日常と考えるヒント < By Taki Katayama >

< 論及、述懐、日常/旅/グルメ >

人間とは何んだろうか?

2016-09-12 | 述懐
我々は、生活の中で色々な事に遭遇するが、それは、人間として当たり前の日々の出来事にしか過ぎない。理性を使い、笑い、自由を求め、労働するのが人間なのだろうか。人間とは、一体何だろうか。動物とは異なる種差を考えることで示し、人間となろうとするのが人間なのだろうか。では、人間となろうとするとは、何だろうか。

我々が日々生きる上での如何なる出来事や問題に遭遇しながらも、淡々と生き、自分の行動を考え、選択し、在るがままに生きて行けば良いのだろうか。




それを解決する事は、結局のところ、人それぞれの考え方によるのだろうが、カントは、以下の三つの問いで「人間とは何か」を語っている。

① 私は、何を知りうるのか。=「純粋理性批判」理性
人間として知りうることは、自らが知覚する範囲の中で、自らが知覚することで実体を認識することである。

ただ、その実態の認識も、認識の正しさを立証できないので、我々は、日々の生活の中で、物や人間の存在の理由、意味を認識できない。(=色々の考え、認識があり、どれが正しいか論証出来ない。)

② 私は、何をなすべきか。 =「実践理性批判」行動
人間が無意識の内に存在するものと認識しているものは、道徳である。これは、善悪の規範であり、共通性のある個人の価値観である。この規範には、どの文化にも共通の部分と、習慣や慣習的規範のように文化によって大きく異なる部分とがある。殺人、盗み、騙し、強姦などは、どの文化でも不道徳視されており、理性では判断しかねる行動規範である。



③ 私は、何をすることを許されるか。=「判断力批判」判断
これを巧みに規制しているのが、宗教である。宗教は、人間の力や、自然の力を超えた存在の観念である。

宗教には、キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教等がある。 
キリスト教 約20億人(33.0%)、イスラム教(イスラーム)約11億9,000万人(19.6%)、ヒンドウー教 約8億1,000万人(13.4%)、仏教 約3億6,000万人(5.9%)、ユダヤ教 約1,400万人(0.2%)と言われている。


宗教は、現在の世界をどう生き、死後に備え生きるかを問うているものであり、宗教毎に何を望み、何を望んではいけないかを定めている。(=日本は、多神教国家であり、その規範が神道、仏教、武士道等で、その存在の概念が培われている。)




結局のところ、我々人間は、何事も理性で認識できず、道徳、宗教の様な共同規範に従い行動・判断しながら生きて行く存在でしか無いのかも知れない。だとすると、単に人間とは、

*微笑み、笑い、泣き、激しやすく変わり易い情動を備えた存在
*悩み苦しむ存在
*享楽的で、自己陶酔的で、我を忘れがちで、暴力的だが、愛することの出来る存在
*想像力で満ち溢れた存在
*死を知っていながらそれを信じることの出来ない存在
*精霊と神に憑かれた存在
*客観的世界との間に何時も不確かな関係を保っている主観的な存在
*誤りや迷走を免れえない存在
*無秩序を生み出す歪んだ存在

:なのであろう。

芥川龍之介は、1929年(昭和2年)35歳で自殺、彼は、23歳の時に彼の人間に関する考えを表現したと思われる「羅生門」を執筆。この小説は、職を失った下人が悪を行うことを躊躇うも、生きる為に、人を騙してやっと生きてきた死人の女性の毛髪取っている老婆から、自分も服を剥がし奪うと言うことで生きる人間の業を表現している。生存苦の寂しさを癒すことが出来ない、人間は醜い、自己も醜い、そしてそれを見て生きるのも苦しい、でも人は、そのまま生きることを強いられると言う孤独感や厭世的心情を描くことで、人間の寂莫(しゅうばく、ひっそりと寂しい)を文学で表現した。

また、「河童」では、精神病患者が語る河童と言う架空の河童世界で人間の醜さ、身勝手さ、うぬ惚れ等々の人間社会を模写している。その精神病患者が怒鳴りつける言葉、「出ていけ!この悪党めが!貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、図々しい、うぬ惚れきった、残酷な、虫のいい動物なんだろう。出て行け!この悪党めが!」と言う言葉が、人間を良く表現しており、読者に対するアンチテーゼのように思える。

カントも芥川龍之介も哲学、文学と言う異なる分野ではあるが、人間に関する自らの考えをそれぞれに表現している。先人達の考えに触れるにつけ、人間とは、勝手な、我儘な、悩み苦しむ普通の存在であり、その意味に於いては、人間とは、あるがままに生きながらも、常に、私は、何を知りうるのか、私は、何をなすべきか、私は、何をすることを許されるか、を常に考えながら、自然体で生きて行くのが人間なのかも知れない。




ドイツ的とは何か?

2016-09-01 | 論及
ドイツに永年住んでいたものの、この質問に中々答えられない。メルケル首相率いる今のドイツは、国際政治の中で際立っており、ギリシャ危機への対応、難民受け入れ表明、テロ対対策、安定した財政基盤と産業競争力を誇っている。歴史的に見ても、多くの音楽家、哲学者を排出しており、それがどこから来るものなのか、何か独自のドイツ的気質がそうさせているのだろうか。

良くドイツ人は、理屈っぽく細かい、綺麗好き、また難しく、内面にこもる二重人格だと言われている。何がそうさせているのか、ドイツ的本質に迫ってみたい。彼らの行動が何に基づいたものか考える為に歴史、文学史から考えてみたい。

( I )歴史:
・元々欧州は、紀元前に北方バルト海方面からゲルマン人が南下し、先住ケルト人を追い出したところから始まり、加えてローマ人がドイツ西部に住み着くことから始まった。紀元後、9年にアウグストウスが初代ローマ帝国皇帝に就き、ローマ帝国が欧州全体を支配していた。

・4世紀以降(375年)、ゲルマン民族の大移動が始まり、ドイツのあちこちに散らばり定住、ローマ帝国の分裂を経て、476年に西ローマ帝国が滅亡し、481年フランク人が王となり、フランク帝国に受け継がれた。このフランク帝国は、「キリスト教的世界国家」と意識され、その後「神聖ローマ帝国」に受け継がれていった。

・ここから中世が始まる訳だが、800年には、カール大帝が、ローマの帝冠を受け、ヨーロッパを収め、その後、962年オットー1世のローマ帝国の載冠により、神聖ローマ帝国が誕生。

・12世紀〜13世紀の封建期には、未だドイツ語が使われておらず、ドイツ、ドイツ人としての意識は無かった様だ。




・その後、14世紀にボヘミヤ王カールが王位に就き神聖ローマ帝国皇帝に即位、オーストリアのハプスブルグ家が帝位を独占していた。

・16世紀初めには、ルターの宗教改革(1486-1546)で神中心から人中心に変わると啓蒙思想が、欧州全体に浸透していった。この啓蒙思想が、神中心の感性の世界から理性中心の合理的な世界へと人々を誘導し浸透していった。

・17世紀は、未だ絶対王政とバロック様式全盛の時代であったものの、地方分権的なドイツ社会では、この啓蒙思想が専制君主経由分散して民衆に精神革命として浸透していった。更に啓蒙思想→シュトウルム・ウント・ドラッグ運動(非啓蒙主義)→ロマン主義の風土を生み出し、この新しい動きが、多くの音楽家、思想家を生み、やがてドイツ的と言われる状況を生み出したものと思われる。

・フランスは、ルイ14世(1638〜1715)が統治していたが、フランスでは、この啓蒙思想がナポレオン(1769-1821)の出現とともに市民革命(1789)を引き起こした。ドイツでは、17〜18世紀まで小国が多く存在していた為、市民革命を引き起こす迄には至らず、人々の心の中に広がって行った。この内面への広がりが、ドイツ的本質に潜む源流となったものと思われる。フランスと比較すると以下の違いとなっている。

   ドイツ流        フランス流
   文化          文明
   魂           精神
   詩人          文士
   音楽的市民       文学的ブルジョア
   悲観主義的保守主義   改良主義的急進主義
   芸術的形成       知的批判的分析

・第一次大戦、第二次大戦を経て、その気質が近代化を盛行させ、現在のドイツを創りあげたものと思われる。


( II ) 文学史:
・12・13世紀のローマ帝国時代のこの地域は、未だドイツ語が存在せず、地方の言語、ラテン語が使用されていた。

・ドイツ16世紀後半になってもドイツ語は、30%使用される程度であったが、17世紀初め30年戦争(1618〜1648年)を経て、18世紀の初めに70%、18世紀末になり、漸くドイツ語がこの地域でほぼ100%使用されるようになったのである。

・ドイツ的な文学作品としては、以下が代表的なものがある。
  1)12・13世紀(1150〜1250) 封建期の文学
    「ニーべルング詩」1200、作者不詳、
     ・5世紀のフン族の王アッチェラのヨーロッパ侵入とブルグント王国の滅亡の歴史にジークフリート伝説が加わった内容
     ・宮廷文学、騎士道
・大悲劇作品

  2)17世紀頃 啓蒙思想、絶対王政とバロック時代の文学
    「阿呆物語」1600、グリンメルス・ハウゼン、
      ・純粋無知な少年が勉学、キリスト教を学ぶ
      ・やがて眼から鼻に抜ける利口者になり主人公の生涯を描く

  3)18〜19世紀の変わり目頃 古典主義文学
    「若きウエルテルの悩み」 ゲーテ
      ・不幸な恋愛によるウエルテルが自殺する話
      ・虚飾を排し、自己の内部から湧き出るものを重んじ人間として自己を生かし生きるが、社会がそれを許さないことを悩む。
      ・精神的作品


     「ファウスト」 ゲーテ
      ・第一部(1808)、第二部(1832)
      ・人間としてあらゆる知識を得たが、自分に失望している老学者ファウスト。
      ・色々学んだが、自分の愚かさに気づき、反省し悪魔と「如何なる不満も言わない」と契約を結ぶ。
      ・人間は、常に迷うものであり、神と悪魔が対立関係に立ち、二つの魂が常に宿っているが、良い人間は、曇った衝動の中
でも正しい道を自覚していると表現している。
      ・時空に係らず、我々を力づけてくれる積極的な人間観を表現している。その人間をファウストで表現している。ファウスト
は、人間のありかたを見定め、表現している。

以上の歴史的観点から分かる通り、キリスト教精神→宮廷文化(騎士道)→啓蒙思想→シュトウルム・ウント・ドラッグ運動(非啓蒙主義)→ロマン主義文化を生み、現実生活の思いを断って、精神の世界で独立し、非政治的、非現実的ありかたこそ、自分達を他から区別し、そこに誇りを感じさせたのである。そして、ドイツ人の知識人層は、こういう非現実性においてこそ自らを高しとしたのである。

・この悲観主義的保守主義が、自己の内部に向かわせる気質を育み、ドイツ的気質、精神を生んだ様に思われる。自己の内部に向かわせるこの気質は、カントの以下3著書に表現されている。カントは、理性を超え行動し自然の美を美しいと感ずる感性を持たねばならないとした。
1)「純粋理性批判」理性=私は何が出来るか?
2) 「実践理性批判」行動=私は何をすべきか?
3)「判断力批判」判断=私は何を望むことを認められるか?

・思想分野では、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデッカー等の思想家を生み、更に、芸術分野では、モーツアルト、ベートーベン、バッハ等の偉大なる音楽家を生んだものと思われる。

・ヒットラー時代のアイヒマンに対する戦後裁判でも分かる通り、啓蒙思想が、一時は、官僚主義に利用されたものの、非現実性においてこそ自らを高しとしたドイツ的気質、本質が、それを修正し、そのドイツ的精神、思想、芸術に生かされ、現在に至っているものと考える。そう考えると、ドイツにモーツアルト、ベートーベン、バッハ等の芸術家、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ハイデッカー等の思想家を多く生んだ理由も理解出来る。




トーマスマンは、1945年の米国での講演「ドイツとドイツ人」の中で、ドイツ人は田舎者で、臆病で、中世の文化遺産が残っており、ロマン主義から国粋主義を生んだ悪魔的ドイツと芸術、思想家を生んだ二つのドイツ的本質が存在し、それが現在のドイツを創り上げているとしている。

そして、ゲーテの言う、道を誤っても、正しい道に戻ろうとする態度がドイツを国際的に主流の立場に置き、これらがドイツ的、ドイツ的本質と言われるものでなかろうか。