我々は、生活の中で色々な事に遭遇するが、それは、人間として当たり前の日々の出来事にしか過ぎない。理性を使い、笑い、自由を求め、労働するのが人間なのだろうか。人間とは、一体何だろうか。動物とは異なる種差を考えることで示し、人間となろうとするのが人間なのだろうか。では、人間となろうとするとは、何だろうか。
我々が日々生きる上での如何なる出来事や問題に遭遇しながらも、淡々と生き、自分の行動を考え、選択し、在るがままに生きて行けば良いのだろうか。
それを解決する事は、結局のところ、人それぞれの考え方によるのだろうが、カントは、以下の三つの問いで「人間とは何か」を語っている。
① 私は、何を知りうるのか。=「純粋理性批判」理性
人間として知りうることは、自らが知覚する範囲の中で、自らが知覚することで実体を認識することである。
ただ、その実態の認識も、認識の正しさを立証できないので、我々は、日々の生活の中で、物や人間の存在の理由、意味を認識できない。(=色々の考え、認識があり、どれが正しいか論証出来ない。)
② 私は、何をなすべきか。 =「実践理性批判」行動
人間が無意識の内に存在するものと認識しているものは、道徳である。これは、善悪の規範であり、共通性のある個人の価値観である。この規範には、どの文化にも共通の部分と、習慣や慣習的規範のように文化によって大きく異なる部分とがある。殺人、盗み、騙し、強姦などは、どの文化でも不道徳視されており、理性では判断しかねる行動規範である。
③ 私は、何をすることを許されるか。=「判断力批判」判断
これを巧みに規制しているのが、宗教である。宗教は、人間の力や、自然の力を超えた存在の観念である。
宗教には、キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教等がある。
キリスト教 約20億人(33.0%)、イスラム教(イスラーム)約11億9,000万人(19.6%)、ヒンドウー教 約8億1,000万人(13.4%)、仏教 約3億6,000万人(5.9%)、ユダヤ教 約1,400万人(0.2%)と言われている。
宗教は、現在の世界をどう生き、死後に備え生きるかを問うているものであり、宗教毎に何を望み、何を望んではいけないかを定めている。(=日本は、多神教国家であり、その規範が神道、仏教、武士道等で、その存在の概念が培われている。)
結局のところ、我々人間は、何事も理性で認識できず、道徳、宗教の様な共同規範に従い行動・判断しながら生きて行く存在でしか無いのかも知れない。だとすると、単に人間とは、
*微笑み、笑い、泣き、激しやすく変わり易い情動を備えた存在
*悩み苦しむ存在
*享楽的で、自己陶酔的で、我を忘れがちで、暴力的だが、愛することの出来る存在
*想像力で満ち溢れた存在
*死を知っていながらそれを信じることの出来ない存在
*精霊と神に憑かれた存在
*客観的世界との間に何時も不確かな関係を保っている主観的な存在
*誤りや迷走を免れえない存在
*無秩序を生み出す歪んだ存在
:なのであろう。
芥川龍之介は、1929年(昭和2年)35歳で自殺、彼は、23歳の時に彼の人間に関する考えを表現したと思われる「羅生門」を執筆。この小説は、職を失った下人が悪を行うことを躊躇うも、生きる為に、人を騙してやっと生きてきた死人の女性の毛髪取っている老婆から、自分も服を剥がし奪うと言うことで生きる人間の業を表現している。生存苦の寂しさを癒すことが出来ない、人間は醜い、自己も醜い、そしてそれを見て生きるのも苦しい、でも人は、そのまま生きることを強いられると言う孤独感や厭世的心情を描くことで、人間の寂莫(しゅうばく、ひっそりと寂しい)を文学で表現した。
また、「河童」では、精神病患者が語る河童と言う架空の河童世界で人間の醜さ、身勝手さ、うぬ惚れ等々の人間社会を模写している。その精神病患者が怒鳴りつける言葉、「出ていけ!この悪党めが!貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、図々しい、うぬ惚れきった、残酷な、虫のいい動物なんだろう。出て行け!この悪党めが!」と言う言葉が、人間を良く表現しており、読者に対するアンチテーゼのように思える。
カントも芥川龍之介も哲学、文学と言う異なる分野ではあるが、人間に関する自らの考えをそれぞれに表現している。先人達の考えに触れるにつけ、人間とは、勝手な、我儘な、悩み苦しむ普通の存在であり、その意味に於いては、人間とは、あるがままに生きながらも、常に、私は、何を知りうるのか、私は、何をなすべきか、私は、何をすることを許されるか、を常に考えながら、自然体で生きて行くのが人間なのかも知れない。
我々が日々生きる上での如何なる出来事や問題に遭遇しながらも、淡々と生き、自分の行動を考え、選択し、在るがままに生きて行けば良いのだろうか。
それを解決する事は、結局のところ、人それぞれの考え方によるのだろうが、カントは、以下の三つの問いで「人間とは何か」を語っている。
① 私は、何を知りうるのか。=「純粋理性批判」理性
人間として知りうることは、自らが知覚する範囲の中で、自らが知覚することで実体を認識することである。
ただ、その実態の認識も、認識の正しさを立証できないので、我々は、日々の生活の中で、物や人間の存在の理由、意味を認識できない。(=色々の考え、認識があり、どれが正しいか論証出来ない。)
② 私は、何をなすべきか。 =「実践理性批判」行動
人間が無意識の内に存在するものと認識しているものは、道徳である。これは、善悪の規範であり、共通性のある個人の価値観である。この規範には、どの文化にも共通の部分と、習慣や慣習的規範のように文化によって大きく異なる部分とがある。殺人、盗み、騙し、強姦などは、どの文化でも不道徳視されており、理性では判断しかねる行動規範である。
③ 私は、何をすることを許されるか。=「判断力批判」判断
これを巧みに規制しているのが、宗教である。宗教は、人間の力や、自然の力を超えた存在の観念である。
宗教には、キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教等がある。
キリスト教 約20億人(33.0%)、イスラム教(イスラーム)約11億9,000万人(19.6%)、ヒンドウー教 約8億1,000万人(13.4%)、仏教 約3億6,000万人(5.9%)、ユダヤ教 約1,400万人(0.2%)と言われている。
宗教は、現在の世界をどう生き、死後に備え生きるかを問うているものであり、宗教毎に何を望み、何を望んではいけないかを定めている。(=日本は、多神教国家であり、その規範が神道、仏教、武士道等で、その存在の概念が培われている。)
結局のところ、我々人間は、何事も理性で認識できず、道徳、宗教の様な共同規範に従い行動・判断しながら生きて行く存在でしか無いのかも知れない。だとすると、単に人間とは、
*微笑み、笑い、泣き、激しやすく変わり易い情動を備えた存在
*悩み苦しむ存在
*享楽的で、自己陶酔的で、我を忘れがちで、暴力的だが、愛することの出来る存在
*想像力で満ち溢れた存在
*死を知っていながらそれを信じることの出来ない存在
*精霊と神に憑かれた存在
*客観的世界との間に何時も不確かな関係を保っている主観的な存在
*誤りや迷走を免れえない存在
*無秩序を生み出す歪んだ存在
:なのであろう。
芥川龍之介は、1929年(昭和2年)35歳で自殺、彼は、23歳の時に彼の人間に関する考えを表現したと思われる「羅生門」を執筆。この小説は、職を失った下人が悪を行うことを躊躇うも、生きる為に、人を騙してやっと生きてきた死人の女性の毛髪取っている老婆から、自分も服を剥がし奪うと言うことで生きる人間の業を表現している。生存苦の寂しさを癒すことが出来ない、人間は醜い、自己も醜い、そしてそれを見て生きるのも苦しい、でも人は、そのまま生きることを強いられると言う孤独感や厭世的心情を描くことで、人間の寂莫(しゅうばく、ひっそりと寂しい)を文学で表現した。
また、「河童」では、精神病患者が語る河童と言う架空の河童世界で人間の醜さ、身勝手さ、うぬ惚れ等々の人間社会を模写している。その精神病患者が怒鳴りつける言葉、「出ていけ!この悪党めが!貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、図々しい、うぬ惚れきった、残酷な、虫のいい動物なんだろう。出て行け!この悪党めが!」と言う言葉が、人間を良く表現しており、読者に対するアンチテーゼのように思える。
カントも芥川龍之介も哲学、文学と言う異なる分野ではあるが、人間に関する自らの考えをそれぞれに表現している。先人達の考えに触れるにつけ、人間とは、勝手な、我儘な、悩み苦しむ普通の存在であり、その意味に於いては、人間とは、あるがままに生きながらも、常に、私は、何を知りうるのか、私は、何をなすべきか、私は、何をすることを許されるか、を常に考えながら、自然体で生きて行くのが人間なのかも知れない。
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