くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

陸奥の佐幕を行く

2012年11月18日 | くない卿見聞記
通勤途中の車内中吊りで見つけた“戊辰戦争”の企画展。
佐幕の私には看過出来ないタイトルと内容だったので、10月最後の土曜日、これらを観に福島へ行って来ました。
・・・がその前に、mixiなどで繋がりのある方にお会いするため、那須に立ち寄りました。
ここにトレーラーハウスを置いて週末を過ごされているそうで、(前々から興味があったので)この機会にお邪魔しました。
着いて見て、中に入るまではどんなところなのか漠然とした想像しかしていなかったんですが、、、
来て見て、中に入って驚きの連続!
私からすれば、そこは夢の国です!
居室空間は、およそトレーラーハウスの中とは思えない造り。
この他にもいろいろと、ただただ羨ましい限りで、1時間半近くゆっくりとさせていただきましたm(_ _)m
ちなみに、ここにお邪魔する前、近くで開かれていた朝市にも立ち寄りました。
地産のフランクソーセージと突き立てのお餅をいただきました。
とっても美味かったですヾ(≧∇≦)
また、この時にしか売らない?!牛乳プリンをご馳走になったんですが、ババロアみたいでとっても美味かったです!

さて、目当ての企画展は福島の白河二本松会津若松の3か所で開かれていました。
そのどれもが興味の惹く内容だったので、せっかくの機会、3か所を巡ることにしました。
その最初に訪れたのが、奥羽の喉元に当たる白河です。
那須から、山を越えて走る県道と国道4号線を通って30分程。
会場は、白河小峰城址内に在る【白河集古苑】。

こじんまりとした平屋の資料館では、“八重の生涯と戊辰白河口の戦い-ゆずれない心、それぞれの矜持-”と題して開かれていた白河会場の企画展は、激戦だった白河口の戦いを知ることのできる、とても有意義で(知的に)満足できる内容。
展示量も多くて、(相変わらず)タイトなスケジュールだったらじっくりと丁寧に観ていきたかった内容です。
市内に点在する激戦の痕跡も紹介されていたので、もし今度、機会があれば是非に巡ってみたい・・・と思いました。

※古来より奥羽の喉元に当たる白河は、戦略上の要衝でした。しかし、戊辰の前年、8代44年に渡ってこの地を治めていた阿部豊後守家が、幕府閣老(豊後守正外)として関与した兵庫開港勅許問題で懲罰的所替で隣地の棚倉へ移ったことで城主不在(二本松藩丹羽家預地)となる。この状況で戦乱を迎えたので、白河領内は混乱を深め、東西双方に大きな損害と犠牲者が出したが、同盟軍はこの要衝を抑えることが出来ずに撤退。
東山道軍の橋頭保が確保されることになり、同盟軍が不利な状況となる。

小峰城と集古苑は白河駅のすぐ近く。
この日は、駅の反対側で産業物産展が開かれていたようなんですが・・・行きたい気持ちをぐっとこらえて、次の二本松に向かいました。

二本松までは、国道4号線をひたすら進むこと1時間程。
(白河と同じく)から程近い、図書館と隣合う歴史資料館で開かれていました。
ここ二本松会場の題目は“新島八重の生涯と二本松藩の戊辰戦争”です。
戊辰戦争の“悲劇”として筆頭に挙げられるのは、きっと会津藩の白虎隊でしょうが、ここ二本松の戊辰は、それ以上に悲劇的だったのでは・・・と、この企画展を通じて改めて認識しました。
残念ながら、時間の都合上ここの展示も足早でしたが(^^ゞ
それでも、特に二本松藩士の激闘を紹介する部分では足を止め、その苦闘を知って落涙せずにはいられまでした、、、。

東山道軍は、白河口の他にも浜通りから軍勢を押し出して磐城平や三春などを降して中通りに侵攻。
二本松は、主力を(預領となっていた)白河口に派兵していたために手薄となっていたので、残っていた隠居(老人)や少年達で急遽軍を編成してこれに対抗しようとしたが、衆寡敵せず、二本松城は陥落して多くの死傷者を出し、藩主家一族は親類の羽州米沢に落ち延びました。
会津の少年兵団は“白虎隊”として名が知られていますが、二本松にも白虎隊と同じ頃の少年で構成された軍勢がありましたが、東山道軍の思わぬ侵攻に急遽編成された出陣し、結果、多くの死傷者を出してしまいます。
この状況の展開から、二本松の周章狼狽ぶりが垣間見てとれます、、、。
なお、彼らはいまでこそ“二本松少年隊”という名で知られていますが、この隊名、後世の人々が往時の偲んで名付けたそうで、彼らは“隊名”も決まらぬ内に出陣していったでそうです。
この他にも、多くの犠牲を払い、結果、東山道軍に膝を屈さざるを得なかった二本松。
この思いを忖度するに、落涙せずにはいられません、、、。

この後、最後に向かったのが戊辰戦争のシンボリック的な存在である会津若松です。
けど、この時すでに14時半。
この時期無料開放されている福島県管轄の有料道路を通って向かいつもりだったんですが、、、
遅れを取っては一大事なので、東北道磐越道を通って行きました。
お蔭で、二本松から1時間ほどで着きました(^^ゞ

会津若松には今年の5月、米沢の上杉まつり参陣後に入りましたので、凡そ5か月ぶり。
その時は、往時の赤瓦に葺き替えられた会津若松鶴ヶ城には登れず、カメラのエネルギーも切れて記録にも満足に収められなかったので、是非とも行きたかった地。
今回は、その無念を存分に晴らせました。

城址内、本丸御殿址の前に在る茶室麟閣

戊辰後城外に移されていたのを、平成になってここに戻して復元しました。

ここで一服いただきました。

天守の対、鉄門を跨ぐ走長屋を出た先。

築地の向こうに在る月見櫓址から望む鶴ヶ城。


なお、勿論ここでも大河関連の企画展を開催していました。
ただ、前2館ほどではなく、“京都守護職拝命150年と『新島八重』”というタイトル(特に前者)にとっても期待していったんですが、ちょっと肩透かしを食らった感じ。
また、外観は往時を偲ばせる立派な雄姿なんですが、中は・・・コンクリ。
よくある博物館に仕立てられています。
近年は、(文化庁による)文化財行政に関する観点(許認可過程)から史実に基づく“復元”が行われているので、できれば・・・できれば・・・内装も、往時を偲ぶ装いが・・・よかったです。
(天守に繋がる干飯櫓と走長屋や塩蔵(天守下層)、近年復元されたので往時を感じる造りでした。)

鉄門から望む天守閣。

復元された走長屋。

天守から入って走長屋までが鶴ヶ城。
ここから、跨いだ鉄門と鶴ヶ城を望む。



戊辰後の惨劇を映す古写真に近いアングルから。
その向こう、走長屋の下にどっしり構える鉄門。

立派です。

今回会津若松入りしたのは夕方近くだったので、城内に絞って巡り、日暮れを迎えた17時過ぎに帰路に着きました。

東北入りは5月以来5か月ぶり。
その時は急いでいたりして気が付かなかったんですが、、、
例えば、白河小峰城は石垣等が崩落していて立ち入れませんでした。

また、二本松へ行く途中に、仮設住宅やその案内看板が何カ所もありました。
中には、浪江や楢葉の町名も。
そして、二本松市歴史資料館の敷地の中には放射線量を計測するモニタリングポストがありました。
先の大震災の爪痕と、原発事故の影響を改めて感じました、、、。

しかし、佐幕派の私にとって東北は親近感がある地域です。
他にもご縁有る地域なので、これからも機会が有ったら絶対行きます!
まずは、、、
17日(土)のアド街ック天国で紹介されていた湯野上温泉大内宿
いずれも通過していましたが、会津公の他佐幕派諸藩が参勤交代で通った()会津西街道(下野街道)の宿場町の一つなので、是非是非行ってみたいですね。。。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 11月16日(金)のつぶやき | トップ | 11月22日(木)のつぶやき »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

くない卿見聞記」カテゴリの最新記事