「逆白波」について
『和歌の歴史』(藤田福夫、阿部正路編 桜楓社 昭和47年)に収録されている「和歌と方言」(川本栄一郎)のなかで、川本氏は茂吉の郷里山形県の方言と思われるものは、「啄木鳥(けらつつき)」「南蛮啄木(なんばんけら)」「雨啄木(あまけら)」「逆白波(さかしらなみ)」だけであると述べている。
しかし、「逆白波」については『散歩の手帖』17号のほっとすぺーす(№49)「茂吉のアマケラ」の中では鳥以外の方言なので、さしたる興味もなく、取り合わないでいた。ところが偶然にもその後、『日本語の世界』第1巻『日本語の成立』(大野晋 中央公論社 昭和55年)の月報を読んでいたら「逆白波」の由来が出てきた。月報は大野晋と丸谷才一による対談で、題は「鴨子と鳧子のことから話ははじまる」。その中から「逆白波」のところだけを紹介する。
「逆白波」という言葉が出てくるのは茂吉の歌集『白き山』にある「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」で、知らなかったが、この歌かなり有名らしい。丸谷の発言では「現代和歌の最高峰ということになっているんですね」という。以下、丸谷の発言、
この歌にはちょっとしたゴシップがあります。疎開で故郷へ帰っていた茂吉が、弟子の結城哀草果と二人で最上川のほとりを散歩していたときに、哀草果が「実は冬の最上川の三角の波を形容するうまい言葉を見つけたんです」と言って、「逆白波」という新語を披露した。するとやや先を歩いていた茂吉が振り向いて、こわい顔をして、「私がその言葉を使って歌を詠むまで、おまえは使ってはならない」と言った(笑)。それで哀草果は、師の言葉を守って、茂吉がこの歌を詠むまで使わなかったんです。つまり、弟子から言葉を一つまきあげたわけですが、(以下略)
ということは、「逆白波」は方言ではなく、結城哀草果の造語ということになる。ただし対談の記事なので出典が書いてない。哀草果の著書にあるのだろうか。それで、なにかヒントはないかととりあえずインターネットで検索してみたら、話がいくらか違ってきた。
「逆白波」で検索するだけで、茂吉の「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」の歌に関して1240件ヒットした。そのなかで、つぎのHPを紹介する。
e:-yamagata.com やまがたの暮らしまるごと応援サイト「い~山形どっとこむ」
の中の「プリズム 最上川に想う」著者は帝京大学教授、小山茂樹氏となっている。
帝京
山形県の生んだ最大の歌人、斎藤茂吉の歌に
「最上川逆白波のたつまでに ふぶくゆうべとなりにけるかも」
というのがある。この歌が生まれた背景を、茂吉に私淑した板垣家子夫はその著『斎藤茂吉随行記』のなかで、次のように紹介している。
昭和二十一年二月下旬のある激しく吹雪く日の午後、茂吉が疎開先の大石田(北村山郡大石田町)で最上川にかかる橋を弟子の結城哀草果、板垣家子夫らと渡ったときである。
最上川には鳥海山おろしの強い北風が吹きつけ、川面に白波が立っていた。家子夫はこれを見て、何気なく言った。
「先生、今日は最上川に逆波が立ってえんざいっス (おります)」
茂吉はこれを聞くと思わず歩みをとめ、家子夫の腕を引っ張るようにして言った。
「君、今何と言った」
「はあ、今言ったながっす。はいっつぁ最上川さ、逆波立っているつて言ったなだっす」
茂吉はにらむようにして、強く言った。
「君はそれだからいけない。君には言葉を大切にしろと今まで何度も語ったはずだ。君はどうも無造作過ぎる。そうした境地の逆波という言葉は君だけのものだ.....大切な言葉はしまっておいて、決して人に語るべきものではないす」(以下略)
これによると、「逆白波」ではなく、「逆波」で、しかも言ったのは一緒にはいたが、結城哀草果ではなく板垣家子夫となっている。それにしても、たんに「逆波」だったらふつうに使う言葉ではないのか。なぜ茂吉はこんなに強く反応したのか。それとも「逆波」をいっしょに聞いていた哀草果が後になって手を加えて「逆白波」と創り、茂吉に披露したのか。
それはともかく、いずれにしても「逆白波」は方言ではないし、茂吉の造語でもないことは確からしい。
『和歌の歴史』(藤田福夫、阿部正路編 桜楓社 昭和47年)に収録されている「和歌と方言」(川本栄一郎)のなかで、川本氏は茂吉の郷里山形県の方言と思われるものは、「啄木鳥(けらつつき)」「南蛮啄木(なんばんけら)」「雨啄木(あまけら)」「逆白波(さかしらなみ)」だけであると述べている。
しかし、「逆白波」については『散歩の手帖』17号のほっとすぺーす(№49)「茂吉のアマケラ」の中では鳥以外の方言なので、さしたる興味もなく、取り合わないでいた。ところが偶然にもその後、『日本語の世界』第1巻『日本語の成立』(大野晋 中央公論社 昭和55年)の月報を読んでいたら「逆白波」の由来が出てきた。月報は大野晋と丸谷才一による対談で、題は「鴨子と鳧子のことから話ははじまる」。その中から「逆白波」のところだけを紹介する。
「逆白波」という言葉が出てくるのは茂吉の歌集『白き山』にある「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」で、知らなかったが、この歌かなり有名らしい。丸谷の発言では「現代和歌の最高峰ということになっているんですね」という。以下、丸谷の発言、
この歌にはちょっとしたゴシップがあります。疎開で故郷へ帰っていた茂吉が、弟子の結城哀草果と二人で最上川のほとりを散歩していたときに、哀草果が「実は冬の最上川の三角の波を形容するうまい言葉を見つけたんです」と言って、「逆白波」という新語を披露した。するとやや先を歩いていた茂吉が振り向いて、こわい顔をして、「私がその言葉を使って歌を詠むまで、おまえは使ってはならない」と言った(笑)。それで哀草果は、師の言葉を守って、茂吉がこの歌を詠むまで使わなかったんです。つまり、弟子から言葉を一つまきあげたわけですが、(以下略)
ということは、「逆白波」は方言ではなく、結城哀草果の造語ということになる。ただし対談の記事なので出典が書いてない。哀草果の著書にあるのだろうか。それで、なにかヒントはないかととりあえずインターネットで検索してみたら、話がいくらか違ってきた。
「逆白波」で検索するだけで、茂吉の「最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも」の歌に関して1240件ヒットした。そのなかで、つぎのHPを紹介する。
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の中の「プリズム 最上川に想う」著者は帝京大学教授、小山茂樹氏となっている。
帝京
山形県の生んだ最大の歌人、斎藤茂吉の歌に
「最上川逆白波のたつまでに ふぶくゆうべとなりにけるかも」
というのがある。この歌が生まれた背景を、茂吉に私淑した板垣家子夫はその著『斎藤茂吉随行記』のなかで、次のように紹介している。
昭和二十一年二月下旬のある激しく吹雪く日の午後、茂吉が疎開先の大石田(北村山郡大石田町)で最上川にかかる橋を弟子の結城哀草果、板垣家子夫らと渡ったときである。
最上川には鳥海山おろしの強い北風が吹きつけ、川面に白波が立っていた。家子夫はこれを見て、何気なく言った。
「先生、今日は最上川に逆波が立ってえんざいっス (おります)」
茂吉はこれを聞くと思わず歩みをとめ、家子夫の腕を引っ張るようにして言った。
「君、今何と言った」
「はあ、今言ったながっす。はいっつぁ最上川さ、逆波立っているつて言ったなだっす」
茂吉はにらむようにして、強く言った。
「君はそれだからいけない。君には言葉を大切にしろと今まで何度も語ったはずだ。君はどうも無造作過ぎる。そうした境地の逆波という言葉は君だけのものだ.....大切な言葉はしまっておいて、決して人に語るべきものではないす」(以下略)
これによると、「逆白波」ではなく、「逆波」で、しかも言ったのは一緒にはいたが、結城哀草果ではなく板垣家子夫となっている。それにしても、たんに「逆波」だったらふつうに使う言葉ではないのか。なぜ茂吉はこんなに強く反応したのか。それとも「逆波」をいっしょに聞いていた哀草果が後になって手を加えて「逆白波」と創り、茂吉に披露したのか。
それはともかく、いずれにしても「逆白波」は方言ではないし、茂吉の造語でもないことは確からしい。