郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「円光寺」

2020-01-12 11:46:16 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「円光寺」   上月町(現佐用町)

【閲覧】件(2010.11.1.~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■円光寺 (えんこうじ)

千種川支流佐用川流域。上月町・仁位村の河岸段丘と沖積地に立地する。「風土記」邑宝里(おほのさと)、のちの大田郷の中心地と思われる。中世の中頃に赤松円心が円光寺を創建したが、同寺が廃絶してから、地名を源氏の円光寺とした。和田・鍛冶屋・松山・平瀬に集落がある。近年久崎温泉円光坊ができた。

元和元年(1615年)の高瀬船数定(間嶋家文書)によりよれば、上月村とともに当村にも高瀬船舟所持が定められている。明治初年まで舟直場があり舟運が行われていた。
赤穂への浜街道筋であり、運送業・商業も営む者も居住した。氏神の八幡神社は大田八幡神社と通称される。10月の例祭には獅子舞が奉納される。

明和元年(1764)・同5年(1768)・同8年(1781)・同9年(1782)・寛政8年(1796)・弘化4年(1847)は洪水、天保の飢饉、寛保2年(1742)には凶作であった。

明治22年久崎村の大字となり、昭和15年に久崎町、同33年からは上月町の大字となる。

明治30年前後から農家のかたわら、畜産・養蚕を副業とし、婦女子はわら芯きりの副業に従事。明治28年道路の新設にともない、佐用川に大橋を架して円光寺橋と名付けた。同32年台風で8戸全壊、稲の被害2割という。大正12年電灯架設。




◇今回の発見
円光寺は寺名からで、中世の赤松円心の創建の寺名から。他にも寺院からの地名には円応寺(佐用町)がある。







播磨 白旗城(3)

2020-01-12 10:05:56 | 城跡巡り
【閲覧数】3,116件⁅2011.11.24~2019.10.31)




白旗城跡(3)~侍屋敷跡と大手郭の探索~



白旗山登山に参加


  平成23年11月23日(祝)午前9時より、白旗城祭りが白旗山の西麓、上郡町赤松のおまつり広場で開催されました。

  この城まつりのイベントの一つとして白旗山登山があることを知り、城郭研究会仲間と連絡をとりやってきました。赤松に入ると沿道に幟(のぼり)が立ち並び、車は会場から少し離れた堤防沿いの特設大駐車場へ誘導されました。思いのほか盛大なイベント。到着が予定より少し遅れたので、豆畑のあぜ道を、急ぎ足で会場へ向かいました。






力強い太鼓が鳴り響き、模擬店からはいいにおいがたち込め、すでに会場は多くの人で賑わっていました。早々に参加受付をすませ、仲間2名と合流。登山案内では、山頂での説明会の後は自由下山ということで、前回のレポートで紹介していない場所の探索が可能となったことを共に喜びながら、どこまで探訪できるかは成り行き(私の体力次第?)ということになりました。

いざ白旗へ






イベント会場を覗く間もなく、片道1時間コースの白旗山へ いざ出発。


侍屋敷(さむらいやしき)跡へ


   本丸で城跡の説明を受けたあと、目的の一つ二の丸の南東に繋がる侍屋敷(伝)跡にやってきました。かなり広い場所で、上方に石の集まったなだらかな窪地があります。その場所が庭もしくは池だったのではないかと言われています。





 侍屋敷跡の周囲を見てみると石垣が組まれているのを見つけました。






大手郭群へ

   次に地図上に描かれている東方向の大手郭向かって、谷筋の茂みの中を分け入りました。最初にかなりの広さの郭(くるわ)を見つけ、これが大手郭上部のようで、そこから沢に降りていくと次々と石垣に取り巻かれた郭を見つけました。いずれの石垣もかなりの崩壊も見られるが、この石垣群を目の当たりにできたのは、驚きでもありました。











大手郭の最下部の郭を見届けたあと、元の場所へ戻る途中左の斜面に入り、平面図にある第二郭の中ほどをたどっていくと侍屋敷の下に戻ってきました。

 その後は櫛橋丸の展望石より下界を望んだあと下山を急ぎました。


▼櫛橋丸からの望遠  おまつり広場と駐車場が見える





雑 感


  南東向きではあるが、大水の時には谷川になりそうな沢になぜ何段もの曲輪を設けたのか。中世の城によく見られるのが、当初の防御機能が変化し、敵方に城が落ちた後や新しい支配者が陣取った後に、城が改変され、城の向きが変わることがよくあります。この郭群もそのような歴史を経て、後から改変されたものかなと。




「赤松の里」の秋  ~松雲寺~

  


 

▲松雲寺のカヤ(上郡町指定の天然記念物・樹齢700~800年)



PS :下山時刻午後2時30分。祭りの中心であったステージイベントは既に終わり、片付け最中。期待していた登山後のあったかいうどんも駅そばも一瞬に消えてしまった。これが本当の「後の祭り」というもの。それでも、当初の目的は十二分に達成できたことに満足して、城郭仲間と別れた後、車から近くの松雲寺のイチョウが目に入ったので、寺に立ち寄ってみることにしました。

 仲間は、別れた後、佐用町上月の「飯の山城跡」の探訪し、さっそくブログに掲載。そのバイタリティに脱帽です。


【コメント】
播磨屋  2011年11月24日

お疲れさまでした。
大手筋曲輪群は、素晴らしい石垣が連なっていたものの縄張そのものは大味な感は否めなかったようなー築城主体者は何者なのか?赤松?浦上?はたまた…??播磨から備前に散在する赤松系山城の石垣を訪ねてアレコレ検証したいものです。また、上月城合戦に関わる城砦群も気になります。播磨生まれの者にとって赤松氏の歴史とその足跡を秘めた山城群は格別ですね。

返信
タケネット    2011年11月24日
お疲れ様でした。
なん度も戦の憂き目にあった上月合戦とその関わりのある城砦もいづれ取り上げたいと思っています。それにしても、赤松一族の足跡を辿るための城跡は半端じゃないですね。また一緒に楽しみましょうね。


【関連】
白幡城(1)~(4)

◆城郭一覧アドレス


地名由来「桜山」

2020-01-11 10:36:21 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「桜山」  上月町(現佐用町)

【閲覧数】1,566件 (2010.10.29~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■桜山(さくらやま)
幕山川支流桜山川の最上流域。才元村・金子村の北に位置する。東は上木谷・大猪伏(いぶし)、北は美作国吉野郡牛飼宮原村(現岡山県作東町)。下桜・上桜・樺坂の三集落よりなり、上桜は最高地点は399mの高位谷地に立地する。地名は、小さい谷の湿地を開拓した地域で、狭間(はざま)、迫(せこ)からきていると思われる。また峠を越えた北の傾斜地にある樺坂の由来は、樺(かんば)は桜のことで、山桜のある坂道沿いに位置することによると思われる。

 寛文元年(1661)に明暦・万治年間(1655~61)における隠田(おんでん)の罪により、豪農井原与右衛門一家(13歳の子どもを含む親子六人)が斬首刑に処せられた。この悲惨を悼み、その怨霊を恐れた村人は霊社と六人塚を立て供養した。元禄13年(1700)領主旗本松井氏は江戸中橋(現東京都中央区)の四人の商人に桜山銅山の開発を請け負わせ、銅256貫を製錬し大阪に送り出している。桜山銅山は昭和初期まで操業したが、経営者は度々交替した。この鉱山より流出する鉱毒の河川汚染、製錬の際の煙害による樹林枯れ、作物の生育被害など、地元の被害も甚大であった。

 元文4年(1739)の平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判している。金子村との境の標高310mの山上に中世末期の山城跡があり、主郭を中心に数段の削平地と堀切跡3か所が残るが詳細は不明。天満神社があり、本殿の元禄14年(1701)造営棟札、宝暦2年(1752)銘の灯篭2基と同年の鳥居の額が残る。
明治20年樺坂分教場を廃し、江川村立小学校組合を組織して今に至る。同22年幕山村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。
明治30年前後から農家の副業として畜産・養蚕を導入、冬季は製炭関係の労務に従事し、婦女子はわら芯きりで稼ぎ、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。

※樺桜:カバノキ類に木肌が似ている桜の木、ウワミズザクラ、カニワザクラともいう。




◇今回の発見
・ 桜山の六人塚のいわれがわかったが、隠田の罪科による家族全員の処刑とはあまりにも惨い。
・ 桜山の南部にあった才金の金子集落は、桜山銅山の鉱害の被害をもろに受けた。銅山の鉱害は足尾銅山で知られているが、銅を得るために自然を破壊し、南部集落の離散をもたらした要因にもなっている。元はといえば藩の銅山開発に起因している。

地名由来「皆田」(上月町)

2020-01-10 11:44:26 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「皆田」(上月町)    上月町(現佐用町)

【閲覧数】3,829件(201010.28~2019.10.31)
地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)



■ 皆田(かいた)
 大垣内村の西に位置し、西は杉坂峠を隔てて美作国英田郡田原村(現岡山県作東町)、北は吉野郡大聖寺村(現同上)。海田・甲斐田とも記す。

 古代・中世の美作道が通り、「太平記」巻四によれば後醍醐天皇が隠岐に配流される途次に杉坂峠を越えている。同書巻六によれば、元弘3年(1333)赤松円心が大塔宮の命旨を奉じて挙兵した際、まず杉坂に関を構えたという。「大乗院寺社雑記事」文明7年(1475)10月9日条によると奈良興福寺は同寺の維摩会講師のために甲斐田(皆田)紙一帖50枚を100文で購入している。延徳3年(1491)9月14日には後藤藤左衛門が京都相国(しょうこく)寺蔭涼(いんりょう)軒主亀泉集証に、甲斐田紙二帖ほかを持参している。戦国頃と推定される10月3日の某感状写(江見文書)によれば、江見(えみ)庄(現作東町)の江見新左衛門が海田において上月左京介と合戦している。慶長国絵図には「かい田村」とみえる。

 宝永6年(1709)海田村を皆田村に改めた(井上家文書)というが、のちにも海田村と書かれている。当村と大垣内・西本郷・福吉・中山の5か村で三折紙を漉いていたという。

 享保3年(1718)の櫛田組皆田村新林改帳によれば、当村次右衛門ほか19人が村内入会山に20か所の新林を立てていたことを櫛田村の大庄屋湯浅彦次郎が届出ている。江戸期にも『播磨鑑』の土産物の項に皆田村で皆田紙を漉くとあり、安政6年(1859)の「紙譜」に「播磨、皆田厚物類」とみえ、著名な銘柄であった。しかし明治中期には生産されなくなった。
 字茶屋ノ前の標高300mの山頂に中世の百々蔵(度々倉)(どどくら)城跡がある。幅9m、長さ26mの主郭を中心に東・南・北に郭が配置されている。特に東と南は堀で遮断して城域を区画している。山上に地元で百々倉と通称する人工の石窟がある。「日本書紀」天智天皇即位前紀条に「是歳、播州国司岸田臣麻呂等、宝の剣を献りて言さく、「狭夜郡(さよのこおり)の人の禾田(あわた)の穴内(あな)にして獲たり」とまうす」とある。『播磨鑑』は「禾田穴」について禾田の所在は不祥だが、米田村(現不明)、あるいは皆田村山中にある奇異な岩穴のことかと、百々倉比定説を記す。

 美作国境の杉坂峠の東麓に皆(海)田城(杉坂山城・榎城)跡があるが詳細は不明。後醍醐天皇が隠岐への配流の際休息した跡に碑がある。また杉坂峠にある灌漑用の西池は元禄時代藩主浅野氏により造成されたと伝える。

 明治22年幕山村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。明治30年前後から畜産・養蚕を副業とし、冬季に男子は製炭業関係の山林業務に従事し、婦女子もわら芯きりに励み、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。昭和50年南部の山麓を中国自動車道が横断。




◇今回の発見
・皆田ははじめは、海田と書かれていたが、その地名の由来は記されていない。
・皆田は日本書紀の宝剣にまつわる歴史ロマンがある。皆田の和紙は室町時代に奈良興福寺で利用されていた記録が残る。当時から有名ブランドだったようだ。
・杉坂史跡は赤松則村が設けた関所跡があり、隠岐に流される後醍醐天皇一行の救出に失敗した児島高徳の無念の地であると。


※ 上月歴史展示資料館には、皆田紙の原料や紙漉き道具(復元)が展示されている。それによると楮(こうぞ)の木から皆田の和紙ができるまでが詳しく説明され、使われた道具類が並ぶ。冷たい水にさらす作業をはじめいくつもの工程があり作業は大変だったと思われる。屏風や障子紙などに適した厚紙を得意としている。明治中期になり海外からの西洋紙に押され生産が終わる。西大畠で最後の紙漉きが昭和43年まで続けられたが、廃業。そのあと、上月歴史資料館建設を期に、保存会がその伝統技術を復活させ、町公民館で手漉き講習会を開いている。(上月歴史資料館 兵庫県佐用郡佐用町上月373番地)




▼上月歴史資料館 



▼保存会の作品



播磨 白旗城(2)

2020-01-10 10:04:32 | 城跡巡り
【閲覧数】3,010件(2011.11.17~2019.10.31)



▼北から見た白旗城跡周辺
  

▼白旗城跡平面図


◇白旗城跡へのアクセス




 

  白旗山の麓には、白旗城の大きな看板が西向きに掲げられています。細野川の橋を渡ったところに、案内表示(白旗城まで2.1km)があり、防獣フェンスを開けて進みます。









 ほんの少し歩くと左に白旗八幡神社跡の案内があります。左に入っていくと、その跡地には白旗城合戦で倒れた人々を弔ったと思われる五輪塔群(18基)が祀られています。







 元に戻って谷あいを進んで行くと、トイレや登山杖が用意されています。ここで、もう一度身支度を整え、気合を入れて進むことになります。






  歩くほどに、山道には苔むしたごろごろとした石が増えます。この山は元来岩山のようで風化した石が谷筋に寄せ集まったのでしょう。





 

  普段の歩きではない、アスレチック風の岩歩きを堪能したあと、谷の上部に近づくにつれ光が差し込み、明るい空が見え始めました。







  尾根の上にやってきました。そこには案内板があり、このまま尾根を下ると野桑の集落に向かい、城跡までは左(北)方面800m、もう少しです。ここからは岩肌と落ち葉に覆われた尾根筋が続きます。



 



  まず最初に大きな堀切がお出迎え。この堀切があるということはここから城域で進入を許さないという表示なのですが、今は登山道として難なく通れるようにしてあります。左右の堀切の延長を見ると人為的に掘ったことが確認できます。



 



  櫛橋丸(くしはしまる)の表示があります。左手上方が突出した岩場になっていて、最上部の岩の上からの景色はよく、歩いてきた谷筋と赤松や細野の集落が一望できます。見張り台の役目をしていたのでしょう。







  櫛橋丸の縁に穏やかな登山道が用意されています。しばらく進むと、さらに堀切の窪みがあり、その向こうに二の丸(30×20m)が見えてきます。




 



二の丸からさらに進むと、馬場丸という細長い道を進み、次の段郭を登り切るとやっと白旗城本丸(40m×25m)に到着することができました。



 



この地点は西の麓には千種川周辺の赤松の集落、東麓は野桑の集落が確認できる東西が見渡せます。北には雪を頂いた北播磨の山々と、北東には播磨科学公園都市(テクノポリス)の施設がすぐそこに見えました。



 



さらに本丸の北側の高低差のある郭を降りていくと一段開けた場所があり、それが三の丸です。



 



  そこから下には土塁と堀切があります。三の丸に続く北のコース(細野)から登ってきたという2人の登山者に聞くと、そのコースは整備されてはいなく、しだ等が生い茂り足場がかなり悪かったと言われていました。




雑 感



 天下の政治の行方に大きくかかわった赤松の居城白旗城。西はもとより東を見渡せる城の位置と規模そして、さらに東への勢力拡大を推し進める赤松一族の並々ならぬ幕政参画の夢ありと想像させられます。その白旗城はいく度か合戦の場となり、その時折の勢力関係の変化により改修されてきたようです。

 平面図に二の丸の南の侍屋敷跡、大手郭群、本丸南の郭群が示されていますがまだ見ていません。再度登城し、侍屋敷跡、井戸、郭群の探索と山麓に残されている数々の赤松の遺構を次回のレポートで紹介できればと思っています。


撮影日:2011.3.11



【コメント】
播磨屋      2011.11.20
  白旗城まつりの城跡登山会が楽しみです。侍屋敷あたりから大手郭も
見学範囲に入っていたら嬉しいのですが…おそらく、範囲外なのでしょうね
勝手な行動は慎むべきだし悩ましいところです。
 
返信
タケネット 2011.11.20 
多数の団体行動なので独自の行動は無理でしょうが、話は聞けると思います。