ケガレの起源と銅鐸の意味 岩戸神話の読み方と被差別民の起源 餅なし正月の意味と起源

ケガレの起源は射日・招日神話由来の余った危険な太陽であり、それを象徴するのが銅鐸です。銅鐸はアマテラスに置換わりました。

「鳩ぽっぽ」の罪―キジバトの名誉のために―(後)

2007年09月17日 20時26分31秒 | いろんな疑問について考える
④鳩の声と民俗
 ハーンの例が出ているので、まずキジバトから。ハーンの「テテ ポッポー カカ ポッポー」というキジバトの声の聞きなしは島根県松江周辺らしい。それとは少し違う聞きなしだが、「鳩不孝」という昔話がある。『定本柳田国男集』第22巻「野鳥雑記」から紹介する。

昔々ひどい凶作の年に、父は山畑に鋤踏みに出て居り、母は家に居て炒麦の粉を搗いた。それを子供に持たせて遣つた所が、途中の小川を渡らうとして其粉をこぼし、それを川の雑魚が浮いて来て食つた。子供は面白いので今度はわざと少しこぼすと、雑魚がもやもや浮いて来て食つてしまふ。又こぼすと又来て食ふ。そんなことをするうちに時が経つて、哀れ父は餓ゑて山畠で死んでしまつた。少年は之を悔い悲しんで、忽ち山鳩になつたといふので、今でも其季節が来ると斯ういつて啼くと伝へられて居る(奥南新報)。
   デデコーケー、(父よ粉を食へ)
   アッパーツーター(母が搗いた)

 『日本昔話事典』(稲田浩二他編 弘文堂 昭和52年)の「鳩不孝」の項によると、「青森県に採集例が多く、ついで岩手・秋田の2県で、食物不作の年の多かった地域的条件によるものと考えられる」という。これもキジバトの声の哀しさ、寂しさ、切なさを感じる気持ちが背景にあってのことだろう。
 『日本俗信辞典 動植物編』(鈴木棠三 角川書店 昭和57年)の「鳩」の項をみる。鳩の声による天気占いが日本各地にあるが、声を聞くと晴れる、曇ると各地ばらばらである。ほかに「ハトが夜鳴きをすると孕み女が死ぬ」(栃木)、「ハトは鳴き声が病人の唸り声に似ているからハトを飼ってはならない」(神奈川)などがある。
 「相州内郷村話」には「デデッポッポー、マミョォ(豆を)喰いたい」という聞きなしがある(『日本民俗誌大系』8巻 関東)。

 つぎにアオバトについて民俗方面から見ていく。おもにアオバトを見ることの困難さ、にしぼってみる。
 今年2006年2月1日に95歳で死去した高橋喜平。雪の研究でよく知られているが、『遠野物語考』(創樹社 1976年)のなかで「馬追い鳥考」と題して、マオウドリ、つまりアオバトについて書いている。『遠野物語』では第52話にアーホー、アーホーと鳴く馬追い鳥として出てくるが、民俗学方面ではこの鳥が何であるか、不明だった。高橋は「馬追い鳥考」の中で、これより22年まえ、つまり1954年ごろ「不思議な鳥」という随筆を書いており、馬追い鳥つまりアオバトのことを「この鳥をはっきり見たという人は一人もいなかった。もちろん、私も見たいと思いながら、ついに見ることができなかった」とアオバトをみることの困難さを書き留めている。結局は馬追い鳥はアオバトであることを究明する。それは『注釈遠野物語』(遠野常民大学編著 筑摩書房 1997年)にも引用されている。
高橋は調査の過程で川口孫治郎の『自然暦』(日新書院 昭和18年)も調べており、この本で馬追い鳥はアオバトと確信を持ったようだ。
『自然暦』には「423 マオが鳴くと必ず天気がわるくなる。陸奥恐山山中。マオはアオバトの方言。アオバトは霧深き夕方頻りに鳴く」というのがある。さきに菅江真澄の例で紹介したマオドリである。
その川口孫治郎はどうしてマオはアオバトと知ったのだろうか。自分の観察によってか、ひとに教えられてか。というのは、鳥類学者の内田清之助が『野鳥』誌3巻11号掲載の座談会記事で、席上、柳田国男のマオドリとは何か、との質問に答えて、アオバトのことで、東北では一般にそう呼んでいると答えている。川口は『野鳥』誌にも寄稿していたから、この昭和11年11月発行の『野鳥』誌の座談会記事も読んでいたと考えられる。ただし『自然暦』の423が採集されたのがいつだったのかわからない。すでに野鳥観察歴の永い川口だったから、ずっと早くに知っていたかもしれない。川口は翌12年3月19日に65歳で死去している。
では、柳田国男が馬追い鳥はアオバトのことと知る過程はどうだったのか。
『定本柳田国男集』の索引には「青鳩」が1件だけ載っている。第2巻の「秋風帖」、そのなかの「木曽より五箇山へ」に、

鳩啼く。声が里の山鳩とは異なり。青鳩ですよと文六は云ふ。今一人の同行者、あの位うまい鳥はありませんと云ふ。鳩は之に構はず平気で啼く。所謂妻を呼ぶ季節なりと見ゆ。

と、簡潔に記す。「木曽より五箇山へ」は初出が明治42年、雑誌「文章世界」11月号に載ったという。
最初に声を聞いてハトの一種とわかったのか、それとも教えられたから、そののち文章化のさいに初めから鳩としたのか、わからない。ちょっとおどろくのは「里の山鳩」とは異なるというところ。山鳩とはいうが、キジバトは実は山中に入るといない、ということを柳田はすでに知っている。鳩は平気で鳴いているところからして、近くはないようだ。時期は「妻呼ぶ季節」で繁殖期。正確には明治42年5月30日。木曽御岳の山懐、王滝川の上流部。しかし、この時のアオバトの鳴き声と『遠野物語』の馬追い鳥とは柳田のなかで結びつかなかった。
 『注釈遠野物語』によると、この年、明治42年、前年の11月から柳田は佐々木喜善による遠野の話を聞きはじめ、42年の5月におよんで、草稿本を書き終えたところで、5月25日から7月8日まで木曽、飛騨、北陸路の視察旅行に出る。この旅の途中の部分が「木曽より五箇山へ」である。8月には遠野へも行き、その後は『石神問答』の準備から草稿までかかり、43年4月10日以降『遠野物語』の「清書本」を書く。『遠野物語』初版の発行が43年6月。
 昭和5年10月発行の「九州民俗学特輯号」に柳田は「九州の鳥」と題して、寄稿している(定本22巻「野鳥雑記」に収録)。このなかで『遠野物語』の馬追い鳥を紹介しているが、和名についてなどは言及していない。
 そして先の昭和11年、『野鳥』誌での座談会で、内田清之助に質問し、永くわからずにいた馬追い鳥がアオバトであることを知る。さらに昭和13年6月2日となっている松原湖から出された『野鳥』誌の「書信函」欄への手紙で、確認した野鳥の名をあげている。

(松原湖より)六月二日
 この湖岸では色々の鳥をききました。ホトトギス、カッコウ、ツツドリ、オホヨシキリ、ホホジロ、ウグヒス、クロツグミ、カハセミ、カケス、アヲバト、ムクドリ、モズ、サンセウクヒなどはわかりますが、この以外、六つ七つ、わからぬ啼声があります。
昇仙峡では水の音が高くて、鳥の声がきこえませんでした。

『野鳥』(5巻8号 昭和13年)の記載だが、この旅行は『柳田国男伝』(三一書房 柳田国男研究会編 1988年)の別冊年譜には見られない。ささやかな一泊旅行だったか。年譜のその前後には、4月14日に高尾山へ、6月18~21日は信州へ「鳥の声を聴きに行く」との記載がある。してみると、6月20日とするところを『野鳥』誌のは2日にまちがえたか。

 西行ははたしてアオバトを知っていたか。アオバトの見えづらさ、わかりづらさをフィールドでの筆者の経験、それに文献などからいくつかの例を示して、見てきた。

古畑の岨の立つ木にいる鳩の友呼ぶ声のすごき夕暮

 この鳩がアオバトである可能性がほとんどないことは明白になったと思う。「すごき」声だからアオバトだ、というのはまったく拙速な判断と言わざるをえない。

⑤「はとぽっぽ」の罪
 さて、ではなぜ「はとぽっぽ」は罪なのか。それはキジバトとドバトを間違えているからだ。一般に幼児などを相手にして「はとぽっぽ」と呼びかけている、よく群れる鳩はドバトである。ドバトは「ぽっぽ」とは鳴かない。「クックックッ」あるいは「クウクウ」という。
 このまちがいは、明治34年発表の唱歌「鳩ぽっぽ」の作詞者、東くめに始まる。東くめ女史の罪つくりである。

鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ
ポッポポッポと 飛んで来い
お寺の屋根から 下りて来い
豆をやるから みなたべよ
たべてもすぐに かえらずに
ポッポポッポと 鳴いて遊べ

キジバトの声をしたドバトが豆を食べに来るというおかしな詞を作ってしまった。『日本のわらべ唄-民族の幼なごころ』(上笙一郎 三省堂 昭和47年)でこのまちがいを指摘している。「父(でで)っぽっぽ 母(かか)っぽっぽ」というわらべ唄が全国にあるという。作詞者の東くめは和歌山県の出身である。子どものころの記憶か東京へ出てからのことかは不明だが、このわらべ唄が「ぽっぽ」の元であろう。『謎とき名作童謡の誕生』(上田信道 平凡社新書 2002年)も「鳩ぽっぽ」の歌の誕生について詳しいが、鳩の声のまちがいについては触れていない。
 さらに10年後、明治44年に尋常小学唱歌「鳩」が発表される。

ぽっ ぽっ ぽっ 鳩ぽっぽ、
豆がほしいか、そらやるぞ。
みんなで仲善く食べに来い。

 むしろこの歌のほうが「ぽっぽっぽ」を全国民的に普及させたのだろう。このまちがいについては柳田国男も早く「山バトと家バト」(昭和22年)で指摘している(『少年と国語』に所収 定本20巻)。
 街中でよく群れて人に依存しているドバトといっしょにされ、その上声が「ぽっぽっぽ」ではキジバトの声の哀しさ、寂しさ、切なさなど感じられないかもしれない。もはや西行の歌う孤高の鳩ではなくなってしまった。そしてのんびりした声としか思わない人も出てきた。しかしそれは現在でも、キジバトの声に対する感じ方の一面にすぎない。少なくとも詩歌にとってのキジバトは今に至るまでずっと寂しかった。八木説に引用している「その意外さが西行のすごさ」でもなんでもない。歌人にとってはふつうの詠み方感じ方だった。
 それを最近の朝日新聞の歌壇から紹介しよう。

郭公のこえが遠くより聞こえ来て鳩も孤独を知らずごと啼く
(秋田県)山仲 勉 2004年7月19日
図書室の窓まどはもう葉桜で鳩は真昼の孤独を告げる
(横浜市)折津 侑 2005年7月4日
子をあやす娘の唄は低音で裏山に聞く山鳩の声
(姫路市)藤井恵一 2005年8月7日

 最後に秋田県が生んだ鳥類学者、仁部富之助はキジバトをどう聞いたかを紹介しよう。仁部は「キジバトの生態」(『野の鳥の生態』第4巻 大修館書店 昭和54年)の中で「男性的で豪壮なキジバトの鳴き声」と表現している。

ドドッドット、ドドッドット

 こういう感じ方もあったのだ。

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