日常と考えるヒント < By Taki Katayama >

< 論及、述懐、日常/旅/グルメ >

文学の楽しみ方について(続き)

2018-02-01 | 述懐
先日、NHKでイシグロ・カズオ特集をやっていた。その中でイシグロ氏は、一冊の本を書くのに色々な構想を練り、時に筆が進んだり時に休んだりしながら一冊の本を仕上げているとコメントしている。彼は、本の中で比較的記憶とはどんなものかを意識し考察して述べていると語っている。

と言うことは、本によっては、作家の意図を探る楽しみもあると言うことであり、単に本を楽しむだけでは、本当に本を読んだことにならないのかも知れない。

勿論、絵や音楽の様に単純に、『美しい、楽しい、感動する』という楽しみ方だけでも良いのだろうが、作者が構想を練り考え、読者に何かを感じさせる意図を持って筋を考え本を書くとなると、その読み方だけでは、楽しみが半減することになるのかも知れない。



文学批評を行う研究者が絶え間なく現れ、長い間、多くの文学研究者によって批評が行われていることからすると、イシグロ氏の言う作者の意図を持って仕上げられた作品から作者の意図を探る楽しみもありそうである。

前回のブログで文学の楽しみ方については、『文学は、①文学の中で人の声を聴いたり、他人の声を聞いたり、他人の声を聴きながら他人の楽しみを知ること。②文学の感じ方や楽しみ方は、人それぞれであり、それぞれが自由に感ずれば良い。』と結論付けたものの、作者の意図を探る楽しみもありそうである。今回は、その様な楽しみが存在するのか、1冊の本を取り上げ、文芸批評をして考えてみたい。

作品:青い目が欲しい、   作者:トニ・モリスン



あらすじ:
大恐慌時代の白人の容姿に憧れる黒人の少女を描いたもの。ピコーラという黒人少女は、自分の不幸の原因が白人の美の基準にそぐわない自分の容姿にあると思い込み、眼が青ければもっと違っただろうと考えるようになる。ピコーラは一生懸命、毎晩祈り続けるが、その願いは叶わない。 自らの価値に気づかず、無邪気にあこがれを抱くだけのピコーラは、父親の強姦による妊娠で気がふれ「青い目になれた」と信じ込む。白人社会のアメリカ社会の中で、ピコーラを不幸にしている本当の原因のありかを探りながら白人が定めた価値観を痛烈に問いただす。

文芸批評:
トニ・モリスンは、1931年にオハイオ州で生まれ、現在、87才の米国の女性作家である。1984年からニューヨーク州立大学での教職、1989年から2006年までプリンストン大学の教授を務めた。戦後のポスト・モダニズムとマイノリテイ文学を代表する作家の一人であり、1993年にアメリカの黒人女性作家として初のノーベル文学賞を受賞した。

この作品『青い眼が欲しい』"The Bluest Eye" は、1970年に書かれた初期の作品だが、2006年、ニューヨーク・タイムズにより、この作者の『ビラヴド』(1988年)が過去25年間で最も偉大な米国の小説に選ばれている。

この作品は、黒人少女のピコーラが、どうして自分が持っている美しさに気づかないのか、問いかけている。そして人種的な嫌悪感が潜んでいる人は、どういう風にその嫌悪感を学び取るのだろうか、また本物の自分であるより偽物である方が良いと感じさせるのは何なんだろうか、白人社会のアメリカ社会の中で、ピコーラを不幸にしている本当の原因のありかを探りながら、白人が定めた価値観を痛烈に問い正している作品である。



この本は、1962年に物語を書き始め、1965年に完成したものだが、この頃の米国では、1952年に人種隔離教育は違憲である訴えが起こり、1954年に違憲のブラウン判決、1961年ケネデイー大統領就任、新しい公民権法案を議会へ提案、1963年には、奴隷解放100周年集会のワシントン大行進は20万人を超える大規模なものとなり、公民権運動が盛り上がった
時期である。

(1968年にキング牧師が暗殺)
“We must accept finite disappointment, but never lose infinite hope.失望はいつしか終わる、常に希望を失ってはいけない。” & “Nothing in all the world is more dangerous than sincere ignorance and conscientious stupidity.この世で本当の無知と良心的な愚かさほど危険なものはない。” by Dr. Martin Luther King Jr.



この作品は、米国における黒人問題を強く意識して書かれたものであるが、同時に人間に共通する劣等感、傷つき易い幼い子供の心に生まれる意識が如何に内面化するかをも語っている。




確かに、上記のように批評を試みながら文学に接すると、作者が作品を描いた時期の文化的背景、当時の社会がどの様なものであったの理解が深まり、作者の主張を自分なりに解釈できる面白さがある。

しかしながら、文芸批評をしようと意識することで、人種問題、文化、政治、民族、価値、人間の心理、思考等々ややこしい問題も絡んでくることでもあり、批評をせずに文学や戯曲を音楽を聴いたり、絵を描いたりするように楽しむのも楽しみ方であろう。矢張り、どちらが正しいと言うことではなく、自分なりに楽しめる楽しみ方で楽しめば良い様に思われる。



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