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台湾体験ー片倉佳史のブログ

台湾在住のフリーランスライター片倉佳史のブログです。台湾関連のニュースや情報交換は台湾特捜合同掲示板でどうぞ。

芝山巌の石碑の扱い

2006-04-13 02:36:13 | 台湾の日本統治時代の遺構
台北郊外にある芝山巌(現在の表記は芝山岩)は領台当初にこの地でゲリラに襲われた学務官僚を記念した石碑が残っています。私もよくお客さんを案内してここを訪れるのですが、烏来の高砂義勇隊の石碑に続いて、台湾内の反日派集団による抗議活動(撤去を求める)動きが報じられています。芝山巌についてと、芝山巌事件については拙著『観光コースでない台湾』(高文研)で詳しく触れていますので、ここでは触れませんが、馬英九を支える側近によって台北市文か局が動かされ、けしからんということになったのが真相のようです。なお、士林国民小学や人権団体、一部の教育団体はこういった台北市の動きに反発。抗議書を送っているそうです(まだ台北市は具体的な動きは何もしていません)。
なお、この石碑は時の総理大臣伊藤博文が贈ったもので、戦後、国民党勢力によって牽き倒されていましたが、陳水扁市長時代に台湾の歩みを伝える歴史の証人という見方で起こされました。それ以来、外省人過激派による落書きが絶えず、説明板を設けることもできないという状態でした。植民地統治の是非はともかく、ここは台湾の人々が初めて近代的な教育に触れた現場であるという主張は、学者・研究者たちからも時折耳にします。
なお、芝山巌には殉職教育者を祀る神社がありました。例によって戦後に撤去され、本殿跡には現在、図書室が建てられています。この図書室は蒋介石の側近だった戴笠(字・雨農)にちなんで雨農図書室という名が付けられています。また、図書室後方には殉職者の名が刻まれた石碑が無惨な状態で放置されています。

瑞穂駅、北回帰線地球儀

2006-03-16 14:59:52 | 台湾の日本統治時代の遺構
台湾東部、花蓮と台東の中間に位置する瑞穂駅ですが、ここに日本統治時代に設けられた地球儀のようなものが残っています。ここは北回帰線が近くを通っており、瑞穂のお隣の舞鶴という駅に標塔が建てられていました。地元の老人の話では、この地球儀が作られたのは昭和8年(裏付けはなし)頃だったとのことです。瑞穂は瑞穂温泉や紅葉温泉の下車駅ですので、途中下車のおりには、ぜひ、この地球儀を探してみてください。わかりにくいですが、ホーム側、駅舎の脇にあります。

壽尋常小学校(現西門國小)の埋立記念碑

2006-02-24 03:53:55 | 台湾の日本統治時代の遺構
西門町にある小学校の敷地内に忘れられたような石碑があります。これは日本統治時代、この一帯の埋立完工記念で建てられたもの。詳細は私が台湾で刊行した『台湾土地・日本表情』(玉山社)の中で紹介しています。文字はなんとか読むことができます。

この学校は終戦までは壽小学校と呼ばれていました。現在は西門国民小学となっています。ちなみに金美齢女史もここの卒業生です。

吉野神社鎮座記念碑

2006-02-11 10:28:20 | 台湾の日本統治時代の遺構
移民村として知られた吉野村の神社の遺構です。鎮座記念碑は明治45年6月10日に建てられています。茂みの中にあり、探すのは結構たいへんでしたが、保存状態はよかったです。なお、吉野神社の神苑は市場の建物が建てられてしまっており、ほとんど痕跡を残していません。付近一帯の地区名は今もなお「宮前」と言います。

台湾総督府鉄道部講堂

2005-12-04 19:28:07 | 台湾の日本統治時代の遺構
先日、鉄道作家の洪致文さんとお会いしました。そこで話題になったのですが、旧台湾総督府鉄道部の敷地内にある旧講堂の建物。これは日本統治時代から使用されているものなのですが、この建物の屋根の部分に使われている鉄骨が、清国統治時代に設けられた修繕工場のものではないかという話しで盛り上がりました。確かに古写真などを見ると、その形状は似ており、資材不足の時代でもあるので、可能性は高いようにも感じますが、裏付けがありません。ちなみに、ここで働く職員は、違うのではないかと言っています。追ってご報告します。もし、そうだとしたら、台湾に残る清国統治時代の遺構ということで大きく注目されること、間違いナシです。

北投石の発見者・岡本翁の頌徳碑

2005-09-28 14:45:38 | 台湾の日本統治時代の遺構
鉄道作家洪致文さんの家は台湾では指折りの名家で、台湾北部の歴史をたどっているとよく洪家に出くわします。台湾善光寺には「北投石(ホクトライト)」の発見者である岡本要八郎氏の頌徳碑がありました。しかし、終戦後、国民党政府がやってきたことで、この石碑も撤去の憂き目に遭うのでした。しかし、洪さんのお爺さまにあたる洪長庚氏(台湾最初の眼科医です)がこれを自宅に移して保管。石碑は守られました。洪長庚氏は岡本翁が萬華の国語学校の教師だった頃の教え子です。今は善光寺に戻されていますが、雑草に埋もれ、たどり着くまでたいへんでした。私が前回、ここに初めてやってきたときは草が刈られていたため、すぐにわかりましたが、この状態では探し出すのは不可能に近いという感じでした。

台湾にもある善光寺

2005-09-28 13:13:45 | 台湾の日本統治時代の遺構
北投の温泉街を眼下に望む善光寺。ここは台湾別院として開かれ、現在もその名を受け継いでいます。本堂は戦後に建て直されていますが、内部は畳敷き。仏棚も日本統治時代のものが受け継がれています。眺めはすばらしく、一つの観光スポットとして取り上げてもいいくらいなのですが、ここまでやってくるのは坂道が厳しく、訪れる方は必ずタクシーをご利用ください。間違っても徒歩はやめたほうがいいと思います。

内湖穀物倉庫

2005-09-24 00:43:06 | 台湾の日本統治時代の遺構
内湖には日本統治時代に建てられた穀物倉庫が残っています。残念ながら、設計者や竣工年などはなかなか調べることができませんが、これは日本統治時代の穀物倉庫の典型的なスタイルだったということで、各地で同様の建物を見ることができます。

台北市内湖区に残る日本統治時代の公会堂

2005-09-24 00:39:37 | 台湾の日本統治時代の遺構
最近は新興住宅街として名を馳せる内湖ですが、ここに、日本統治時代に建てられた公会堂が残っています。台北市内中心部の官庁建築などはかなり注目されるようになっていますが、こういったまちはずれの歴史建築はほとんど知られていないというのが現実です。ただ、一応ここも台北市が古蹟として保存対象にはしています。なお、公会堂は正式には内湖庄公会堂と言い、隣接してかつての警察署も残っています。この警察署も瓦屋根が印象的な建物です。中山北路を走る247番のバスでアクセスできますので、興味のある方、足を運んでみてください。降りるバス停は「内湖分局」です。

渓州神社遺跡

2005-09-08 11:38:50 | 台湾の日本統治時代の遺構
屏東県にある南州は日本統治時代、渓州と呼ばれていました。大きな製糖工場があり、台湾全体の八分の一のサトウキビ畑はここにあります。また、製糖会社が所有する土地は、南州郷全体の三分の一にも及ぶそうです。

ここにも神社がありました。現在、その施設は撤去され、跡地は廟になっているのですが、その背後に、神社本殿の土台が残っています。建物の裏になってしまっているので、一見しただけではわかりませんが、明らかに神社だった場所です。付近には石灯籠なども残っています。

旗山水源地に残る表彰記念碑

2005-09-07 11:54:47 | 台湾の日本統治時代の遺構
旗山取材の際、地元の人に教えられ、かつての水源地を見に行きました。水源地は移転して久しく、その場所には旗山鎮の社会福祉センターが建っているのですが、水源地の施設の一部が古蹟として残されています。そして、職員さんに声をかけると、裏山に石碑も残っているとのこと。その場所まで案内してもらいましたが、残念ながら雑草に覆われ、近づくことはできませんでした。詳細も不明なのですが、追って調査をしていきたいと思います。

この時期、蛇は遺構探しの最大の敵です・・・

軍艦を祀る廟

2005-09-06 12:41:30 | 台湾の日本統治時代の遺構
昭文社の取材で高雄へ行きました。紅毛港というところに沈没した日本の哨戒艇を祀る廟があります。高雄市内ではあるものの、港を大きく回るため、バスで90分もかかります。とても人口151万の都市とはおもえない風情です。ここを訪れるのは2度目ですが、廟の中に祀られた哨戒艇の模型はかわることなく、庶民信仰の場となっていました。正式には紅毛港保安堂。船腹には「にっぽんぐんかん」と記され(カタカナが混じるのはご愛敬)、万国旗がなびいています。ここは2年前、共同通信の配信で地方紙に記事を掲載していただきましたが、まだまだ知られざるスポットが台湾にはたくさんありますね。