くない鑑

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尊皇佐幕の意思確認【佐幕方】

2009年12月30日 | 知識補給
皇居東御苑で、即位礼に関する展示を観て萌えた後、次に向かったのは大森。
この近くに在る、品川区品川歴史館で開かれている特別展「品川を愛した将軍徳川家光-品川御殿と東海寺-」を観に行ってきました。
いままで、蒲田には何度も行ってるんですが、大森は・・・初めて降りました。
正直、降りるまでは大したことない、しがない小さな駅だと思ってましたが...
ドデカイ駅ビルとかが併設されていて、賑やかだった事に驚きました(^^ゞ

目指す歴史館は、このドデカイ駅ビルとは反対側の口より出て、池上通りを品川方面へ進むと在ります。
その途中、ウワサには聞いていた大森貝塚跡を見つけました。

大森駅のホームにも記柱碑がありました。

せっかくなので、ちょっと行って見ると...

線路沿いに石碑がたってました。

階段下には、説明板もありましたが、ちょっと・・・寂しかったです。

気を取り直して、目当ての歴史館へ,途中寄り道したので、駅を出て20分ほどで辿り着きました。

小ぢんまりとした館内に入り、受付で観覧料を払って展示室へ向かうと、ちょうど、学芸員による展示解説が始まっていたので、それに帯同して観てきました。

徳川家の「別荘」は、小菅や浜などに在るのは知っていましたが、品川は・・・この展示を見聞きするまで、知りませんでした。
しかも、家光公の在職16年中、180回余も御成をしています。
時には、伊達家大崎屋敷に立ち寄って政宗公を見舞ってから向かう・・・という事もあったようです。
ここでは、度々茶会などが催され、小堀遠州(遠江守政一)や、外様では唯一主人を務め、家光公から信認されていた長州長府藩主毛利秀元がその時使った茶道具や文書が展示されていました。
そして、家光公の御成を証明する史料として展示されていたのが、姫路市立城郭研究室所蔵の『江戸幕府日記』。
どうやら、姫路城主酒井左衛門尉家に伝わった史料のようですが、かの『徳川実記』(御実記)は、これを原資料として編纂されたそうで、若干脚色や事実と異なる記載がまま見られる『御実記』よりも、この『江戸幕府日記』(正しくは、「寛永拾三年丙子年日記夏」など)を用いる研究者は、少なからずいるそうです。
近世史家として、この存在を知ってはいましたが、観るのは今回が初めてだったので、正直、(内心では)大変興奮しました(笑)

もう、これだけで「来て良かった!」と、思いました。

けど、展示はまだまだ。
品川御殿に関する展示の次は、澤庵和尚と東海寺について。

たくあん漬けと結びついて、ちょっと有名な澤庵和尚は、家光公からの篤い親交を受けて、品川御殿の南麓に建てられた東海寺の開山し、家光公や諸大名の帰依を受けて、品川屈指の大寺院となったようです。
家光公亡き後、寺勢は一時鈍りますが、綱吉公が将軍職に就くと、その母で家光公の側室だった桂昌院が東海寺に帰依し、復興の助力をしたようで、その時の大きな棟札や、梵鐘なども展示されていました。
しかし、江戸幕府が瓦解すると、一気に寺勢は衰退し、かつては広大な寺域はいまや、本堂周辺を残すのみ...。
私も、東海寺という名前は幾度となく聞いていましたが、てっきりもう、廃寺になったか?!とばかり思ってましたが、まだ、在ります。
往時と現在とを合わせた地図が床面に張られていましたが、かつての寺勢どこへやら...
いまは、僅かに本堂を残すばかりで、寂しい限りです。
往時には、本堂裏に方丈庭園があったようですが、いま、それがあった上には学校の校庭があったり・・・という、現状です。
この急速な衰退は、徳川家の縁と、廃仏毀釈が影響している・・・と、いうことらしいです。

ちなみに、場所は現在の御殿山一帯で、山手線の品川←→大崎の間のカーブの辺り・・・と言えば、判り易いでしょうか。
前々から、「何で御殿山って言うんだろう」と疑問に思っていたんですが、その謂れの一端がこの日、漸く解けて嬉しかったです。
他にも、太田道灌に関する由来もあるようです。
いまでは、埋め立てが進んで、内海まで遠くなってしまいましたが、江戸時代がすぐ近くまで海岸線が来ていたので、さぞかし、景色はよかったことでしょうね。。。

しかし、家光公以後、すっかりと廃れて、綱吉公の頃には一之谷同様、すっかりと無くなって畑と化してたとか。
なんだか、ちょい、勿体無い気がします。。。

さて、この後向かったのは、芝は慶応義塾の近くに在る、港区港郷土資料館です。

ここではこの時、徳川家菩提寺の三緑山増上寺に関する企画展が開かれていたので、行って来ました。
場所は田町駅からすぐ、区立三田図書館の上階で、行ってみると、終わったと思っていた展示解説がちょうど行われていたので、帯同して、一緒に聞いて回りまわりました。

中々興味深いことがたくさんありましたが、まず、増上寺は、例えば仙台の瑞鳳殿に勝るとも劣らない豪華絢爛な廟屋があったそうです。が!先の大戦中の、度重なる空襲によって焼失してしまったそうです。
幕末や明治の頃には、既に観光名所となり、来日した外国人たちもこぞって行っては、その見事さに感嘆したそうですが・・・返す返すも、当時の日本国政府の無策ぶりには腹立たしい思いでいっぱい!ですが、それは置いておいて。。。

展示の中には、往時を偲ぶ大小の絵図や写真,絵画もありましたが、なるほど、立派です。
上野寛永寺をも凌ぐ規模だったことが、察せられます。

将軍は、ご先祖様たる歴代将軍の月命日に参拝するのを勤めとしていますが、いままでは、一般的な墓参に近い形式だったのかな?!と考えていたのですが、これで漸く、その時の情景を想像することが出来ました。
なお、この参拝に関して、家斉公の事例や、幕末の家茂公の時の、秀忠公廟所の修繕に関する資料が展示されていましたが、肝心の葬礼に関する史料は、あまり無いそうで、その様式などはよく判っていないことが多いとか。
その中でも貴重なのか、家宣公の葬礼に関する資料が展示されていました。

展示室は、実にこじんまりとしていましたが、展示史料は、いずれもかぶりつきて見たくなるものばかり。
珍しい企画展に大満足して、帰路につきまいた。

ちなみに。
前々から、なぜ、増上寺と寛永寺に別々に眠っているのかが不思議に思っていたんですが、展示解説後、その質問を学芸員にしているのを側で聞いていました。
すると...
よく判らないそうです。
ただ、4代家綱と5代綱吉が続けて寛永寺に眠ることになったとき、増上寺は訴願までして反対したそうです。
時の将軍の信仰なども作用しているでしょうけど、門跡(皇族が入る寺)である寛永寺が、政治力を使って勧誘したというのが、少し透けてみてとれます。

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