郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「草木・千町・黒原」

2019-11-27 09:35:41 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「草木・千町・黒原」      宍粟市一宮町

【閲覧数】4,589件(2010.2.15~2019.10.31)




繁盛地区内

■草木(くさぎ)

揖保川支流草木川中流域、高峰の北東に位置する。地名は、土砂が堆積した川岸に雑草や雑木が生え茂る土地であることによる。

【近世】草木村 江戸期~明治22年の村名。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。
 農閑期を活用し養蚕や炭焼がさかんで、「近世千草鉄山資料」に草木運上山の雑木二万八千本ほどとある。木地屋もおり、木製品も生産されていたという。
 産土神は若宮八幡神社。草置城がある。同城は戦国期に竹田城(現朝来町)の出城として築城されたという。現朝来町の祥雲(しょううん)寺は田路大和守の菩提寺で「祥雲寺記」に「大和守長男田路隠岐守播州草置城に移る」との記事がある。「福知部落史」によれば、福知の高取城との関係も深く、長水城(現山崎町)の攻防戦に関係した戦いがあったと思われるが、明らかな資料がない。明治22年繁盛村の大字となる。

【近代】草木 明治22年~現在の大字。はじめ繁盛村、昭和31年からは一宮町の大字となる。






■千町(せんちょう)

揖保川支流草木川上流域。北西の大段(おおだん)山と南東の千町ケ峰に囲まれた三方谷の最高地。東の山を越えて但馬国に通ずる道があり、年未詳の道標が現在も残る。地名は、谷間の山村としては比較的広い地域の田畑が開発されたことによる。

【近世】千町村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。慶長国絵図にみえる「せん上寺村」が当村であろう。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。
 木地屋がおり、椀、盆・鉢・市杓子などの木製品も生産されていた。当村の庄屋は当初隣村黒原村の庄屋が兼ねていたが、元禄6年(1693)年寄が置かれ、明和5年(1768)庄屋1・年寄・百姓代1となった(一宮町史)。明治22年繁盛村の大字となる。
 文久3年(1863)の生野の変では、水戸藩浪士前木鈷次郎一行五人の逃走について、但州生野大変日記(前田家文書)は、「田路谷より千町へ越し」と記し、当村の庄屋嘉兵衛が生野代官所(現生野町)に「十四日五人、同夕四人、作州へ向け落行候」と報告したことも記されている。
 産土神は若一神社で、秋の祭礼では獅子舞が行われている。




【近代】千町 明治22年~現在の大字名。はじめ繁盛村、昭和31年からは一宮町の大字。





■黒原(くろはら)

揖保川の支流黒原川上流域。北東は藤尾峠(現笠杉峠)を経て但馬国神子畑村(現朝来町)に至る。地名の由来は定かではないが、秀吉の但馬征伐軍が当地を通過する途中に日没したことに由来するとも、また、昔この山麓を開拓したとき大地が黒い色をしていたことに由来するともいわれる。

【近世】黒原村 江戸期~明治22年の村名。播磨国宍粟郡のうち。はじめ姫路藩領、慶長18年(1613)備前岡山藩領、元和元年(1615年)宍粟藩領、延宝7年(1679年)幕府領となり幕末に至る。当村は古くから但馬国との交通路が開け、自然石に但馬道と刻みつけた道標が立てられている。
 文政8年(1825)の三方騒動には当村からも参加者があり、捕縛者二人(一宮町史)。
 産土神は若一神社。室町時代のものと推定される二基の五輪塔がある。子安(こやす)観音堂には地蔵菩薩(子安地蔵)が祀られている。伝説によると、約500年前に左近太夫という者が当地を訪れ、一本の大木から三体の地蔵を刻んだという。一番目は当地の地蔵で、二番目は山城国山崎(現京都府大山崎町)、三番目は安芸国広島にあるという。当地のものは子授かり・安産の地蔵として有名。明治22年繁盛村の大字となる。

【近代】黒原 明治22年~現在の大字名。はじめ繁盛村、昭和31年からは一宮町の大字。昭和57年※黒原五輪塔2基が町文化財に指定された。








◇今回の発見
・草木にある草木城は竹田城(朝来町)の出城であったという伝承が残る。。草置城主であった田路大和守の菩提寺が祥雲寺(朝来町)であるという。
・千町と黒原にある道標が但馬への古くからのつながりを物語る。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿