郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「百千家満・上岸田」 

2019-11-25 21:19:23 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「百千家満・上岸田」  宍粟市一宮町
 

【閲覧数】5,772 件(2010.2.12~2019.10.31)


繁盛地区内

■百千家満(おちやま)
揖保川の上流域両岸に位置する。地名は、古くから風水害による山崩れや落石などの天災に見舞われ、村の繁栄を願って百千家満に改めたと伝える(改称の年代は不詳)。

【近世】百千家満村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。慶長国絵図に「おち山村」とみえる。天保郷帳では「古者落山村」と注記がある。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。
 文政8年(1825)の三方騒動では当村からも参加者があり、捕縛者は3人で村に過料銭も科されている。なお当村の常楽寺の住職は一揆の説得にあたった一人である『一宮町史』。
 産土神は臼木(うすき)神社。寺院は、弘仁14年(823)の開基と伝える満福寺と元和9年(1623)海春法印開基伝える高野山真言宗常楽寺がある。満福寺の薬師如来座像は秘仏として20年ごとに開扉される。同像は藤原様式の典型的な彫像といわれる。明治22年繁盛村の大字となる。

【近代】百千家満 明治22年~現在の大字。はじめ繁盛村、昭和31年からは一宮町の大字。






■上岸田(かみきしだ)
揖保川と黒原(くろはら)川の合流点付近に位置する。

【近世】岸田村 江戸期~明治12年の村名。播磨国宍粟郡のうち。古くは半瀬村・山岸村とも称したという。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。検地は慶長13年で、半瀬村となっている。
 文政8年(1825)の三方騒動では当村からも参加者があり、捕縛者は3人で村に過料銭も科されている。
 産土神は、日野神社。寺院は、明暦元年(1655)大安長和尚禅師開基と伝える臨済宗妙心派仏心寺。室町時代初期のものとみられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。明治12年上岸田村と改称。

【近代】上岸田村 明治12年~22年の村名。宍粟郡のうち。江戸期の岸田村が同郡内に2か村あるために改称して成立。

【近代】上岸田明治22年~現在の大字名。はじめ繁盛村、昭和31年からは一宮町の大字。

 
   


◇今回の発見 
・難解呼び名の百千家満の地名由来が、古くからの風水害による山崩れ落石の地名「落山」からの改称だということ。今の地名には、村が豊かで家が満つるという村繁栄の願いが込められている。
・上岸田村の元の名は岸田村。川下の揖保川中流域の山崎町河東地区にある岸田村と区別するため、「上」を付け、上岸田村と改称した。繁盛地区の中心地。なお繁盛(はんせ)村(地区)の繁盛は半瀬村からの改正。この地名改正も繁栄への願いからだろう。
・百千家満の満福寺の秘仏薬師如来座像が20年に一回の開扉というが、次はいつだろう。


  


地名由来「福野・河原田」

2019-11-25 18:30:15 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「福野・河原田」   宍粟市一宮町


【閲覧数】3,540 件(2010.2.9~2019.10.31)


三方地区内

■福野(ふくの)
 揖保川の上流に位置し、村域は右岸を主として左岸にもまたがる。山地・台地・河岸段丘・平地など複雑な地形を呈している。地名は、原野を開発して得た土地を祝福する意味をこめて名付けられた。

【近世】福野村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。「正保郷帳」では、福里村として見え、「元禄郷帳」では「古くは「福里村」と肩書されている。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。
 当村に居住していた大庄屋田路七兵衛は、天明の飢饉を救済した功により、寛政4年(1792)幕府から苗字の使用を許されている(田路家文書)。文政8年(1825)の三方騒動では当村からも参加者があり、当村の七兵衛宅・七太夫宅も一気に襲われた。捕縛者一人を出し、村へ過料銭も科せられている『一宮町史』。
 俳句が盛んで、文化年間(1804~18)の三方谷を中心とした句集「諸方抜句集」(土居家文書)に当村の俳人21人の名が岸田村の11人などとともにみえる。産土神は三王神社。
 
【近代】明治22年~現在の大字名。はじめ三方村、昭和31年からは一宮町の大字。






■河原田(かわはらだ)
 揖保川支流の高野(たかの)川流域および阿舎利(あじゃり)川の流域にまたがる。地名は、高野川と阿舎利川が合流するあたりの河原に開発耕田されたことによる。当村の南部から西部にかけて高野峠から波賀に至る街道があり、開通は中世にさかのぼるという。

【近世】河原田村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領。北西端の阿舎利山には現在鉄山関連の遺跡が残る。
延宝7年(1679年)までは村役人うち年寄は三人であったが、同年幕府領となってからは一人となっている。文政8年(1825)の三方騒動では当村からも参加者があり、捕縛者は二人で、当村の山本神職は一揆を説得した一人であった(一宮町史)。
 伝統行事として現在も続く川スソ祭がある。旧暦六月晦日(現在は7月30日)高野川と阿舎利川の合流点の岸辺に祭場を建て、はだしで参拝し足を洗って帰る。
 産土神は、八幡神社。境内に県指定有形民俗文化財の河原田農村芝居堂があり、本殿に対向して建てられている。明治34年頃に建てられた当時は入母屋造の茅葺であったが、現在は銅板葺で、床下に奈落があり、楽屋にあてられている。上手に太夫座、下手に高座があり、花道は左右両側に設けられて、回り舞台・二十上段引分け・上段押出し・反し壁などの舞台装置を有する。秋祭りや川スソ祭で獅子舞や歌舞伎が上演されたが。昭和30年代に入ってから歌舞伎はみられなくなった。宍粟郡一帯に数多く存在した農村歌舞伎舞台のうち、保存状態のよい代表的遺構である。
 寺院は、真言宗大日山正福寺、同寺の本尊木造大日如来座像は藤原風の様式を伝えるものといわれ、県指定文化財。明治22年三方村の大字になる。



【近代】河原田 明治22年神戸村の大字名になる。はじめ三方村、昭和31年からは一宮町の大字。明治36年に完工した河原田八幡神社の河原田農村芝居堂は、昭和44年軒有形民族文化財に指定された。


▲河原田農村芝居堂


◇今回の発見
・天明の飢饉に救済の功で幕府から功を受けた福野の大庄屋田路家がその33年後三方騒動では逆に一揆の標的にされている。農村は厳しい状況に追い込まれていることがわかる。
・そのような中でも、人々は農村歌舞伎や芝居を楽しみ、文化年間は、福野村を中心に俳句が盛んになりさらに和歌なども詠まれ、地方の文芸文化が生まれている。

森林物語2 木材搬出

2019-11-25 16:12:33 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
森林物語2 昔語りになった林業の一こま 木材搬出  宍粟市波賀町

【閲覧数】1,865件2009.12.2~2019.10.31)


昭和23年(1948)木馬による木材搬出


音水国有林単軌木馬




赤西事務所下を走る森林鉄道


コメント

イクタクンさんより
2011年09月12日 14:14イクタクン
きんま(木馬)の写真を見ました。きんまというのはソリではないんですね。伐採した丸太を山の下まで運ぶのにロープや鍵釘で安定した形に組んで固定したものなんですね。左と真中の写真を見る限り。それを軌道('ころ' と言うのかな)に乗せて引っぱたり、きんまの上でうまく操縦して滑らせて下ろすんですね。二枚の写真迫力満点ですね。非常に危険に満ちた作業であることが、ジンジン伝わります。死傷者も出たでしょうね。私の母方の祖父、叔父が二代続きの山行きできんま引きの仕事をしていました。84才の叔父にぜひ見せてやりたい写真です。

タケネットより返信
そうなのですね。叔父さんの感想を是非聞いてもらいたいですね。

 木材の伐採とその搬出は確かに危険をともなう大変な仕事だったのでしょうね。写真の人物に体験談を聞くことは今では無理なので、写真でしか当時を偲ぶことしかできません。
 木馬やインクラで下ろした原木を森林鉄道で運んでいた時代はまだしも、それ以前の手作業を中心に馬を使った時代はさらに危険だったと思います。江戸時代~昭和初期の頃、集めた原木を引原川・揖保川で筏を組み、それを操る筏流しには熟練の技が必要だったにちがいないでしょう。






森林物語1 昔語りになった林業の一こま

2019-11-25 14:24:59 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
森林物語1 昔語りになった林業の一こま   宍粟市波賀町



トロッコで運ばれる木材



波賀町 赤西・音水周辺の国有林で伐り出された木材は、トロッコ満載の森林鉄道で、上野の貯木場に運び込まれた。



昭和29年(1954)  坂ノ谷貯木場の作業風景 



写真:「写真で見る郷土史やまさき」より

もみじ情報11月25日

2019-11-25 12:35:00 | 2019最上山もみじ情報
もみじ情報11月25日(月)

曇り空。朝9時頃もみじ山に登った。数人の方と出会った。

 撮影中、ちょうどタイミングよく雲の間から朝陽が照らしてくれた。落ち葉の色が画面全体に広がった。いましか味わえないシャッターチャンスだ。


PS:午後風が出始めたので、明日朝はモミジの絨毯が厚くなっているでしょう。