホプキンス大資料)






日本の感染者数も日々拡大しているが、欧州・米国に比べ感染者数、死亡者数が少なく、世界から何故かと不思議にがられている。その報道を見ても、理由を合理的に説明するものが無いが、①日本人は清潔好きで手を良く洗う、②握手やキス等の触れ合う習慣がない、③医療体制・制度がしっかりしていると言った定性的理由で何となく説明しているに過ぎない。



また、日本の謎は、満員電車通勤があっても、クラスター感染が起きていない、日本の死者は、62人に収まっている、が何故だろうかと感じている。これは、恐らく電車の中に一定の換気があり、乗客が誰も口を開かずマスクをしている人が数多い、からであろうと分析しているが、果たして、これだけでイタリア、スペイン、米国の様な感染が起きていない説明になっているのか私にも良く分からない。本当に驚きだ。



コロナウイルスを扱う専門家会議は、感染の特徴より『近距離での会話、特に大きな声を出すことや歌うこと』を危険な行為と指摘した。更に、密閉、密集、密接の3つの『密』(①換気の悪い密閉空間、②人が密集している場所、③近距離での密接な会話)を避けることを提言しており、この報道が頻繁に出回っていることが、少しの役に立っているのかとも思っている次第である。

また、今回、初動で北海道知事と大阪の知事の自粛要請と言う大胆で且つ大きなリスクを含む決断があったことで、感染が急に広がらなかった可能性も否定できない。彼らは、道民、府民に自制を求め、皆に危機意識を持って貰い感染率を下げようと考えた。これで、一定程度の感染の拡大を防いだ。東京都も、その後、漸く自粛要請を始めたが、東京都、大阪府等の大都市の感染拡大状況を踏まえると、そろそろ政府が非常事態宣言を出し感染拡大を防止する時期に来ているのではなかろうか。





コロナウイルスは、対処方法がなく患者に対して処置のしようが無かったが、ここに来て富士フイルムが開発した『アヒガン』が初期のコロナウイルスに対し増殖を抑える効果がありそうだと分かってきた。漸くコロナウイルス撃墜の光が見えて来ており、唯一の救いとなっている。
このアヒガンでコロナウイルスを征服できることを期待している。



世界のコロナウイルスの封じ込めまでには、まだまだ時間が掛かりそうだが、皆で力を合わせ乗り切って行くしか解決の道は無さそうである。


<コロナウイルスとは>


**************************************************************************************************************************************************************************************************************************************************************

<コロナ・ウイルス感染者数、死者数:2020.04.16>


<コロナ・ウイルス感染者数、死者数、最新版:2020.05.31>


日本のコロナ・ウイルス感染者数、死者数:2020.04.13


日本のコロナ・ウイルス感染者数、死者数、最新版:2020.05.31

文学の楽しみ方について(続き)

2018-02-01 | 述懐
先日、NHKでイシグロ・カズオ特集をやっていた。その中でイシグロ氏は、一冊の本を書くのに色々な構想を練り、時に筆が進んだり時に休んだりしながら一冊の本を仕上げているとコメントしている。彼は、本の中で比較的記憶とはどんなものかを意識し考察して述べていると語っている。

と言うことは、本によっては、作家の意図を探る楽しみもあると言うことであり、単に本を楽しむだけでは、本当に本を読んだことにならないのかも知れない。

勿論、絵や音楽の様に単純に、『美しい、楽しい、感動する』という楽しみ方だけでも良いのだろうが、作者が構想を練り考え、読者に何かを感じさせる意図を持って筋を考え本を書くとなると、その読み方だけでは、楽しみが半減することになるのかも知れない。



文学批評を行う研究者が絶え間なく現れ、長い間、多くの文学研究者によって批評が行われていることからすると、イシグロ氏の言う作者の意図を持って仕上げられた作品から作者の意図を探る楽しみもありそうである。

前回のブログで文学の楽しみ方については、『文学は、①文学の中で人の声を聴いたり、他人の声を聞いたり、他人の声を聴きながら他人の楽しみを知ること。②文学の感じ方や楽しみ方は、人それぞれであり、それぞれが自由に感ずれば良い。』と結論付けたものの、作者の意図を探る楽しみもありそうである。今回は、その様な楽しみが存在するのか、1冊の本を取り上げ、文芸批評をして考えてみたい。

作品:青い目が欲しい、   作者:トニ・モリスン



あらすじ:
大恐慌時代の白人の容姿に憧れる黒人の少女を描いたもの。ピコーラという黒人少女は、自分の不幸の原因が白人の美の基準にそぐわない自分の容姿にあると思い込み、眼が青ければもっと違っただろうと考えるようになる。ピコーラは一生懸命、毎晩祈り続けるが、その願いは叶わない。 自らの価値に気づかず、無邪気にあこがれを抱くだけのピコーラは、父親の強姦による妊娠で気がふれ「青い目になれた」と信じ込む。白人社会のアメリカ社会の中で、ピコーラを不幸にしている本当の原因のありかを探りながら白人が定めた価値観を痛烈に問いただす。

文芸批評:
トニ・モリスンは、1931年にオハイオ州で生まれ、現在、87才の米国の女性作家である。1984年からニューヨーク州立大学での教職、1989年から2006年までプリンストン大学の教授を務めた。戦後のポスト・モダニズムとマイノリテイ文学を代表する作家の一人であり、1993年にアメリカの黒人女性作家として初のノーベル文学賞を受賞した。

この作品『青い眼が欲しい』"The Bluest Eye" は、1970年に書かれた初期の作品だが、2006年、ニューヨーク・タイムズにより、この作者の『ビラヴド』(1988年)が過去25年間で最も偉大な米国の小説に選ばれている。

この作品は、黒人少女のピコーラが、どうして自分が持っている美しさに気づかないのか、問いかけている。そして人種的な嫌悪感が潜んでいる人は、どういう風にその嫌悪感を学び取るのだろうか、また本物の自分であるより偽物である方が良いと感じさせるのは何なんだろうか、白人社会のアメリカ社会の中で、ピコーラを不幸にしている本当の原因のありかを探りながら、白人が定めた価値観を痛烈に問い正している作品である。



この本は、1962年に物語を書き始め、1965年に完成したものだが、この頃の米国では、1952年に人種隔離教育は違憲である訴えが起こり、1954年に違憲のブラウン判決、1961年ケネデイー大統領就任、新しい公民権法案を議会へ提案、1963年には、奴隷解放100周年集会のワシントン大行進は20万人を超える大規模なものとなり、公民権運動が盛り上がった
時期である。

(1968年にキング牧師が暗殺)
“We must accept finite disappointment, but never lose infinite hope.失望はいつしか終わる、常に希望を失ってはいけない。” & “Nothing in all the world is more dangerous than sincere ignorance and conscientious stupidity.この世で本当の無知と良心的な愚かさほど危険なものはない。” by Dr. Martin Luther King Jr.



この作品は、米国における黒人問題を強く意識して書かれたものであるが、同時に人間に共通する劣等感、傷つき易い幼い子供の心に生まれる意識が如何に内面化するかをも語っている。




確かに、上記のように批評を試みながら文学に接すると、作者が作品を描いた時期の文化的背景、当時の社会がどの様なものであったの理解が深まり、作者の主張を自分なりに解釈できる面白さがある。

しかしながら、文芸批評をしようと意識することで、人種問題、文化、政治、民族、価値、人間の心理、思考等々ややこしい問題も絡んでくることでもあり、批評をせずに文学や戯曲を音楽を聴いたり、絵を描いたりするように楽しむのも楽しみ方であろう。矢張り、どちらが正しいと言うことではなく、自分なりに楽しめる楽しみ方で楽しめば良い様に思われる。




文学の楽しみ方について

2017-09-24 | 述懐
推理小説、時代小説には、想像をめぐらせ犯人を探り当てる楽しみがあるものの、大作と言われる詩、小説、短編等については、その楽しみ方が中々理解できない。これは、私自身が文学の読み方を知らないせいか、文学に対する接し方が誤っているせいかも知れない。村上春樹の小説「ノルウエーの森」「1Q84」「海辺のカフカ」を読むと、何か独特の雰囲気を感じさせてくれるものの、何が多くのフアンを引き付けるのか、私には、その文芸批評はできない。夏目漱石「坊ちゃん」「こころ」「吾輩は猫である」「三四郎」や芥川龍之介の「羅生門」「蜘蛛の糸」「杜子春」「河童」、シェークスピア―4大悲劇「ハムレット」「オセロー」「リア王」「マクベス」、2,500年以上読み継がれているソポクレスの名著「オイデップス王」「アンティゴネー」、等に対する多くの文芸批評があるが、それぞれの批評内容は理解できるものの、文学をそこまで批評する意味と必要性が分からない。

1968年に日本人最初のノーベル文学賞を受賞した川端康成の「雪国」は、景色や風情、芸者駒子の人情味を読者に楽しませてくれる。ヘミングウエイは、“in our time”で、戦争と言う環境の中での主人公の心の動き、人間の身勝手さや人間の心の内を巧みに表現し読者を楽しませてくれる。文学作品として、ただ単に楽しんでいれば良いなら、推理小説と同じように物語を楽しむことができるが、これらの物語の中に、何かの意義や価値を与え、読者に何らかを感じさせようとしているなら、文学とは面倒な作品であり、どう読んだら良いのか分からなくなる。






文学とは何かを考えながら、文学の楽しみ方を考えてみたい。

(1)文学とは何か?
 ・文学は、独自な方法で言語を使用している。

 ・作品は、思想を伝える媒体でもなければ、社会的現実を反映するものでもなく、それ独自の法則、
構造を持っている。

 ・語りの技法、言語の固有の性質の利用等の様々な技巧を使いながら恣意的で異化作用により、
時に日常の世界を見慣れぬものにする著述である。

 ・文学を構成している価値判断は、絶対的なものでなく、時代とともに変化する社会的イデオロギー
と密接に関連している。19世紀、構造主義的な物事の捉え方、理解が進み、文学をより理解する
ために文芸批評でなく、文学理論、文学批評が盛んになった。スイスのソシールは、言語その
ものの分析を行い記号論が構築された。次に文学批評理論を概観する。


(2)どのような批評理論があるか

1. 記号論(Semiotics)
・我々が使用している言語は、それぞれの繋がり、文化的背景の中で使用されている。

・それは、単に記号として表記されたものである。

・記号として表記されたものは、Signifier(表記されているもの)とSignified(意味するもの)
が一体となり表されたものに過ぎない。

Sign= A. Signifier(=Acoustic & Graphic Aspects)
     B. Signified (=Substance)

         *Sign consists of two inseparatable aspects(分割できない二つ)
          Arbitrary bond between A & B.(A&Bの恣意的にくっついている)
          Defamiliarization (異化作用、見慣れないものにする)

・それは、自然に、偶々、結びついたに過ぎない。
・従い、表されたものは、形式的であり、恣意的であり、絶対的でなく情緒的である。

2. 読者反応論(Reader- Response Criticism )
・読者は、意味を作り出す、能動的行為者でなければならない。(Reader has to work.)

・我々の持っている能力を発揮しなければならない。(Competence of a reader.)
    a.Perceiver’s difference: 知覚する人によって異なって見える
    b.Approximation: 記号を読む際に類似性や推測する
    c.Unity:底に流れているテーマ、統一性がある
    d.Code:時代背景、社会的常識、自らの推理から推測、判断する。

・読解、解釈、批評は、受け手によって決まる。
    e.Reading:記号の中におり、受け手のキャパ、能力で決まる。読み手が正しく反応
しないと問題や良い事に気が付かない。
    f.Interpretation:単語や文章を読み取る力を持たねばならない。
    g.Criticism:女性視点、文化や歴史的視点なしに上手く批評ができない。

3.物語論(Narratology)
・物語の語り方には法則がある。
    a. Todorovの文法
     ・Todorovは、文学に基本的な型が存在するといった。
     ・それは、言語と同じ様に主部、述部を変えることで物語を作ること可能。
        例:The “knife” “slew the dragon” with his sword.
        (言語、文学の文法が同じ様に共通化される。)
    b. Proppの文法
     ・31の基本形で物語が語られている。
        例:主人公が現れる。・・最後に主人公が結婚し王位に就く。
    c. Jackの文法
     ・物語には、構造があり、決まった終わり方になっている。
     ・ただ、時には、Jackの文法とは異なる新しい終わり方になるケースもある。
     ・また、相手の感情を考慮した全てに顔を立てる別の終わり方もある。

    d. Gremasの文法
  ・         Communication
       Sender-----------Subject---------Receiver
              ↓desire, search, aim, kill
       Helper------------Object--------- Opponent

4. 精神分析理論(Psychoanalystic Criticism)
   フロイトは、人間には無意識の過程が存在し、人の行動は無意識によって左右されるとした。
人は、欲望を無意識に抑圧することがあり、エス―自我―超自我という心的構造で人間の心や
精神を理解し文学にも影響を与えた。また、人間の行動の基本的動機は、苦痛の回避と快の
   追求だとした。詩や小説、戯曲を読む理由は、快をもたらすからだとしている。




(3)文学の意味

  ・ジョナサン・カラーの著書「文学理論」“読者と意味”の中で、文学の意味とは、読者に働き
   掛ける読者の体験であり、読者と作品の様々な出会いの物語であると言っている。

  ・そしてそれは、期待が外れたり当たったりしながら物語を読むことであり、歴史的に社会的に
   変化するものであるとしている。また、“文学とは何か”と言う求心的問いに対しては、出会う
   のは、世界各地の作家や作品でなく言語学であり、哲学であり、歴史学等に出会うだけ
   であり、思考を誘発したところで何ら答えに辿り着けないとも言っている。

  ・文学批評概念を持つことは、より深く文学を読むことを可能にしてくれるが、それは、私達が
   文学を読むうえでのリテラシーを磨くことが可能とし、我々の視点を変えてくれるだけのもの
   のようである。文学とはと言う何かと言う問いに対しては、言語学であり、哲学であり、
   歴史学であり、文評だとしており、思考を誘発し、これらの文学概念や意味を掘り下げ、
   文学概念を持ったところで大作に感動する訳でもないとしている。




上記から分かるのは、文学は、文学の中で人の声を聴いたり、他人の声を聞いたり、他人の声を聴きながら他人の楽しみを知ることなのかも知れない。と考えると、文学は、音楽を聴いたり絵を描いたりするように、人の声を聞く楽しみであり、他人の声を聞き、他人の楽しみを知ることなのかも知れない。そして、その文学の感じ方や楽しみ方は、人それぞれであり、それぞれが自由に感ずれば良いのではなかろうか。

大作と言われる詩や小説や短編等の面白さを理解できようができまいが、どんな素晴らしい批評がなされていようがいまいが、“読み手がワクワクしたか、楽しいか楽しくないか”、“読み手がどう読みどう読み感じたか”であり、余り文学批評に惑わされることなく、それぞれが自由に読めば良いのかも知れない。




人間とは何んだろうか?

2016-09-12 | 述懐
我々は、生活の中で色々な事に遭遇するが、それは、人間として当たり前の日々の出来事にしか過ぎない。理性を使い、笑い、自由を求め、労働するのが人間なのだろうか。人間とは、一体何だろうか。動物とは異なる種差を考えることで示し、人間となろうとするのが人間なのだろうか。では、人間となろうとするとは、何だろうか。

我々が日々生きる上での如何なる出来事や問題に遭遇しながらも、淡々と生き、自分の行動を考え、選択し、在るがままに生きて行けば良いのだろうか。




それを解決する事は、結局のところ、人それぞれの考え方によるのだろうが、カントは、以下の三つの問いで「人間とは何か」を語っている。

① 私は、何を知りうるのか。=「純粋理性批判」理性
人間として知りうることは、自らが知覚する範囲の中で、自らが知覚することで実体を認識することである。

ただ、その実態の認識も、認識の正しさを立証できないので、我々は、日々の生活の中で、物や人間の存在の理由、意味を認識できない。(=色々の考え、認識があり、どれが正しいか論証出来ない。)

② 私は、何をなすべきか。 =「実践理性批判」行動
人間が無意識の内に存在するものと認識しているものは、道徳である。これは、善悪の規範であり、共通性のある個人の価値観である。この規範には、どの文化にも共通の部分と、習慣や慣習的規範のように文化によって大きく異なる部分とがある。殺人、盗み、騙し、強姦などは、どの文化でも不道徳視されており、理性では判断しかねる行動規範である。



③ 私は、何をすることを許されるか。=「判断力批判」判断
これを巧みに規制しているのが、宗教である。宗教は、人間の力や、自然の力を超えた存在の観念である。

宗教には、キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教等がある。 
キリスト教 約20億人(33.0%)、イスラム教(イスラーム)約11億9,000万人(19.6%)、ヒンドウー教 約8億1,000万人(13.4%)、仏教 約3億6,000万人(5.9%)、ユダヤ教 約1,400万人(0.2%)と言われている。


宗教は、現在の世界をどう生き、死後に備え生きるかを問うているものであり、宗教毎に何を望み、何を望んではいけないかを定めている。(=日本は、多神教国家であり、その規範が神道、仏教、武士道等で、その存在の概念が培われている。)




結局のところ、我々人間は、何事も理性で認識できず、道徳、宗教の様な共同規範に従い行動・判断しながら生きて行く存在でしか無いのかも知れない。だとすると、単に人間とは、

*微笑み、笑い、泣き、激しやすく変わり易い情動を備えた存在
*悩み苦しむ存在
*享楽的で、自己陶酔的で、我を忘れがちで、暴力的だが、愛することの出来る存在
*想像力で満ち溢れた存在
*死を知っていながらそれを信じることの出来ない存在
*精霊と神に憑かれた存在
*客観的世界との間に何時も不確かな関係を保っている主観的な存在
*誤りや迷走を免れえない存在
*無秩序を生み出す歪んだ存在

:なのであろう。

芥川龍之介は、1929年(昭和2年)35歳で自殺、彼は、23歳の時に彼の人間に関する考えを表現したと思われる「羅生門」を執筆。この小説は、職を失った下人が悪を行うことを躊躇うも、生きる為に、人を騙してやっと生きてきた死人の女性の毛髪取っている老婆から、自分も服を剥がし奪うと言うことで生きる人間の業を表現している。生存苦の寂しさを癒すことが出来ない、人間は醜い、自己も醜い、そしてそれを見て生きるのも苦しい、でも人は、そのまま生きることを強いられると言う孤独感や厭世的心情を描くことで、人間の寂莫(しゅうばく、ひっそりと寂しい)を文学で表現した。

また、「河童」では、精神病患者が語る河童と言う架空の河童世界で人間の醜さ、身勝手さ、うぬ惚れ等々の人間社会を模写している。その精神病患者が怒鳴りつける言葉、「出ていけ!この悪党めが!貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、図々しい、うぬ惚れきった、残酷な、虫のいい動物なんだろう。出て行け!この悪党めが!」と言う言葉が、人間を良く表現しており、読者に対するアンチテーゼのように思える。

カントも芥川龍之介も哲学、文学と言う異なる分野ではあるが、人間に関する自らの考えをそれぞれに表現している。先人達の考えに触れるにつけ、人間とは、勝手な、我儘な、悩み苦しむ普通の存在であり、その意味に於いては、人間とは、あるがままに生きながらも、常に、私は、何を知りうるのか、私は、何をなすべきか、私は、何をすることを許されるか、を常に考えながら、自然体で生きて行くのが人間なのかも知れない。




米国の大統領選挙、トランプ現象について思うこと

2016-03-28 | 述懐
米国の大統領候補者選びが進んできた。 民主党は、予想通り、クリントン女史が優位だが、サンダース上院銀員が若者の心を捉え予想以上に健闘している。

共和党は、トランプ氏が今のところ最も優位な位置にいる。本命候補であったジェブ・ブッシュ氏が初戦から苦しみ、早々撤退している。共和党主流派のルビオ氏も地元フロリダ州の党員選挙でトランプ氏に敗れ、撤退を表明している。



当初、トランプ氏は、当初走るが、最後に息切れすると言う前評判であったにも拘わらず、善戦、いや善戦どころか勝利を確実にしてきている。何故、トランプ氏がここまで優位に選挙戦を戦っているのだろうか。

トランプ氏の人気は、トランプの右派ポピュリズムを狙ったところではないかと指摘する人もいる。トランプ支持者は、思想傾向では右も左もなく、高卒以下の白人が主体のようだ。トランプは、社会福祉を維持し、雇用を海外に流出させる企業を罰し、ヘッジファンドに重税を課すと誓って、経済苦境にある下層中産階級の喝采を浴びている。

共和党主流派がトランプに太刀打ちできないのは、白人労働者階級の共和党支持者らの期待にほとんど応えてきていないからだと分析している。



三浦瑠麗女史は、トランプ外交を以下4つの視点から予測しているが、もし、この様な外交を進めるとしたら国際秩序が大きく壊される恐れがあり危険だ。タブーへの挑戦は、確かに、閉塞感のあるテロ問題、シリア問題を解決してくれる期待を抱かせてくれるが、国益だけを優先する外交だと思われ、そこまでの期待は抱かない方が良かろう。

1.第一は、米国の国益を短期的・直接的に定義する発想、
米国が国際的な制度作りを主導することが米国自身の長期的な国益につながる発想から、米大企業の経営者が四半期ごとの成果をウォールストリートのアナリスト達に求められているのと同じ様な米国の貿易赤字をいくら減らし、防衛費をいくら節約できたかによって評価される発想。
2.孤立主義、
イラクや中東のゴタゴタに巻き込まれるくらいであれば、米国内のインフラ整備や公衆衛生を優先するべきであるとし、トランプ外交は、オバマ外交の中途半端さを塗り替え、「普通の大国」としての外交を目指す。
3.タブーへの挑戦する姿勢、
米国の既存の条約体系はテロの脅威を正面から見据えたものとなっていない。北大西洋条約機構(=NATO)についても、日米安全保障条約についても、冷戦期のソ連の脅威への対処を想定している。トランプ氏は、これまでの経緯論に縛られたごまかしを白日の下に晒し、このような事態を合理的に解決してくれるのではないかと言う期待。
4.属人的なヒロイズム外交、
自らのヒロイズムを貫徹するために、中国と、あるいは北朝鮮と筋悪の合意を取り仕切ってしまう事態も想定される。北京に乗り込んだ「トランプ大統領」が、中国と「手打ち」をしてしまう事態もありうる。

ギュスターヴ・ル・ボン(1841〜1931)が群衆について以下の様に語っていた。
1.群衆は、感染する
2.群衆は、過激に走りやすい
3.群衆は、衝動的である
4.群衆は、暗示に弱い
5.群衆は、時に高い徳性を示す
6.群衆は、反復・断言に弱い
7.群衆は、同一化する
8.群衆は、服従する
9.誰しも群衆化する

もし、トランプ氏が、米国の病巣を認識した上で、この群衆心理を上手く利用して、大統領選挙に臨んでいたとすると、抜き差しならぬ大戦略家でもある。ただ、彼の今迄の言動、スピーチの表現内容からして、そこまで深く考えているとは思えず、偶々、結果的に、そうなっているのかも知れない。

米国の大統領選ではあるが、誰が大統領になるかで国際政治が大きく変わり、日本にも大きな影響が出てくる。米国が大衆化、群衆化した選択をするのではなく、合理的な選択を望みたく、そうしてくれるものと期待している。


強い志

2015-04-22 | 述懐
吉田松陰は、「勝敗は常なり、少挫折を以って其の志を変ずべからず。」と言った。でも、本当にそれ程の強い志を持って物事に臨むことはできるのだろうか。常に、自分に問いかける。

何事にもチャレンジすることは、必要だが、常に負け続けていたら、いつか成功すると信じ人は挑戦し続けることができるだろうか。ジャズ・ギターを始めたが、中々上達しない。ギターで特に負け続けた訳では無いが、自分の思い描く通りに演奏が出来ず、挫折しかかっている。この趣味的な試みですら、上手く行かず挫折しかかっているのに、本当にやりたいこと、国の将来、家族の未来、何でも自分の考えている世界、描いている夢は、簡単に実現出来ないことに苛立ちを覚え、実現させる気持ちを吉田松陰の如く貫き通すことはできるのだろうか疑問に思う。

4月26日、東京都市議会選挙が行われる。最近、やたらとポストにチラシが配られ、投票を求める多くの候補者が宣伝カーから声を上げている。市議会議員選挙の多くは、その信条、考え方が良く分からないまま、資格試験も無く選択の基準が分からないまま選ぶことを求められる。彼らは、本当に志を持ち市民の目線で、市民の為の政治を行うのであろうか。良いと思って投票しても公金での切手購入、カラ出張、無駄な交友接待で税金が使われ、志を持ち政治に臨む人の選択が難しくなっている。むなしい限りである。

世界富裕層1%が所有する資産が2014年で全世界の48%を占め、来年には、50%を超えると言う報告があり、トマ・ピケテイも、「21世紀の資本」の中で「この数十年間、不平等が拡大している」と警鐘を鳴らしており、この格差を解消して行かないと民主主義の崩壊が起こること示唆している。格差、不平等から、貧困、文明の衝突が生じており、リスクが大きくなっており、大きな社会問題、社会への恐怖をもたらしている。また、「自由、人権、民主主義への抑圧からの自由」を求める若者への弾圧等による国家権力との対峙、誤ったナシヨナリズムによる愛国主義による不安定な時代に突入しており、政治も国家も機能しない世の中になっている。



でも、世の中も捨てたものでも無い。明るい話題もある。パキスタンのマララ・ユスフザイさんが史上最年少の17歳でノーベル平和賞を受賞した。タリバンの暴力にも負けず、命を懸けて子どもの教育、特に女の子の教育の重要性を説く。若干17歳にも関わらず、その信念と情熱、そして勇気には、感動の一言だ。そのスピーチや姿勢は素晴らしく、将来はパキスタンの首相になると堂々と宣言する。彼女は、志と新時代にふさわしいリーダーの素養を持ち、世界の希望だ。彼女の言葉を聞くと吉田松陰の言葉と同じ行動しており、この不安定な時代の中で世界に希望を与えている。( Pharrell Williamsの明るくしてくれる歌”Happy” https://www.youtube.com/watch?v=y6Sxv-sUYtM

私のギターは、まだまだ練習が足らない為に挫折しかかっているのだろうが、もっと強い志を持って臨めば、希望に満ちた明るい未来が来るのであろうことを思い、「少挫折を以って其の志を変ず」臨み続けて行きたい、また誰もに期待したい。





我々の未来について

2015-03-15 | 述懐
海外に出てみると平和で豊かな日本の良さを改めて感じさせてくれる。先日起こったフランスでのテロ、米国での人種間憎悪による暴力の連鎖、移民排斥の動き、イスラエルのパレスチナへの攻撃、世界の至る所での紛争が絶えない。同じ地球に住む人間同士の衝突が絶えない。また、日々貧困と恐怖から逃れようと必死に生きる子供たち、争いが生む多くの難民、一体、なぜだろうか。

我々の未来が見えない。冷戦構造の崩壊により国際秩序が乱れた為であろうか。新興国の台頭により力のバランスが崩れた為であろうか、民族意識による文化的摩擦によるものであろうか。世界の秩序が混乱し制御不能な状態になっている。歴史を振り返ると、同じような紛争が繰り返し起こっているものの、20世紀初頭に起こった地域紛争や戦争のリスクと今のリスクは大きく異なり危険度を増している。核保有と核拡散によりその危険度は、実は想像以上に大きくなっている。米国流民主主義が勝利し世界の平和が来ると想像していたにも関わらず、かえって制御不能な世界になりつつあり、冷戦時代を懐かしむ声さえ聞こえる。

新興国を抱えるアジア、アフリカのリスク、宗教的リスクを抱える中近東でもリスクが大きくなっている。アジアでは、米国の中途半端な態度が中国の勝手な動きを誘導、フリピン、ベトナム沖南沙諸島、尖閣諸島等の問題を引き起こしている。また、アフリカでは、貧困、疫病が絶えない。世界は共に問題を解決する努力をして行く必要があるもの国連は全く機能しておらず、増え続けるこれら問題の解決策が見いだせないでいる。いわば、映画“猿の惑星”の如く人類の存亡の危機が迫っている様にも感じる。



残念乍、今の世界は、自国の利益を一方的に語るのみで、誰も相手を慈しみ問題を解決しようとする当事者意識を持ち合わせていない。先日のシャーマン米国務次官の日韓の歴史問題をめぐる発言(=対立は韓国にも責任があるとの発言)に対しても韓国の与党セヌリ党の外交統一委員長は、「日本が攻撃的な外交活動を仕掛けている」と発言し過剰反応するだけで、来志向で関係改善を図ることをせず、混乱を助長しているだけである。何故この様な反応になるのだろうか?70年もの月日が経過した戦争の傷後が未だ完全に癒されていないせいであろうか?日本の近隣諸国への謝罪の仕方が悪いせいであろうか?国家が絡むせいであろうか?政治が絡むと何故かおかしな方向に進む。確かに、被占領国にとっては、忘れられない歴史であろうが、本当にこの問題の解決無しに、我々の未来は語れないのだろうか。


20世紀初頭に起こった米国、欧州、日本の植民地支配の歴史はあったものの、大きな犠牲のもとにこの歴史は終わりを告げた筈である。抑圧から解放、秩序ある自由、民主主義がある程度実現された今なお問題を引きずっており事態を悪くしている。そろそろ我々は、ともに世界の貧困、紛争等の問題を解決し、平和な世界の実現する方策を考える必要があるのではなかろうか。



勿論、普遍的な誰しもが受け入れられる利益、価値なぞ誰も策定出来る筈もなく、多くの先人がその手だてを考えて実行してきたものの解決の糸口が見えこなかったのが現実であるが、このままでは我々の未来が危ない。本来、政治が解決すべく問題だが、何も解決できず、かえって悪化させている。一時は、ゴルバチョフ・ロシア大統領の出現により、平和な一つの地球が実現するとも期待されたが、国内問題で失脚、その期待も裏切られた。政治が解決できない以上、我々も我々の未来に向かって行動を起こす必要があろう。

我々が出来ることに限りはある。先ずは、我々が相手を思いやる優しさを示すことからスタートする必要があるのではなかろうか。そのことが、互いの文化、歴史の違いを素直に認めさせ、他者を自己とは異なった存在であることを容認させ、それぞれの文化を大切にする気持ちを生むことになるのではなかろうか。その理性と自制する気持ちが対話を生み、新しい未来を創る切掛けになるのではなかろうか。(極端な文化意識の浸透は、文化相対主義に陥る危険性も孕んでいるので、常にバランスを持った理性と自制的な行動が必要だが。)

勿論、優しさだけで世界の紛争、貧困が解決できるとは思わないが、少なくとも我々の回りでのいじめや相手に危害を加えることを少なくする第一歩が、我々の生きる場所を豊かにしてくれるのは間違いない。そのことが我々の住む社会を豊かにし、我々の意識を大きく前進させ、世界で起こっている多くの貧困、紛争に目を向けさせ、起こる問題を解決する力になると確信している。

世界で起こる様々な事例は、一筋縄では行かない人間世界のさまざまが反映されているからであろう。我々は、この現実を知り、自ら考え、感じ行動を起こすことが大切なのではなかろうか。未だ遅くは無いので、今からでも、我々の未来を我々一人一人が作り上げる小さな努力からスタートしようではないか。そのことが、我々の未来を築く礎になることを信じて。






優しさとはなんだろうか

2015-02-06 | 述懐

ギリシャのチプラス首相は、欧州連合(EU)の緊縮財政政策を永遠に終わらせると表明し、支援プログラムの合意順守を迫る欧州諸国との対決姿勢をあらためて鮮明にました。首相は、緊縮路線に代わる新たな合意を求め、欧州首脳らと相次いで会談しました。しかしチプラス首相は議会グループへの演説で「ギリシャはもう命令には従わない。わが国にはわが国の意見がある」と主張し、欧州中央銀行などがギリシャに対し厳しい姿勢を維持していることを批判し債務削減を迫った様です。

イスラム過激派は、彼らの勝手な論理で世界あらゆるところでテロを起こしています。2001年9月11日のテロに始まり、直近では、カナダでのテロ、米国市民の殺害、フランスでのテロが起こっています。今回のISIL(イスラム国)の日本人の捕虜に対する2億ドルの要求、二人の日本人殺害は、悲惨な結末になりました。彼らの行動は、世界の脅威になっており、多くの難民をも生んでいます。

テロリストの後藤健二さん殺害に関する評論が色々あります。ある国の方は、「いざという時の日本人の冷たさ」と表現しています。「今回の二人の殺害の際に見せた多くの日本人の、「自己責任」「勝手に行っただろう」という反応を真当たりにして悲しかったです。優しさとは何でしょうか。「遊泳禁止」の看板があってもそれを無視して泳いで溺れそうな人が居ます。確かにいけません。でも人を救出する際にそんなことは考えません。懸命に救出してから説教するものです。罰してもいいのです。」と優しさを人命優先と表現しています。

優しさとは、一体、何であろうか。ルールを無視し溺れた人を助けることが優しさでしょうか。それは、余りにもステレオタイプの考え方ではないでしょうか。勿論、溺れた人を見て放って置く人はいないでしょう。ただ、溺れた1人の人を助ける為に、100人の犠牲を払うのは正しい行動でしょうか、かえって危険な行動としか言えません。誰も100人の犠牲を出すことを承知で1人を助ける判断は出来ないでしょう。そうすることは馬鹿げています。寧ろ、この様な問題が起こらぬように、前もって我々が「遊泳禁止」の看板を多く立てるとか、見回りをすると行動をかの行動をしておくことが必要であり、それが「優しさ」だったのではないでしょうか。この問題は、今となっては、今後、同じような問題が起こらぬよう、徹底的にISILを潰すか、危ないところへの渡航を止めさせるしか方法は有りません。

また、ギリシャの問題は、財政破綻を助けるべく、事前に欧州連合がギリシャの緊縮財政を迫り財政改善を前提に融資を行い危機を救いました。ところが、緊縮財政での国民の不満を盾に選挙戦で勝ったチプラス首相は、民意の名のもとにギリシャの債務を帳消しにするよう欧州連合に迫っています。欧州連合に取り、この要求を受け入れることは、自国民の血税を溝に捨てることを意味します。ギリシャ問題は、人命とは直接関係ないかも知れませんが、介在する問題は同じです。どこまで許容するか、出来るかの問題ではないでしょうか。

優しさとは、人や物事に対してどこまで許容するのか、出来るのかと言うことではないでしょうか。我々の住む社会には、ルールがあり、その中で「自由」、「人権」、「民主主義」を尊重しながら、「優しさ」を守り実現して行くことが大切なのではないでしょうか。





<参考最新情報>
Jordan Launches New Airstrikes After Vowing Harsh War on IS
AMMAN, Jordan — Feb 5, 2015, ABC News
ヨルダンは、ISに対する徹底交戦を誓い新たな空爆を開始した。 
アンマン,ヨルダン-2月5日,ABCニュース 
(シリア、イラク両国のISに対する空爆開始、詳細ABC News参照)



貧困から起こった悲しさ

2015-01-27 | 述懐
7年前ベトナムに滞在した際、ベトナム人の友人が、車のカタログを持って、どの車が良いのと聞いてきました。何と、レクサスとホンダのどちらにするか迷っているようでした。価格は、いくら?と聞いたら、レクサスでUS$135,000、ホンダでUS$100,000と言っていた。

大学を卒業し政府機関に就職しても公務員の給与は安く、民間での自動車メーカーに就職した人の給与はUS$500/月程度であり、国営建設会社で働く人はUS$125/月程度らしい。確かに、農村から出稼ぎにくる工員の給与は、US$80〜90/月程度からすると公務員給与は高いが、車は、公務員給与レベルからすると車は高値の花である。(当時の給与レベル)

最近では、ゴルフ場でも、高級レストランでもベトナム語が聞こえるようになっており、ベトナムも格差社会となりつつあるようだ。所得差が広がっている姿は、どこか中国に似ているようだ。ベトナム在15年、奥様がベトナム人、ベトナム語を操る日本人の友人曰く「確かに、ベトナムは、格差社会になって来ており、底辺に行けば未だ想像を絶する生活をしているが、底辺でもその生活を受け入れ、そのレベルで楽しく暮らしていますよ」と言う話であった。

人の幸せは、心の豊かさにあるが、一方で、世界では、その貧しさにより悲惨なことが色々起こっているのも事実である。この格差解消の努力は、常に怠らずやる必要があろう。


以下は貧困から起こったベトナムでの悲惨な話である。

中国に売られて5年、涙の帰国
(2007年10月22日Thanh Nien掲載記事)




中部Hue市に住むTonさん夫妻の末娘Vanさんが5年前、突然行方不明になった。あちこち探したが見つからず、公安にも捜査を依頼したが成果はなかった。

そして2007年10月のある日、家族は中国広州から「お父さんお母さん、助けて」と電話を受けた。行方不明になったVanさんは、家庭の事情から中学卒業後、Hue市Tran Phu通りにある縫製店で仕事を学んでいた。

2003年、彼女が19歳の時、店からの帰宅途中、近所の人に出会った。近所の人は、北部弁を話す見知らぬ女性と一緒にいた。その女性はハノイに住んでおり裕福で、衣料品店を開いたが働き手がいないという。

「ハノイで働きたいなら一緒にいらっしゃい。生活費は全部出すし、給料も120万ドン(約75ドル)払うわ」と女性は言う。貧しい上にまだ手に職もないVanさんにとって、生活費もかからず稼げる話はとても魅力的だった。

そして彼女と近所に住む友人Vuiさん(18歳)は、家族に内緒でその女性についていった。両親に話せばきっとダメだと言う、いつかお金ができた時に送れば、両親も理解してくれるだろうと考え、ひそかに家を出た。

待ち合わせのカフェに行くと、もう1人別の女性が一緒に待っていた。彼らは北に向かうバスに乗った。遠出などしたこともないVanさんとVuiさんを乗せたバスは2日間走りつづけ、さらに他のバスに乗り換え、賑やかな都市をいくつも通り過ぎていった。

5日目、2人の女性はVanさんとVuiさんをバスから降ろし、ある家に泊めた。そこにいる人たちはみな中国語を話しており、2人には理解できない。騙されたことはわかったが、逃げ道はなく、彼女達は抵抗するのをあきらめ、運命を受け入れた。 

3日後、2人はそれぞれ別の中国人の男性に売り飛ばされ、以来連絡もつかなくなった。30歳ぐらいの男に買われたVanさんは、広東省の田舎に連れて行かれ、無理やり妻にさせられた。ここで彼女は男の年老いた両親と独身の兄と一緒に暮らすことになった。小さな村には10軒ほどの家が山間にあるだけで、逃げ出そうという気力すら出てこなかった。

中国山間部の暮らしは、ベトナムの少数民族の人々よりもつらく貧しいもので、畑仕事などしたこともなかった彼女は、家の仕事を全てまかされた。行動はすべて夫から注意深く監視され、家から逃げ出すことは不可能だった。忍ぶ思いで中国人の男の妻として静かに生活し、1年後、彼女は妊娠し、男児を生んだ。中国語も少しずつ覚えていった。



2002年、息子が3歳になると、家族の彼女に対する監視は緩んできたようだった。夫は広州の工業団地で働くことになり、Vanさんも一緒に行って仕事を探すことになった。彼女は夫に偽の身分証明書を作ってもらい電線製造工場に職を得た。

2人の職場は別の場所にあったが、Vanさんは夫の強い監視下にあった。だが故郷を思う気持ちと逃げようという考えは、常に心にあった。工場では教員を夫に持つ工員と友達になり、彼らが逃げるのを手助けしてくれると言っていた。

2003年9月、夫が病気になり、田舎に帰ることになった。チャンスが来た。蓄えておいたお金を持ち公衆電話に行き、友人にベトナムへの電話のかけかたを教えてもらいつつ、ボタンを押した。家族の声を久しぶりに聞いた彼女は、喜びで胸がつかえ、何も言葉にならなかった。

娘の電話を受けたTonさん夫妻は、涙を流して喜んだ。「『お母さん、助けて』という声を聞き、嬉しくてたまりませんでした。中国まで行くお金などありませんでしたが、居なくなったと思った娘が見つかったのに、そのままなんて」。

話し合い、姉Nongさんが助けに行くことになった。彼女は3,000万ドン(約1,875ドル)を借り、親戚と共に中国へ赴いた。Mong Cai国境に来ると観光ビザを取得し、通訳を雇い広州に直行した。道すがらVanさんと連絡を取り合っており、探すのはさほど難しくなかった。

時間を決めた後、Vanさんは職場を逃げ出しバスターミナルに行き姉夫婦を待った。再会をゆっくり喜ぶ間もなく、見つからないよう急いで帰郷の途についた。中国側国境にたどり着くと、彼らは森を抜けてVanさんを連れて国境を越えてくれる人を雇った。彼女を救って帰り着くまで6日間かかり、5年間捕らえられ辱めを受けたVanさんは、漸く、故郷に戻った。
故郷に戻ることができた今もなお、彼女は悪夢から完全に解放されていない。友人はなお行方不明のままだ。Tonさん夫妻も困窮して病を抱え、娘を見つけられた喜びはあるものの、3,000万ドンの借金を返すあてはない。

5年間、緊張の中で暮らし、家族を思いつづけ、また言葉が不自由なためにしゃべることもほとんどなかった彼女は、今も心を開くことができない。中国に置き去りにした3歳の子供のことを語るとき、彼女は涙ながらにこう言う。「その時はただ家に帰ることしか考えてなかった。でも帰ってみると子供が恋しい。どうすればいいの・・・」。




爽やかに生きる

2015-01-21 | 述懐
私は、会社生活一辺倒な生活をずっと送り続けていた。22歳よりこの方人生のほとんどの時期において会社と深く関わってきた。全体としてこの関わりが私にとってプラスであったのか、あるいはマイナスであったのかは、何を尺度として考えるかによって結論はまるで違ってくる。

財をなすとか名をあげるという世俗的な成功という尺度からすれば、まあまあ平均的と言えるだろう。これは、ただ仕事に熱中し単にガムシャラにやってきた結果であろう。特に、財や名をなすことに積極的であった訳でもなく、寧ろ、こうした世俗的な関心は、少なかったのかも知れない。

世俗的な利益を追いはじめると、人間の本能として現状に満足できなくなって、より多くの利益を求めて鵜の目鷹の目の生活をするようになる。そうなれば、あるときは心ならずも自分の主義主張をまげざるをえなくもなろうし、多かれ少なかれ人々に阿ね、媚びを売りながら生きて行かざるもえなくなるであろう。そうした涙ぐましい努力の結果、社会の成功者と呼ばれる多くの人々が生まれるが、巷に溢れているそうした実例を見ると、傍で思うのとは違って成功者の心は絶えず不安に苛まれ、道徳的にも荒廃を極めていることが多い。十分安定した地位にありながら普通では考えられないような破廉恥な犯罪に手をだすことになるのはすべてそのためであろう。

私は、心の内実は貧困そのものという空しい生き方にはっきりと訣別することが自分の心の自由と平安にとって何よりも大切なことであると考えるようになった。自由人となった今、私の生き方は何ものにも制約されることなく、ただ自分がやりたいこと、やるべきであると考えることをやり、自分としての筋を通して自分独自の人生を生きることに徹することである。

自分の心の赴くままに自由に生きることは、たとえそれが世俗的な利益とは無縁な生き方であったとしても、精神的にはまことに爽やかなものである。自由に生き、歯に衣着せずものを言うことは人々と協調し妥協しながら送る社会生活ではあまり感心できる生き方でないのかも知れない。しかし、最近、そんな生き方をしている私はそのためにストレス皆無の、幸せであると自ら満足する生活を送りだしている。悠々自適とはきっとこういう心穏やかな生活のことであろうと思う。


プロと言われる人

2015-01-18 | 述懐


最近、音楽に挑戦している。今迄、音楽は、レコーう流れで色々聞いた。中でも聞いていて楽しいと感じるクラッシックとジャズのどちらかに挑戦してみようと思い、どちらにするか決める為に音楽書籍の販売店で楽譜を見た。クラッシックは、何やらオタマジャクシが一杯並んでおり、見て直ぐにこれは無理だと感じ、ジャズにした。次に、どの楽器にしようか考えたが、ギターは、オタマジャクシはあるもののコードでも表示されており、ピアノに比べたら簡単そうだと思い、ジャズギターを始めることにした。

始めて3年になるが、未だに音楽にならない。音符を引くとそれなりにメロデイーになるのだが、音符の長さ、バッキングの仕方、一小節にハメながらテンポを作る難しさに往生している。テレビで何気なく演奏している人々の凄さを改めて感じている。

テレビで演奏しているメジャーデビューした人は、幸運な限られた人であり、都会に出て、何年も苦労しながら頑張った結果であろう。何年頑張っても表に出れない人が多くいる。ギターの先生に、「何で音楽にならないの?」と聞いてみるものの、先生は、「私は、高校生からギターを弾いています、もし、3年で弾けたら、私は何をやっていたと言うことになりますか。」と慰めてくれる。

確かに、サラリーマンも10年経ってやっと一人前と言う。ましてや、職人の世界は、15年、20年経って一人前と言われている。3年程度で、諦めることは問題だが、果たして、10年経って人に聞かせる、感動を与える演奏が出来るか不安である。

何事も地道に一歩一歩やることは重要だが、どうもそれだけでなさそうと感じている。勿論、一流の演奏家、プロ野球選手、プロゴルファー、一流アイススケーター・卓球選手等は、日々、血の滲む努力をして現在のポジシヨンを勝ち得たのであろうが、それに加え持って生まれた才能もあるのでは無かろうか。

それにしても、どの分野に於けるプロも、自分の世界を作り、極めた人は賞賛に値する。明日から、練習時間を増やしEarl Klugh (g)、Diana Krall(Vo&P)のように聞かせるジャズを目指し頑張ってみることにする。