「小太郎ハウス」野外な日々

野外活動、野外教育、環境教育、ノルウェー、Friluftsliv、柴犬について色々と書き込んでみています

可能性

2005-12-10 | Weblog
「CAoS」という野外教育系NPO団体の10周年にあたり寄稿した文章。
なかなか良く書けていたので転載。
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「可能性」
 21世紀に突入したときに100年くらいの単位でものごとを考えてみようと思ったときがあって、次の100年間で世の中にどんな変化が起こるんだろうと考え始めたら恐ろしくなった。博物館なんかに行って昔の生活のジオラマを見たりすると、100年よりちょっと前の江戸時代には電気が無くて、今我々が平気で使っている電化製品は全くなかったわけだ。だけどその分、自然と人間はすごく身近に暮らしていたようだ。太陽が昇るとともに活動し、沈むとともに休む。そんな当たり前の暮らしが続いていたのに、そこからの100年くらいの変化で自然とともに生きることが、すごく難しい世の中になってしまった。
 朝霧(※よく行くキャンプ場)の周辺を見てもボクが関わってから、たったの6~7年で建物はゴージャスになるし、近くにコンビニはできるしで、だいぶ近代化され便利になっている。大沢(※よく行ったビバーク地)だって毎年々々砂防ダムが作られて、何となく自然の気配よりも人の気配が強く感じられるようになって来ているような気がする。今、私が住んでいる東京郊外には、朝霧のような自然は当然見あたらないわけだが、たったの100年前にはこの辺りにもまだまだ鬱蒼とした森が広がっていて、きっと朝霧くらいだったのかもしれない。朝霧の変化を見ていると人間の自然環境への浸食は、未だに進行形なんだなと思ってしまう。このままの勢いで次の100年も近代化してどんどん変わっていってしまうとしたら、どんな世の中になっているのかものすごく心配だ。そしてなんだか悲しくなってくる。だからといって今の自分が江戸時代の生活に戻れるかといったらNOである。でもやっぱり自然のそばにいたいという気持ちが強くて、だからキャンプをしているのかもしれない。
 そんな風にどんどん変わっていくモノがある反面、昔から変わっていないモノもあるようだ。それは、昔から人間が持ってきた感性とか、思いやりとか、怒りとかの感情的な面だ。そういう気持ちというのは、意図的に伝えようとしなくても、人と人との関わり合いの中でいつの間にか伝わってきたんじゃないだろうか。ボクがいいなと思っているのは、実は目に見えて形のある物ではなくて、形のないモノなんだ。きっと。
 ボクは、山歩きの途中で拾って杖にした棒一本にしたって愛着を感じて捨てられなくなってしまうのだが、考えてみればそれは、その棒自体が大事なのではなくて、その棒とともにした体験を大事にしたいからかもしれない。つまり残したいのは、形となっている棒ではなく、そこに付随している思い出みたいなモノなのだ。それが大事でありながら、忘れてしまうことが多い、それが悲しくてモノを残すのだ。
 ボクにとってカオス(よく知るNPO団体)は、是非とも残していきたいモノの一つだ。カオスという器(うつわ)そのものも大切に思うが、カオスという器を取り巻く空気みたいなモノ、実はその方が大切な気がしている。なんか分からないがそれがあると安心できて心地いい、無くなるとものすごく悲しい。そんなモノの一つだ。その中には、感動だとか楽しさだとか明るい感情だけじゃなく、執着心だとか怒りだとか悲しみだとか、ちょっと暗い心の原動力みたいなモノもあるのかもしれない。そんな複雑で人間くさい、そして豊かな感情を伴ったCAoSというモノだ。それこそカオスがカオスらしいところで、これからの未来への可能性とか希望とか呼べるモノかもしれないとさえ思うんだ。
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