くすり屋さんの独り言in北京

ヤクザ・イシ(石原 洋一)のブログです。環境・自然に興味あり。最近、中国の環境問題にシフトしました。

南医療生協の昔の同窓会

2009年08月16日 07時22分51秒 | Weblog
私(石原洋一)の南医生協に寄せる思い
      河合さんからの呼びかけに応じて  2009.8.10  石原 洋一
私の現状
 私は現在64歳と8ヶ月になります。定年前の58歳で南医生協を退職しました。理由は「環境問題」に専念したかったからです。生協病院から冨木島診療所に赴任する少し前頃から何故か「自然観察」に目覚めてしまいました。当時、冨木島診療所の近くの船島小学校に自然観察の大家S先生がみえて強引に弟子入りをした覚えがあります。その後、知多自然観察会とご縁があり日本自然保護協会の自然観察指導員になりました。現在は、「日本の環境は中国次第」という結論に達し「中国の環境問題(まず入門は公害問題)」に介入うと努力中です。しかし金が続かず今は生協病院前の調剤薬局「わかば薬局」でパートをしています。もうひとつ最近私は2010年名古屋で開催されるCOP10(第10回生物多様性条約締結国会議)に意見するNGO(生物多様性市民ネットワークの中部版:CBD市民ネット中部流域作業部会「仮称」)の事務局長になりました。広く国や地方の行政や自然系以外の社会系のNPOとも付き合いがはじまりました。来年までの期間限定の活動ですが毎日多忙な日々を送っています。
私の南での34年間のまとめ
 思えば学生の頃に共産党に入党し他の世界を一度も見ることなく人生の全てを共産党とともに歩いてきた時代でした。親・親族の大反対を押し切り相続放棄の宣言をして「みなみ診療所」に1968年就職しました。保険請求もソロバンと手書きで行なう時代で私も小児科の簡単なレセを書いた記憶があります。正月には行くところも無く当時の福田専務の家に転がり込み正月料理や酒をご馳走になって無事町全体が休みになってしまう危機を何度も乗り切りました。福田専務の話は夢を語る希望に満ちたものでした。若死にされましたので今でも大変残念な思いを強く持っています。
さて、話は変りますが私は2000年に「なごや環境塾(なごや環境大学の人材育成中心講座)」の第一期生になりました。そこで約半年間 企業人、町内会のボス、主婦、NPO、行政マンという今まで私が交わらなかった人たちといろいろ経過はありましたが深い交際がはじまり世界の見方が変りました。彼らとの交流は今も続いています。立場や価値観、意見の違う人たちと「名古屋の環境を良くする」という一点で協働する上では他人の意見をよく聞くこと、自分の意見も分かりやすく発表する事そして一致点を見つけてともに活動をすること、付き合いは対等でフラットなものであり互いに認め合う関係を学習したのです。第二の人生の出発がここから始まったと今考えると思われます。

南の新病院への移転問題について
 さて最近私が見聞きするところ南生協病院が差額ベッド代を取る方針について全国民医連や愛知県連が反対の意見を鮮明にし、そして南のOBが総代会に「反対のビラ」を撒くという事態に至りました。そこで私の意見を申し述べたいと思います。
 私がみなみ診療所に就職した1968(S43)年当時、診療所の飲み会での唱和は確か・・「流れ、とうとう水豊かに・」・・という「千里馬?」か何かの「北朝鮮」の歌だったと記憶しています。国民皆保険が出来て間もない時期だと思います。その当時からすると時代はガラリと変わりました。
 現在はアメリカの金融バブルが破綻をし、あのGMが潰れるという信じられない状況にあります。小泉・竹中の規制緩和劇場は誰の目にも失敗に写る様になりました。しかし世界のグローバル化は誰にも止められない事態になっています。アメリカが仕掛けたグローバル化ですが借金漬けのアメリカ国民の生活が破綻をし始めました。アメリカ社会へ多くのものを輸出して生活している日本にとってもアメリカの金融破たんは大問題です。
規制緩和路線は社会のグローバル化に比例し今後も強まると思います。しかし人口の高齢化、少子化はこれからが本格的になります。医療や介護に関わる費用は膨大化せざるを得ず誰が仕事を担い誰がその負担をするのかが大問題です。否が応でも海外に人を頼まざるを得ないのは明らかです。
 私が南を退職し広く環境問題で活動を広げる中で一般市民(環境に関わる人が中心)の間に南医生協の評価が高いというのを知りました。市民参加の総合病院建設は一般市民には強烈に新鮮に映っています。NPOでも利益は追求します。利益が無ければ組織の存続が出来ないので当然なのです。多勢の職員の生活を保障し高い医療器械を手に入れ管理し続けるのには金が要るんです。「狭く高い理想のみ」を掲げるのは「蛸壺的視野」だと私は思います。今、世間は大きな曲がり角に居ます。多勢の市民感覚は多少の金は掛かっても自分も参加できる医療体制を望んでいるのです。
 南医生協は真正直に「差額」を導入すると宣言したものだから大騒ぎになっているだけで民医連の外では全く問題になっていません。
  私の南医生協職員としての歴史を振り返れば60歳を越えてやっと大人になったのかな?と自分ながら感じます。行政の人間とも交流が出来るようになりました。名古屋市の役人にも多種多様な個人が存在することが理解できたのも最近のことです。それまでは自分の意見はあまり持てず他人の意見に左右されるというのが基本的スタンスでした。
 南の新病院建設は「差額がどうの」という事は全く問題になっていません。多くの組合員が集まって知恵を出し手作りで設計を決めていくという過程が驚きをもって評価されています。多数の世論はNGO・NPOが利益を出すのは当然だと考えていますし、個室希望は当然のニーズと考えられています。病気の重傷度と個人の単なる希望とのバランスについては組合員と一緒に基準を作っていけばよいのです。貧富の格差が今後ますます拡大する事でしょう。「差額料」を一部個室に設定するのと経済的弱者に持てる力を最大限に使いより良い医療を提供することは両立します。対象を狭く考えず経済的に富める者も貧しい者も精神や肉体をボロボロにして働いているのが現代です。ターゲット対象は思い切りウイングを広げ医療生協運動が幅広い市民の活動と連携しながら社会変革の一翼を担う事が大切だと私は思います。

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1 コメント

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読みました (加藤 秀幸)
2015-04-22 12:40:54
南生協病院で検索していたら、石原さんのブログを拝見しました。
私は、小児科医の加藤幸子の夫です。幸子は、1976年から働いています。ご存じかと思いますが、幸子は、63歳と8ヶ月の若さで昨年12月6日に大動脈解離を発症して突然に逝ってしまいました。
この2月に同僚だという小児科医師が家に来て、「幸子先生の死亡は過労が原因だと思う」と言われました。私は、「確かに幸子はジッとしていることがなく、動き続けていた。でも、それは彼女の特性であって、亡くなった日でも、勤務日でないのに朝は入院している子どもを看てから神戸町瀬古の実家に来て、その日は雨降りだったから外仕事が出来ないので実家の土間の台所周辺を掃除していた。また、婆ちゃんを大垣駅まで送り迎いしていました。そして、夕食の水炊きを作って、婆ちゃんと私と幸子の3人で食べている最中に『背中が痛い』と言って10分から15分で亡くなっりました。そんな子だから、働くことと動くことはずっとそうでしたが、職場の過労死とは違います」と言いました。その時に「新しい病院になってから、差額ベット代を取るようになった」と聞きました。それに対しては、私は、「南区から緑区に移ったことで住民要求(生活水準)も違ってきているから、組合員が納得してそういうことをすることはあり得るのでないか」と言いました。
 さて、亡くなった幸子のことが残念で仕方なく、幸子のことを私たちと皆さんに残すために「追悼文集」を一周忌に向けて作る準備をしています。出来ましたら、石原さんにも寄稿をお願いできないでしょうか。
必要な資料を送るので、私のメ-ルに住所などを送って下さい。メ-ルは、ka10-h@docomo.ne.jp 携帯電話は、090-2615-9578 です。
元事務職員の平田秋子さんに頼んで連絡を取っていただくかもしれません。
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