私が日本共産党員になったのは大学4年生の時だったと思います。記憶は定かではありません。大問題は、それが家族にばれた時でした。私は身体障害者であることと甘やかされて育った事から名古屋市の大学の近く(薬学部がある瑞穂区)に下宿をしていました。
ある日、実家に帰って民青新聞を布団の下に隠していたのを母親に見つかってしまったのです。私が「こういう日本の将来を考える組織だ」と説明したら母は「それは良いこと . . . 本文を読む
民青という組織は理論を学ぶ組織です。最も最近は、一人ぼっちをなくそうとか言っているようですが。私が「眼からうろこ」というか、のめり込んでしまったのは当時の入門書を書いていた柳田謙十郎(?)の「唯物弁証法入門(たしか、こんな名前の本だったと思いますが)」を読んで、目の前がすーと開けた思いをしたというか、心にストンと落ちたものがあったのです。感激して友達に「お前も読んで見ろ」と勧めたことを覚えています . . . 本文を読む
東海市も耕作を放棄された畑が延々と続く景色と成り果てています。
格好のカブトムシ採集向きのコナラの樹液にノコギリクワガタがいました。
昆虫好きの子どもも、もう入って来れないように草が大人の背丈ぐらいに伸びていました。ミカン畑では小さなミカンがたくさん生っていましたが・・・・。
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自分史の前回の訂正、私に近寄ってきた民青は医学部ではなく薬学部の同級生でした。記憶はかなり曖昧になっているので今後とも訂正はたびたびあると思います。
民青には特に深く考慮もせずに入りました。大学で付き合う英会話部(ESS)「医学部と経済学部と薬学部の全学部の学生がいた」の交流はそれなりに面白かったが民青は、それとは違った今まで私が経験したことのない世界を実感できて夢中になったものです。
今はど . . . 本文を読む
知多自然観察会の東海市メンバーに誘ってもらい夏の蝶の調査にくっついて見てきました。
定例の田んぼや畑が放棄され毎年ひどい状態になっています。ナガサキアゲハがたくさん見つかったのには正直驚きました。
写真はヒメアカネ(赤とんぼの一種)だそうです。まだ赤くないので図鑑とは感じが大分違いますが虫屋さんにはひと目で分かるみたいです。
ちょっと自然観察から離れていたら、もう植物も昆虫も名前が出て . . . 本文を読む
当時の薬学部は才媛がワンサと集まってきました。ところが男女比が1対1だったのは今でも解せないですね。数学、物理大好きの女性が多かったんです。逆に文学少女がそのまま大学生になったような人もいて女性の方が明らかに優勢でしたね。
ところが、そういう女性もほとんどが結婚すると家庭に引きこもりました。現在はそのままババアになっちゃてるから税金の無駄遣いでしたね。
成績が劣っても男だから救われた口に私 . . . 本文を読む
さて高三で夏休みを迎えた頃に進学希望を文系から理系(薬学部)に変更した私は数学Ⅲ(微分積分等)を捨てざるを得ませんでした。ホンのチョビットだけ教わってはいましたが入試対応は無理と判断したわけです。
その当時は確か英・数・理科(生物・化学・物理のうち二科)・社会・後何だったっけ?確か五科目あったような気がするのだが・・・・?
薬学部に行くんだから化学は得意にしなければ拙いだろうと思い化学は必死 . . . 本文を読む
私の歩いて通える範囲に高校は二つありました。西尾高校と西尾実業高校です。私は1945年生まれのクラスに編入され最も人口の少ない年度に属することとなりました。
進学するのは当然と思っていました。しかし当時は中学卒業後有名大企業に就職することは今と違って英雄的存在でした。高校へ入るより難しかったと記憶しています。中学の同級生で最大の英雄は三菱重工業の研修生用専門学校に入った男子です。私より優秀な男 . . . 本文を読む
名古屋港水族館が子どもを集めて「子ガメの放流会」をやっていて新聞紙上に取り上げられています。
水族館の館長は昔のウミガメ博士であり、今の事実をご存じないという以外ないですね。・
「日本ウミガメ協議会」からの転写です。
日本ウミガメ協議会 umigame.org
保護
●保護という言葉は…。
ウミガメの保護というのは具体性のない言葉です。何が彼らの保護につながるのか良く分からないから . . . 本文を読む
先回は小学校までを書きました。
今日は中学入学からを書きたいと思います。小学校を卒業した時に二回目の手術を受けました。今度は全身麻酔でした。
多分、笑気(亜酸化窒素??だったかな)麻酔だと思います。「数を数えて」と言われ・・・1,2,3・・・幾つまで数えたか記憶が定かではありません。5までいかなかったと思います。
気がついた時はベッドの上で下半身コルセットを巻かれていました。とにかく . . . 本文を読む