2001年度 学習院大学サイクリング実習に寄せた感想文
※グループ分けの際、1班の上にルート外のコースを走るゼロ班を結成している。
2年目の参加を終えた時の想いを綴った。
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学習院大学のサイクリング実習は「旅」である。
「旅行」ではなく「旅」である。私なりの定義からすると、何かはっきりとした目的があって遠出する場合これを旅行という。新婚旅行とか観光旅行とかハワイ旅行など「旅行」の前に目的をつけることができる。「旅」はもう少し曖昧で、そこへ行かなければならない目的は特にない。そこに行ったことで何かがある。つまり、行くという行為がまず先にあるのだ。だから修学旅行で奈良や京都の寺社を見学に行くのとは少し違っている。
旅行は、そこにある特定のものを見たり聞いたりして吸収してくる、いわば受け身のイメージだ。旅としてのサイクリング実習では、むしろそれはおまけであって、自分たちの足で足跡(わだち?)を残してくることにこそ意味がある。その時その場で何か活動することで、自分やみんなが主役となるドラマを生み出すのだ。今回の場合はサイクリングをアイテムとしたドラマになる。
これは別の観点から見ると「消費」と「生産」に例えられるかもしれない。言うまでもなく旅行が消費で、サイクリング実習が生産である。消費を媒介としたつながりでは、吸収しようとするモノ(景色、建物、おみやげ・・・)に意識が集中しがちであるが、生産を媒介としたつながりの中では、今、そこにいるヒトとヒトにお互いの意識が向くという。そこにドラマが生まれるらしい。
昨年結成されたゼロ班は、思っていた通りに予想外の出来事に恵まれ、二度と体験することができないようなドラマを生み出した・・・と、その時は思った。二度と体験することができないようなことが、今年も再び体験できるわけはないので、はて?今年もまたゼロ班結成!ということになったらどうしよう。期待に応えることができるのだろうか、などと心配していた。薄々気づいていたものの、この私も当日までゼロ班の結成を知らされていなかったのだ。しかし、終わってみればそのゼロ班、今年もまた別のドラマを展開していた。
考えてみれば、同じ結果を期待することが間違っているのであって、旅行には結果があるが、旅にはあらかじめ決められた結果なんかないのである。どう転がってもその時その場でしたこと、起こったことがその旅そのものなのである。それは当事者にとってドラマティックな出来事であっても、他の人にはどうでもいいことかもしれない。でも、それでいいのだと思う。自分で自分のドラマを作る、そういう気持ちがいつも大切なような気がした。普段の生活の中でも、いつも自分で自分のドラマを作って行きたいものだと思っている。