ちょっと息抜き

たまに息抜きで、出かけることがあります。
そんな記録を少し綴っていければと思ってます。

江戸幕府鉄炮組百人隊出陣の儀

2011-09-25 21:15:05 | 日記

新大久保の皆中稲荷神社で行われた、江戸幕府鉄炮組百人隊出陣の儀をみてきました。新宿区百人町を中心に、火縄銃の発射が見られます。今年は保存会結成50周年にあたるそうで、26回目になります。この行事は2年に1回行われていて、前に見に行ったのが4年前でした。
この保存会が出来たのは、昭和36年に「百人町と鉄炮百人組」の史実を後世に伝え残そうと言うことで皆中稲荷神社宮司が中心となり、氏子五町会に働きかけて復活したものです。

徳川家康が江戸に入ったのは、1590年(天正18年)のことですが、先陣を努めたのが服部半蔵正成を頭領とする鉄炮同心百人および玉薬同心(弾薬製造)であったそうです。当時の江戸は以前北条の支配地であったことから、その残党がせめて来ることを恐れて、現在の新宿1~2丁目あたりに駐屯させたのが鉄炮百人組の始まりとなったそうです。徳川幕府が開かれてからは、内藤宿、大久保百人町に組屋敷を設けて定住化を図っています。詳細は、江戸幕府鉄炮組百人隊のホームページを参照ください。

今回の開催を知ったのはホームページからでした。ただ、午後から用事があるので、見にいけても午前中だけということでした。皆中稲荷神社での発射が何時だか調べたりしていましたので、家を出たのがぎりぎりの時間でした。神社に着いたときは、すでに選抜隊が並んで、その回りをカメラマンが人垣を作っている状況でした。4年間前は、最前列でみれたのに、人の間からカメラを出して撮影していました。

三番隊から選抜された方が整列しています。

奉納の発射が終わると、百人町界隈で数回発射する場所があって、隊列を組んで行進をします。一番先頭までまで行ってこの隊列を撮影しました。その後、2つの発射場所を飛ばして、4番目の発射場所に移動して、行列が来るのを待っていました。ここでは、友情出演した相馬中村藩古式砲術のクループの発射も見ることが出来ました。

毎回、見に行っているわけではありませんが、女性の隊員が増えた感じがしています。4年前は、全体で1・2名だったと記憶していますが、各隊に2・3名含まれていました。物見は全員女性でしたが、鉄砲を担いで歩く姿もさまになっていました。

最後に戸山小学校での発射をどうしようか迷ったのですが、午後に約束もあるので帰ってきました。この出陣の儀は、最後まで見たことがありません。また、発射場所もすべてみていませんので、2年い1回ですが、全部見てみたいと思っています。


面掛行列

2011-09-18 20:34:20 | 日記

9月18日は、鎌倉長谷にある御霊神社の例大祭が行われます。この神社は、地元では(鎌倉)権五郎神社とも呼ばれていて、祀られている鎌倉権五郎景政の命日が9月18日にあたり、面掛行列が行われます。行列に先だって、鎌倉神楽(湯立神楽、湯花神楽ともいわれる)が演じられます。

お神楽の進行は以下の通りです。11座と言われています。
一 打囃子(うちはやし):はじめに笛・締太鼓・大胴の楽器によって大拍子(音合わせ)をします。神職一同で調子を揃えるのが打囃子です。
二 初能(はのう):宮司が左手に広げた扇に洗米をのせ、右手に鈴を持ち四方にお米をお供えして、諸々の霊を和め清める舞です。
三 御祓(おはらい):お神酒とお祓いの道具を持ち、舞に使うすべての道具・斎場すべて(神様が降臨される場所・釜場・火・水)を祓い、神様の降臨を待つ舞です。
四 御幣招(ごへいまねき):神楽の対象となる産土神(うぶすなのかみ)・火の神・水の神をお招きする舞です。
五 湯上(ゆあげ):火の神と水の神が結びついてできた熱湯に湯たぶさ(笹)を浸し、熱湯を桶に汲み取り、神前に捧げます。「湯立」由来の舞です。
六 中入(なかいり):前半の清め・祓いが終了して短い休憩となります。神職は狩衣を脱いで白衣・袴の姿になり、後半の神人共楽の神楽に備えます。また神前にお供えされているお神酒とお赤飯を参列者に分かちます。
七 掻湯(かきゆ):御幣(ごへい)で四方を鎮め、舞が終わると大釜の前に進み、煮えたぎった湯釜を御幣で掻き回すと、渦巻きが生じて湯玉が飛び散ります。古くはこの湯立ちによってその年の吉凶を占いました。湯立神楽を象徴する舞です。
八 大散供(だいさんく):このお祭りに招かない天津神(あまつかみ)、国津神(くにつかみ)、八百万神(やおよろずのかみ)に洗米を供え、四方を和め鎮めます。勇壮かつ優美な二人舞いです。
九 湯座(ゆぐら)・笹の舞(ささのまい):2人の舞手が笹の葉で四方を舞い鎮めた後、交互に大釜に向かい、熱湯を笹に浸して参列者の頭上に散らし掛けます。このしぶきを浴びると災難病魔を祓い除けると言い伝えられています。
十 射祓(いはらい・または弓祓と書く):四隅に矢を放ち悪霊を退散させます。最後に正面(神前)に矢を放ちますが、悪霊がいないため矢は消えてしまいます。放たれた矢を授かると開運招福・息災延命になると伝えられています。
十一 剣舞・毛止幾(もどき):赤面の天狗(猿田彦)が剣を持ち邪悪を清め、悪しき大気を体内に吸い込み浄化させ、二本の指で空中に九字(くじ)を切り、護身・除災・勝利のまじないをしながら豊年万作・大漁満足・天下泰平を祈念し、天地運行の乱れを正します。途中より黒面の山の神がしゃもじを持って現れ、天狗の真似をしたり滑稽な仕草をしながら、斎場にいるすべての人の心に平安と安らぎを取り戻させる『もどき』で神楽は終了します。

家をでるのが遅くなり、神社についた時は、中入りに入るところでした。日曜日と言うこともあって、多くの人が見に来ています。神楽の場所の回りは、人で埋まっている感じでした。それでも何とか見られる場所を探して、写してきました。カメラマンが一番多いのは、お湯を沸かしている回りで、その反対側が少し人が少ない感じです。それでも人垣の後ろから、人の頭越しになるのは致し方なかったです。

掻湯です。

湯座です。熱湯に笹をさらしてますので、しぶきは熱いものです。

射祓です。弓から射られた矢が写っていました。

湯立神楽が終わると、「面掛行列」が行われます。
別名「はらみっと行列」とも言われています。

お囃子が先頭になります。

面掛行列の総勢は10人で、前の8人が同じ衣装で爺、鬼、異形、鼻長、烏天狗、翁、火吹男、福禄寿の面をつけ、その後におかめの面をつけた妊婦(はらみ女=はらみっと)が続き最後が女の面の産婆となります。
このはらみ女のお腹に触ると、安産祈願になると言われており、妊婦さん以外の若い女性がお腹を触っていました。

昔は、こに面をかぶる家が決まっていたそうですが、今では有志が付けているそうです。
この行列の由来は、源頼朝の寵愛を受けた村娘が子をもうけたので娘の一族は頼朝の側に仕え、外出の際にお面をつけて守護したためと言われています。


北向観音

2011-09-17 23:02:41 | 旅行

信州の鎌倉と言われている別所温泉にでかけました。
別所温泉は、古くは「七久里の湯」と呼ばれ、枕草子にも登場する温泉です。北条氏が別院として使っていたことから「別所」という名前がついたと言われているそうです。ここに北向観音堂があり、長野の善光寺と対比しています。
善光寺には、数回訪れたことがありますが、北向観音には行ったことがなく「片詣り」になっていました。戸隠神社に行った帰りに寄ることもできたのですが、日を改めにました。

今回は、長野新幹線と上田電鉄を利用しています。上田電鉄は、2両編成で単線でした。駅員さんのいる駅は、上田と下之郷と別所温泉の3駅で、他の駅では先頭車両の前のドアしかひらきません。塩田平を走るローカル線です。ここの電車では、戸袋に丸窓がついた丸窓電車が有名ですが、下之郷駅と別所温泉駅に保存されています。

別所温泉駅です。はかまをはいた女性の駅員さんがいました。

保存されている丸窓電車です。

別所温泉駅からは徒歩で北向観音堂を目指します。緩やかに上っていますが、さほどきつくはありません。北向観音堂の近くには駐車場もありますので、車でもよかったかなと思っていました。湯川を渡って参道を歩き階段を上ると北向観音堂です。まず観音堂に参拝をしてから境内を見て歩きました。愛染かつらの木があることでも知られています。ご本尊は、千手観音菩薩、お堂が北を向いていることから北向観音と言われています。正式名称は、北向山 照明院 常楽寺だそうです。観音堂の他に、愛染堂、不動堂、瑠璃澱等が有ります。

北向観音堂です。

愛染かつらの木です。

次に安楽寺、常楽寺に向かいました。安楽寺には国宝の八角三重塔があってこれを見たかったのですが、残念なことに現在改修中で見ることができませんでした。お寺の方が、申し訳なさそうに説明をしていました。続いて常楽寺ですが、ここの本坊はかたぶきの見栄えのあるものでした。裏手には、石仏多宝塔があってこれは重要文化財になっています。塩田平には石造りの文化財が数多く残っているそうです。その他にも、七苦離地蔵堂や将軍塚等もみて回りました。時間の関係で温泉は次の機会に譲りました。

安楽寺本堂です。

常楽寺本坊です。

常楽寺石造多宝塔です。

帰りは下之郷駅で途中下車して、生島足島神社に参拝して帰ってきました。次に行く時は、温泉も楽しめたらと思っています。今度は車ですね。

生島足島神社です。


戸隠神社

2011-09-09 17:24:11 | 旅行

これまで、年に2・3回小さな旅行に行っていましたが、この2年ほど行かれていませんでした。この夏のお盆の時期に休めたのですが、新盆で家にいました。9月に入り、仕事の谷間があって、これまでの休日出勤などの振替を取ることができ、1日、車を運転して戸隠まで行ってきました。

戸隠神社は、一度は行ってみたいと思っていた場所です。自宅の近くからバスツアーも出ていますので、それに申し込めば行かれるのですが、日程があいません。そんなことで、朝、思い立って出かけてきました。今は、カーナビがありますので、運転も楽です。
ただ、いささか長距離になります。我が家は、常磐自動車道、東北自動車道、関越自動車道に乗るには便利な場所です。

戸隠までは、関越から上信越道で向かいました。今回の主目的は奥社でしたので、信濃町ICから県道信濃信州新線を使いました。奥社の駐車場に着いたのが、家を出てから3時間30分かかっていました。結構休憩を取りながらでしたのでこれは致し方ないです。片道270キロぐらいあります、これを1人で運転するのは、休憩を多く取る以外にありません。

参道中間点の随神門です。

さて、奥社ですが、これが駐車場から約2キロ歩くことになります。これが意外ときつかったです。最初の1キロは緩やかな上りです。1キロ地点に随神門があって、奥社参道の杉並木になります。この杉並木は約400年前に植えられたそうです。杉並木が切れるあたりから上りとなり、階段が続きます、この階段も山道の階段を少し幅を広くしたくらいで、上り下りとも膝にきそうな階段でした。奥社は階段を上りきらないと見えてきませんので、どこまで続くのかと思ってしまいます。やっと木立の中に奥社が見えました。最初に九頭龍社があり、その上が奥社になっています。社務所の脇から戸隠山に登る登山道がありますので、最後の部分は山登りに近いかなと思ったりしました。

九頭龍社です。

戸隠神社奥社です。

戸隠神社は、火之御子社、宝光者、中社、奥社、九頭龍社の五社からなっていて、全部を参拝すると4時間以上かかると言われています。九頭龍社を除くと、天の岩戸伝説に関係する神様が祭られています。もともと、戸隠山が天の岩戸が飛来して出来たと言われていますので、ご祭神もそうなったのだろうと思われます。九頭龍社は、奥社が出来る前から、地元の神様ととして祀られていたと言われています。
帰りの運転がなければ五社参拝したいところですが、奥社の往復で疲れて、後は、次の機会にと思い、おそばを食べて帰ってきました。途中、そばの畑があって、そばの花が咲いていたのを見たりしています。

おそばの畑です、カメラマンが写真を写しにきていました。


中尊寺

2011-09-06 23:37:12 | 旅行

何でこんなことしちゃったのかな?車でどこか行きたいなと思って、家を出たのが8時半ごろ、、そのまま東北道に乗って、ただただ北上、中尊寺に行こうと何故か思ってしまったのです。カーナビで目的地をセットしたら、5時間半ぐらいかかる、どうしよう、行きはよいよい帰りは怖い状態になりそうです。渋滞に引っかかることもなく、適当に休憩を入れながら、ただただ走り続けたら平泉です。ICを降りてから案内の通りに走ったら、中尊寺でした。

中尊寺本堂です。

ここは駐車場が2箇所あり、上の駐車場に行ってしまいました。ここからだと、ほとんど歩かないで金堂の横にでます。中尊寺も何回目かな?以前、家内と2人で車で東北を回ったときに寄った場所でもあります。今年は、腰越の満福寺も行ったし、源義経にゆかりのある場所に行っているみたいです。実は、これまで数回来ていますが、金堂に入ったことがありません。今回は、拝観料を払ってみてきました。世界遺産に登録されて、少しは変わったのかなと思っていましたが、境内は昔のままですね。遺産登録で混みあっているかとも思いましたが、さほどでもありません。観光バスでの観光客は多く見受けました。

中尊寺金色堂です。

松尾芭蕉の句碑「五月雨を降り残してや光堂」

旧の覆堂の内部です。

出かけるときに、どこか温泉でも泊まれればと思って、荷物は積んできたのですが、いざ、中尊寺を後にしたら、なんとなくそのまま帰りたくなって帰ってきてしまいました。往復で約900キロよくまあ走れものだと思いました。そういえば、昔は竜飛岬まで走っていったのを思い出します。今度行くときはもう少し計画を立てて行ったほうがよさそうです。秋に十和田まで行くかな?紅葉を撮りたいところがあるのですが、これだけ運転できれば大丈夫なように思えてきました。