台北市内の知られざる遺構です。松山にあった専売局のたばこ工場です。すでに廃墟となって久しく、扉もかたく閉ざされたままですが、このたび、なんとか内部に入れてもらうことができました。敷地は広く、かなり荒れていましたが、映画の撮影などでは使用されることもあるようです。廃墟趣味の方々にはおすすめできそうなスポットです。
現在は台北賓館と呼ばれている旧台湾総督官邸です。後方には台湾総督府が見えます。日本統治時代に発行された絵はがきですが、あまり出回っていない構図です。なお、台湾総督官邸の裏庭には日本では見られない亜熱帯性の植物が植えられていました。
台湾中南部を中心に暮らしていた平地原住民。平埔族と呼ばれる人々の中でも人口が多かったシラヤ族の人々。17世紀頃から漢人住民との混血が進み、アイデンティティを失っていた彼らですが、細々と伝統を守ってきた村もありました。写真は2年前に撮影した台南県大内郷の夜祭りの様子。祭典はちょうどこの時期に行なわれます。正直なところ不気味な雰囲気が漂っていましたが、原住民族文化興隆の流れの中、今年も行なわれます。詳細はまだ発表になっていないようです。
台南県の新化に残る神社の遺跡です。李登輝友の会千葉支部の方々と訪れました。新化神社はこのほかにも手水舎や神橋、石灯籠の土台、そして、本殿跡の土台などが残っていますが、今回は時間の関係でご案内できませんでした。それにしてもよく残っています。
日本から李登輝友の会千葉支部の視察ツアーがあり、ご縁あって1日、同行してきました。台南県の山上(やまがみ)には日本統治時代に設けられた浄水場が保存整備されています。私はここは6年前に調査をしたことがありますが、当時の浄水場の設備が残っており、驚きました。今回ツアーに参加された皆さんにもお話ししましたが、日本統治時代の水の管理というのはとにかく徹底していて、驚きに値します。現在、ここは史跡公園として扱われ、当日も台湾人見学客が来ていました。交通が不便なので、なかなか気軽には行けないのが残念です。
屏東県東港にある日本軍の水上飛行場跡地です。現在ここは大鵬灣国家風景区となっており、数多くの軍事施設がそのまま展示物になっています。中でも驚いたのはかつての水上飛行場管制塔(事務所)が残っており、なんと、カフェになっていたことです。この国家風景区管理所は民間に委託運営されていましたが、経営不振で、今後の状態は不透明になっています。こういった家屋を取り壊すことはないと思いますが、台湾の悪いところでかなりの時間、放置されています。どうにかならないものでしょうか・・・
台北市内の南部に位置する南昌公園。ここはかつて児玉源太郎総督が設けた南菜園という私設庭園でした。ここに日本統治時代に建てられた歌碑が残っていました。詳細はまだ調査中ですが、北白川宮家の方が南菜園を訪れた際に詠んだものと思われます。まだまだこういった知られざる遺構がたくさんありますね。この日、私は家内と市内のいくつかの老建築を撮影しながら散歩していたのですが、全く思いもよらぬ発見でした。
台東市に近い卑南郷。ここはプユマ族の人々が多く暮らしている村です。ここにも日本統治時代、神社が設けられていました。正式には卑南祠と言いますが、現地では卑南神社と呼ばれています。場所は集落を見おろせる高台にあり、現在は雑草に埋もれています。場所を教えてくれた老人は「卑南神社の歌」を唄ってくれました。
花蓮県の豊田にある神社時代の狛犬です。独特な表情をしています。ここは日本統治時代に移民集落があった場所で、日本人が引き揚げた後は、客家人が多く住むようになっています。神社時代の遺構は鳥居や石碑、石灯籠など、いろいろなものが残っており、今は公園のようになっています。
西門町は日本統治時代からの繁華街で、現在も若者の街となっています。また、市内指折りの外省人居住区という顔も持っています。その中心部近くに天后宮があります。ここには日本統治時代、周辺地域に点在していたお地蔵さんなどが集められ、祀られています。また、隣接していた弘法寺から移設された弘法大師の立像もあります。MRT西門駅からは徒歩2分なので、立ち寄ってみてはいかがでしょう。
台湾神社の狛犬を夜に撮ってみました。終戦によって台湾神社は廃せられ、この狛犬も一時、行方知れずになっていました。しかし、現在は中山北路沿いの公園に移設され、激しく行き交う車のながれを見守っています。後ろに見えるのは圓山大飯店の屋根です。
5月4日、台湾の鉄道ファンの友人と金瓜石へ行ってきました。平日ではありましたが、それなりに人出もあり、すっかり観光地っぽくなっていました。で、何人かの古老に話しを聞く機会がありましたが、なんと二宮像が残っていました!廟の柱に使う石材を用いて作られたものです。顔が日本の二宮さんっぽくないのは、二宮さんを模して作った私造ものだったからだと言います。廟の管理をしていた男性が、息子たちに勉学に励めよという思いから作られたものだと言います(作者は中国大陸からやってきた職人)。今も大切に守られていました。
戦前の蘇澳(南方澳)漁港の様子。この写真が撮られた場所はわかっており、ほぼ同じ構図で写真を撮れます。日本統治時代、どんなに海が荒れても港湾内は大丈夫だったと言われていたそうです。また、沖縄からの移民も多く住んでいた町でした。右手の砂浜では海水浴もできたそうです。
基隆駅斜め前にある旧日本郵船株式会社基隆支店です。戦後は国民党政府に接収され、その後長らく陽明海運の所有物となっていました。今年、改修を経て、海洋文化芸術館としてオープンしました。六月号の日本航空の会員誌「AGORA」で紹介しましたので、そちらもご覧いただけると幸いです。
片倉佳史です。お問い合わせがありましたので、芝山岩の石碑をご紹介します。雨農図書室の裏手に3基の石碑があり、2基は原型を保っているものの(一度壊されたものの修復済み)、残りの一基は粉々にされています。この石碑は殉職教員のために、後藤新平が建てたものと言われています(だからこんな状態にされたのでしょうか)。石碑には殉職した教員の氏名が記されており、台湾人も多く含まれています。