郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

森林物語3 「上野貯木場」

2019-11-29 23:04:47 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
森林物語3 「上野貯木場」     宍粟市波賀町


【閲覧数】1,044 (2009.12.7~2019.10.31)


▼昭和30年代後半  上野の貯木場 


林業最盛期の上野貯木場 赤西、音水で伐採された原木が森林鉄道で運ばれここに集められた。



▼昭和18年頃 西谷村上野地区の南からの写真 


 中央の橋は、上野と有賀をつなぐ橋で、昔は「ながら橋」と呼ばれていた。 現在は、橋の西詰北側に、総合スポーツ公園メイプルスタジアムがてきている。


地名由来「西谷・奥谷」 

2019-11-28 17:44:45 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「西谷・奥谷」  宍粟市波賀町

【閲覧数】4,711件(2009.12.3~2019.10.31)








■西谷村(にしだにむら)

【近代】 明治22年~昭和31年の宍粟郡の自治体名。日見谷(ひみたに)、谷(たに)、小野(おの)、今市(いまいち)、安賀(やすが)、斉木(さいき)、有賀(ありが)、上野(うえの)、皆木(みなき)の9か村が合併して成立。旧村名を継承した9大字を編成。昭和31年波賀町の一部となり、9大字は波賀町の大字に継承。

揖保川支流引原川下流域。地名由来は、鎌倉期以降の荘園に三方西荘があり、三方から見て西にある谷「西の谷」から「西谷」と名付けられたと思われる。また、※「延喜式」神名帳に郡内の式内社が7社あるがその1社が当村の皆木にあって邇志(にし)神社と呼ばれ、その神社名の名をとって西谷村になったものと思われる。

※延喜式:平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。延喜式神名帳に記載のある神社を一般に式内社と言って社格の一つとされ、当時朝廷から重要視された神社であることを示している。神名帳は神社の一覧表。





■奥谷村(おくだにむら)

【近代】 明治22年~昭和31年の宍粟郡の自治体名。飯見(いいみ)、野尻(のじり)、原(はら)、引原(ひきはら)、鹿伏(しかぶし)、戸倉(とぐら)、道谷(どうだに)の7か村と音水鉄山が合併して成立。8大字を編成。揖保川支流引原川中・上流域。
飯見、野尻、原有賀(はらありが)、原、日ノ原(ひのはら)、音水、引原、鹿伏、道谷、戸倉の10集落に分かれる。大正6年音水鉄山が音水と改称。昭和17年日の原が起立。昭和31年波賀町の一部になり、9大字は波賀町の大字に継承。地名は南部の西谷村の北方(奥)に位置する渓谷の村であることによる。




◇今回の発見:波賀町皆木の邇志神社、漢字で書くと難しいが、読みはにしじんじゃ、鎌倉期以降「三方西荘」と呼ばれたこの地名と関係あることがわかった。


地名由来「井内・横山・倉床」

2019-11-28 17:31:16 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「井内・横山・倉床」   宍粟市一宮町


【閲覧数】4,531件(82010.2.16~2019.10.31)


繁盛地区内

■井内(いうち)
揖保川の支流黒原川中流域。地名は、大きな井堰水路が造営されたことによる。

【近世】井内村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。慶長国絵図には井ノ内」とみえる。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。
 「近世千草鉄山資料」に運上山鉄山のとどろき山がみえ、雑木林6千本ほどとある。文政8年(1825)の三方騒動当村からの参加者があったが、捕縛者なし(一宮町史)。
 産土神は諸井神社。黒原川の河岸に地上2m・地下2mの長方家の大石が垂直に立ち、立石と称されている。伝承によると弘法大師と天邪鬼が力競べをした際、天邪鬼が投げた大石が大地に突き刺さったものという。

【近代】井内 明治22年から現在の大字名。はじめ繁盛村、昭和31年からは一宮町の大字。

■横山(よこやま)
揖保川上流域。地名は、揖保川に沿って南北に走る連山が帯のように横たわる景観による。同川沿いに但馬国への道が通る。

【中世】横山村 室町期にみえる村名。播磨国宍粟郡三方東のうち。中世は三方東庄(三方庄)に含まれていた。

【近世】横山村 江戸期~明治22年の村名。宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。現尼崎市長遠(じょうおん)寺所蔵の三重塔※鰐口(わにぐち)の銘に嘉吉元年(1441)6月吉日の年期とともに、「播州三方東横山村観音寺鰐口」とある。観音寺は現存しないが、現在の横山に寺屋敷と俗称される区域があり、観音寺跡の可能性がある。※鰐口:寺社の堂前につるし、参拝者が引綱を振り打ち鳴らし祈念する金鼓(写真)



「近世千草鉄山資料」に運上山として東山・西山・三谷山があり、雑木は二万二千本と記されている。
 産土神の横山神社の祭礼は9月17日。この日奉納される「※チャンチャコ踊は伝統の民俗芸能として知られ、災害防除、氏子の安泰、五穀豊穣を祈って四~五時間踊り続ける。別名神子(かんこ)踊ともいう。伝説では、村に疫病が流行した時、代表が伊勢神宮に参拝してこの踊りを持ち帰り、その後村は繁栄したという。明治22年繁盛村の大字となる。




【近代】横山 明治22年~現在の大字名。はじめ繁盛村、昭和31年からは一宮町の大字。





■倉床(くらとこ)
揖保川上流域。地名は、奥まった川沿いの山谷にあって、地形的には山の尾根が中くぼみである鞍部(あんぶ)であることによる。

【近世】倉床村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。
 当村には鉱山が多く、赤金鉱山は古くから銅を産出し、富土野鉱山は江戸初期から銀・銅の採鉱が行われ、慶長(1596~1615)頃がとくに盛んであったという。「播州宍粟郡守令交代記」に「其頃御方谷富士野銀山さがり荷物の運搬繁く」と記され、当時の盛況をしのばせる。銀のほかに銅も産出していた。幕府の期待は大であったが、寛永期(1624~44)以後は漸次衰退した(一宮町史)。現在も当時の鉱山跡が各所に残る。
 寛文期(1661~73)に山崎藩主池田恒元が百姓惣兵衛に孝行の褒美として麦30俵を与えた(倉床区有文書)。
 産土神は神明社。祭礼では獅子舞が行われる。明治22年繁盛村の大字となる。


【近代】倉床 明治22年~現在の大字名。はじめ繁盛村、昭和31年からは一宮町の大字。



◇今回の発見
倉床の床(とこ)はまさに、中世からの鉱(かね)の床でもあった。価値の高い銀の産出については、宍粟藩成立のころがピークで財政に潤いを与え、城下町づくりに勢いをもたらしたに違いないが、その後幕府領になったころには産出はなかったようである。



地名由来「草木・千町・黒原」

2019-11-27 09:35:41 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「草木・千町・黒原」      宍粟市一宮町

【閲覧数】4,589件(2010.2.15~2019.10.31)




繁盛地区内

■草木(くさぎ)

揖保川支流草木川中流域、高峰の北東に位置する。地名は、土砂が堆積した川岸に雑草や雑木が生え茂る土地であることによる。

【近世】草木村 江戸期~明治22年の村名。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。
 農閑期を活用し養蚕や炭焼がさかんで、「近世千草鉄山資料」に草木運上山の雑木二万八千本ほどとある。木地屋もおり、木製品も生産されていたという。
 産土神は若宮八幡神社。草置城がある。同城は戦国期に竹田城(現朝来町)の出城として築城されたという。現朝来町の祥雲(しょううん)寺は田路大和守の菩提寺で「祥雲寺記」に「大和守長男田路隠岐守播州草置城に移る」との記事がある。「福知部落史」によれば、福知の高取城との関係も深く、長水城(現山崎町)の攻防戦に関係した戦いがあったと思われるが、明らかな資料がない。明治22年繁盛村の大字となる。

【近代】草木 明治22年~現在の大字。はじめ繁盛村、昭和31年からは一宮町の大字となる。






■千町(せんちょう)

揖保川支流草木川上流域。北西の大段(おおだん)山と南東の千町ケ峰に囲まれた三方谷の最高地。東の山を越えて但馬国に通ずる道があり、年未詳の道標が現在も残る。地名は、谷間の山村としては比較的広い地域の田畑が開発されたことによる。

【近世】千町村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。慶長国絵図にみえる「せん上寺村」が当村であろう。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。
 木地屋がおり、椀、盆・鉢・市杓子などの木製品も生産されていた。当村の庄屋は当初隣村黒原村の庄屋が兼ねていたが、元禄6年(1693)年寄が置かれ、明和5年(1768)庄屋1・年寄・百姓代1となった(一宮町史)。明治22年繁盛村の大字となる。
 文久3年(1863)の生野の変では、水戸藩浪士前木鈷次郎一行五人の逃走について、但州生野大変日記(前田家文書)は、「田路谷より千町へ越し」と記し、当村の庄屋嘉兵衛が生野代官所(現生野町)に「十四日五人、同夕四人、作州へ向け落行候」と報告したことも記されている。
 産土神は若一神社で、秋の祭礼では獅子舞が行われている。




【近代】千町 明治22年~現在の大字名。はじめ繁盛村、昭和31年からは一宮町の大字。





■黒原(くろはら)

揖保川の支流黒原川上流域。北東は藤尾峠(現笠杉峠)を経て但馬国神子畑村(現朝来町)に至る。地名の由来は定かではないが、秀吉の但馬征伐軍が当地を通過する途中に日没したことに由来するとも、また、昔この山麓を開拓したとき大地が黒い色をしていたことに由来するともいわれる。

【近世】黒原村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。当村は古くから但馬国との交通路が開け、自然石に但馬道と刻みつけた道標が立てられている。
 文政8年(1825)の三方騒動には当村からも参加者があり、捕縛者二人(一宮町史)。
 産土神は若一神社。室町時代のものと推定される二基の五輪塔がある。子安(こやす)観音堂には地蔵菩薩(子安地蔵)が祀られている。伝説によると、約500年前に左近太夫という者が当地を訪れ、一本の大木から三体の地蔵を刻んだという。一番目は当地の地蔵で、二番目は山城国山崎(現京都府大山崎町)、三番目は安芸国広島にあるという。当地のものは子授かり・安産の地蔵として有名。明治22年繁盛村の大字となる。

【近代】黒原 明治22年~現在の大字名。はじめ繁盛村、昭和31年からは一宮町の大字。昭和57年※黒原五輪塔2基が町文化財に指定された。








◇今回の発見
・草木にある草木城は竹田城(朝来町)の出城であったという伝承が残る。。草置城主であった田路大和守の菩提寺が祥雲寺(朝来町)であるという。
・千町と黒原にある道標が但馬への古くからのつながりを物語る。


もみじ情報11月26日(最終便)

2019-11-26 21:53:04 | 2019最上山もみじ情報
残照

快晴。気温は昨日よりいくらか低くなったが、その分太陽が温めてくれ寒さは感じられなかった。
モミジの最後の記録を留めようと、9時過ぎにもみじ山に登ると、カメラを持ったシルバーのサークルが訪れていた。
 
 
▲モミジの絨毯▼


▲最後の輝き


▲殆ど落葉した外国種のカエデ


▲まだ頑張っている赤いモミジの前で最後の輝きを放つ黄葉


▲千畳敷下の駐車場から



▲千畳敷下あたり 真っ赤なもみじ



▲篠ノ丸城址(一本松)から降りてきた岡山の富山ウォークの皆さんと出会った。
DMさんへ 小さなカメラで記念写真をパチリ なんとか写っていましたね。 (笑)



 このあと、木々は葉を落とし、冬の寒さに耐え、春にはみずみずしい新緑を見せてくれます。宍粟(しそう)の地は、滝や名水等森が育む自然の宝庫です。来春新鮮な空気と目に優しい緑の山野を満喫してください。


 次回は、このブログのカテゴリーに「千年フジ開花情報」を加え、来年4月下旬からお伝えする予定です。これを参考にして、おいでください。