安保法制が国会の審議を受け成立した。評価は、それぞれの立場によって異なるだろうが、憲法改正には、時間と労力が掛かり、待った無しの安全保障体制を整える必要がある中で日本の主権を守る為に、憲法問題はあるが致し方ないと感じている。
今週は、また一つ厄介な問題が生じている。沖縄の翁長知事がスイスで開かれている国連人権理事会で、米軍基地が集中する現状を『人権侵害だ』と訴えた。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設問題で、日本政府を飛び越え、国際社会に『沖縄の米軍基地は、米軍に強制接収されてできた。日本政府は選挙で示された民意を一顧だにせず、新基地建設を強行しようとしている。』として、政府を飛ばし普天間飛行場の県内移設反対を国際社会に訴えた。
なぜ、県知事が、基地問題を政府ともっと真剣に議論をせぬまま、自己主張を繰り返し、政府との間で解決できないからと、拙速に、国際社会に持ち出したのか、私には理解出来ない。
勿論、日本政府としては、沖縄の民意を考慮し配慮する必要がある。ただ、日本政府が前知事が承認した問題を現知事の意向に沿わないと言う理由だけで、安全保障の問題を国際人権問題として取り上げ、国際社会にアピールすることは問題を残し、その行動には驚かされた。自由と民主主義を脅かすと主張しているが、私には、それを拡大解釈しているようにしか見えない。そもそも、何故、この様な行動するようになったのだろうか。翁長知事だけでなく、日本人の思考の歴史がそうさせている様に思える。非常に厄介な問題だ。
今の日本には、日本人を繋ぐ共通の意志疎通の場が無いように思われる。欧米では、キリスト教と言う共通の価値基準があったが、神道、仏教は、どの様な価値基準も吸収する独特の世界観を持っていることより、共通の価値基準を作り上げてはおらず、その為、共通の基盤が無く議論することで、お互いを相いれない状況を作り出している様な気がしてならない。戦前は、それを繋ぐものとして天皇が存在したのかも知れないが、今は、国民、小組織を繋ぐ役割は果たせていない。更に、共通の基盤が無いまま、お互いの分野で考え議論をするので、今回の翁長知事の様な行動が突然起こってくる様な気がしてならない。
言わば、各集団が内輪、よそ者と言う峻別をし、細かい組織に細分化された中でのみ価値を見出している、日本の近代化前の村社会の体質を引きずっているのではなかろうか。その結果、一つの集団の価値をそれぞれが求め、普遍的な価値を前提とした判断、問題解決に至らない様に思う。村社会の一つの集団が国際社会に繋がり、八方破れで、世界に向かって勝手に発言する、している様に感じる。従い、ナシヨナル・インタレストが国民の間に結ばれず、無視された状況を作り出しているのではなかろうか。更に、一つの集団の利益が確保されないと被害者意識を持ち、普遍的価値を持った行動でない今回の翁長知事の様な行動になるのではないかと思われる。
沖縄の基地は、戦後、基地が果たした役割も多いが、どちらかと言えば、色々な苦痛を沖縄県に負わせているのが実情であり、政府も真摯に沖縄と向き合って行かねばならないのは確かであり、ある程度の納得を得るまで話し合い、お互いの納得を得た上で進めるのが筋であろう。
世界のあらゆる地域で紛争が絶えない。紛争による難民も多く排出している。今日まで、平和な暮らしを続けて来られたのは、戦争リスクの低減で我々の経済発展を成し遂げた結果であるが、安全、平和、格差環境が大きく変わりつつある現在、平和ボケせずに、行動して行こうではないか。また、我々は、個の集団の利害から考えるのでは無く、普遍的な価値を十分考慮しながら我々の未来を切り開いて行かねばならない。
今週は、また一つ厄介な問題が生じている。沖縄の翁長知事がスイスで開かれている国連人権理事会で、米軍基地が集中する現状を『人権侵害だ』と訴えた。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設問題で、日本政府を飛び越え、国際社会に『沖縄の米軍基地は、米軍に強制接収されてできた。日本政府は選挙で示された民意を一顧だにせず、新基地建設を強行しようとしている。』として、政府を飛ばし普天間飛行場の県内移設反対を国際社会に訴えた。
なぜ、県知事が、基地問題を政府ともっと真剣に議論をせぬまま、自己主張を繰り返し、政府との間で解決できないからと、拙速に、国際社会に持ち出したのか、私には理解出来ない。
勿論、日本政府としては、沖縄の民意を考慮し配慮する必要がある。ただ、日本政府が前知事が承認した問題を現知事の意向に沿わないと言う理由だけで、安全保障の問題を国際人権問題として取り上げ、国際社会にアピールすることは問題を残し、その行動には驚かされた。自由と民主主義を脅かすと主張しているが、私には、それを拡大解釈しているようにしか見えない。そもそも、何故、この様な行動するようになったのだろうか。翁長知事だけでなく、日本人の思考の歴史がそうさせている様に思える。非常に厄介な問題だ。
今の日本には、日本人を繋ぐ共通の意志疎通の場が無いように思われる。欧米では、キリスト教と言う共通の価値基準があったが、神道、仏教は、どの様な価値基準も吸収する独特の世界観を持っていることより、共通の価値基準を作り上げてはおらず、その為、共通の基盤が無く議論することで、お互いを相いれない状況を作り出している様な気がしてならない。戦前は、それを繋ぐものとして天皇が存在したのかも知れないが、今は、国民、小組織を繋ぐ役割は果たせていない。更に、共通の基盤が無いまま、お互いの分野で考え議論をするので、今回の翁長知事の様な行動が突然起こってくる様な気がしてならない。
言わば、各集団が内輪、よそ者と言う峻別をし、細かい組織に細分化された中でのみ価値を見出している、日本の近代化前の村社会の体質を引きずっているのではなかろうか。その結果、一つの集団の価値をそれぞれが求め、普遍的な価値を前提とした判断、問題解決に至らない様に思う。村社会の一つの集団が国際社会に繋がり、八方破れで、世界に向かって勝手に発言する、している様に感じる。従い、ナシヨナル・インタレストが国民の間に結ばれず、無視された状況を作り出しているのではなかろうか。更に、一つの集団の利益が確保されないと被害者意識を持ち、普遍的価値を持った行動でない今回の翁長知事の様な行動になるのではないかと思われる。
沖縄の基地は、戦後、基地が果たした役割も多いが、どちらかと言えば、色々な苦痛を沖縄県に負わせているのが実情であり、政府も真摯に沖縄と向き合って行かねばならないのは確かであり、ある程度の納得を得るまで話し合い、お互いの納得を得た上で進めるのが筋であろう。
世界のあらゆる地域で紛争が絶えない。紛争による難民も多く排出している。今日まで、平和な暮らしを続けて来られたのは、戦争リスクの低減で我々の経済発展を成し遂げた結果であるが、安全、平和、格差環境が大きく変わりつつある現在、平和ボケせずに、行動して行こうではないか。また、我々は、個の集団の利害から考えるのでは無く、普遍的な価値を十分考慮しながら我々の未来を切り開いて行かねばならない。