地名由来「福中(田和・来見)」 上月町(現佐用町)
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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)
■田和(たわ)
佐用川支流幕山川中流の北、大撫山の西、山間の谷間に立地する。狭い谷川と道の両側の山裾には石垣の棚田が重なる。地名は田和が峠であることから、峠の下の集落ということによるか。
元文4年(1739)の旗本松井氏平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判し、参加している。
弘化5年(1848)の福円寺人別帳によれば、当村大乗院は無住につき中山村の福円寺が兼帯すると寺社奉行に届け出ている。植木谷村との境の通称たわんどうの上に「いきにんぎょ」と呼ばれる塚が築かれている。時代は不祥だが、大乗院の僧が生きながら穴に入り入寂したと伝えられている。
明治8年(1875)来見村と合併し福中村となる。
■来見(くるみ)
佐用川支流幕山川中流の北、大撫山の西。田和村の東、中山村の北に位置し、大撫山の西側の谷窪に集落がある。地名の由来は、来て見ないとわからない山地の集落であることに由来するという。上・下2か所に集落がある。
寛永17年(1740)平尾村を分村している。享保16年(1731)当村半右衛門、豊福村(旧佐用町)伝右衛門ら5人が領主旗本松井氏への賄銀に難渋して江戸幕府に出訴し、罰せられている。元文4年(1739)の旗本松井氏平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判し、先年貸付けられていた闕所銀の利銀返済免除などを要求したが、当村十郎右衛門は田畑・家屋敷を取り上げられている。平福村の光明寺末の正覚庵(現廃寺)は文化14年(1817)に武州入間(いるま)村(埼玉県入間市)出身の庵主伝心が庵を再建し、伝心は天保2年(1831)に死去し当地に葬られた。
明治8年(1875)田和村と合併し福中村となる。
■福中(ふくなか)、
西播山地北西部に位置する。明治8年、田和村と来見村が合併して成立。明治22年幕山村の大字となり、昭和30年上月町の大字になる。
明治30年前後から、農家の副業として畜産・養蚕を導入、冬季の副業に製炭業関連の山林労務に従事するようになり、婦女子はわら芯きりに精励し、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。
◇今回の発見
・前回は蔵垣内村と平尾村が明治8年に合併し、福吉村となり、今回は同年に田和・来見の両村が合併し、福中村ができた。いずれも頭に「福」を付けた。
・来見は慶長国絵図には、「くるミ」とある。来見村の地名の由来は、来て見ないとわからない場所であることからとしているが、ほんとにそうであるなら、なんとも投げやりな地名のついた村名であるが、逆にどんな所なのか行ってみたくはなる。
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