日常と考えるヒント < By Taki Katayama >

< 論及、述懐、日常/旅/グルメ >

ルサンチマン的発想の排除

2015-05-07 | 論及
最近、新聞を読むとあらゆる新聞、TVニュースの内容が画一的で面白さを感じない。何故だろうか?メデアの独自性が失われつつあり、どれも一方的に批判、賛同をするだけで両面から物事を捉え、読者にその判断の選択を委ねないせいかもしれない。或いは、単に話題が乏しく、同じ話題を取り上げざるを得ないのかもしれない。左派系のメデアは、特に酷く、批判的な記事を書き批判をしていれば売れると思っているせいか、何故かエキセントリックに反対派の行動を取り上げ、批判の為の批判をしている。

原子力発電、憲法改正、安全保障、沖縄の米軍基地、外交問題等々に於いて、何かと反対派の意見だけを大きくクローズアップしている。私は、全て100%賛成の訳では無いが、止む無く当面は賛成せざるを得ないと言う選択肢もしており、そう考えさせる報道の仕方もあっても良い筈である。以前は、時間の関係上、やむを得ず一方的報道をしているニュースが目立つTV朝日の報道ステーシヨンでニュースを見ていたが、最近は、朝日新聞社のコメンテーターだけでなく、比較的中立なコメンテーターも揃え、両面からニュースを報道するようになり見やすくなっており、喜ばしい限りである。

福島の原発問題は、非常に厄介な問題である。我々は、日頃、電気無しで生活できない状況に追い込まれているが、原子力は危険だと言うだけで、原発に反対し、一般受けを狙い反対している政治家、政党が多い。原発無く電力を確保出来れば、それに越したことは無いが、地球温暖化、日本の国際収支、原子力の学術的知識の蓄積等々他の側面も考慮すれば、一方的に反対をするだけでは済まされない筈である。一方的に反対する人間には、比較的、ルサンチマン的発想をする人が多い。沖縄の基地問題もしかりである。





ニーチェによれば、ルサンチマンを持つ人は非常に受け身で、無力で、フラストレーションを溜めた状態にある。実際の行動をとるには社会的な制約があり、自身の無力を痛感し、ルサンチマンを持つ状態に陥ると言っている。フラストレーションをむしろ肯定し、何もできないことを正当化するようになり、社会的な価値観を否定したり、反転した解釈を行うようになる。これは、敵を想定し、その対比として自己の正当性を主張するイデオロギーにあり、敵が悪の元凶とし、だから反対に自分は道徳的に優れていると主張する。そのルサンチマンの敵が拡大すると、対象が社会全体になる。「世界はどうしようもなく悪によって支配されている。したがってわれわれのほうが世界より優れている」と拡大解釈されるようにもなる。イスラム国(ISIS)の発想に近いのかも知れない。

ニーチェは、自己との社会・世界・超越者との関係について考察し、『人間は理性的生物でなく、キリスト教的弱者にあっても恨みという負の感情(ルサンチマン)によって突き動かされており、そのルサンチマンこそが苦悩の原因であり、それを超越した人間が強者であるとした。さらには絶対的原理を廃し、次々と生まれ出る真理の中で、それに戯れ遊ぶ人間を超人とした。』即ち、ニーチェの思想は、自身の中に自身の生存の前提となる価値を持ち、すべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けていくことを目指したものであり、生の理想的なあり方を提示している。

大多数は、超人には成れないだろうが、少なくともルサンチマン的発想を排除する努力だけはしないと、物事が良い方向に進まないであろうし、平和な世界は作れないであろう。我々の住む世界が平和になるように、色々な角度から物事を見る目を養おうではないか。私も、日々その努力をして行きたい。



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