TOKI : LOG

LOGGYと竹坊の物見遊山

東中野界隈街歩き

2015-12-09 | 建築散歩
先日、ブロ友さんと東中野界隈の街歩き
イベントに参加したLOGGY。


まず最初に訪れたのは「氷川神社」。


1030年創建の旧中野村の総鎮守社。
中野区最大の由緒あるお祭りでは
20町会が神輿を担ぎ街を練り歩くという。


7~800年前の作と言われる狛犬から
最近のものまで狛犬がいっぱいいた。






他にも雲外鏡(タヌキ)や太平洋戦争時の機雷も発見。
(軍人が多く住んでいたから残っているそうだ)


続いて旧・氷川町の住宅地を歩く。
この辺りは1928年、箱根土地会社により開発
された約1万坪の分譲地だった。
戦災を免れ、質の高い邸宅が残されている。


氷川建築協定は環境保全の協定。看板は多いが
現在は生きていないとのこと。
この後、大正時代に建てられたスクラッチタイル貼りの
邸宅や建築家遠藤新設計の邸宅などを見るが
個人宅につき写真UPは自粛。

次に訪れたのは「スイル窯」。

フランス瓦葺き寄席棟屋根の平屋洋館住宅。
現在は陶芸家のアトリエとして使用されているそうだ。

続いては「桐ヶ谷踏切跡」。

かつて東中野にあった「開かずの踏切」。
沿線人口急増で電車本数も増加、1935年に
ガード下トンネルが出来て解消されたという。

トンネルを渡ると見えてきたのが「日本閣」。


1914年、鈴木磯五郎が釣り堀を始める。
1925年、割烹料理「寿々木家」創業。
1935年、都内初の結婚式場開設するも空襲で全焼。
1951年、新築し営業再開。
2004年、再開発により閉鎖。
2005年、west53rd 日本閣として再開。

さて、ここからその昔幽霊がでたという
「幽霊坂」の急な坂道を登ると高台に到着。


明治末頃、この辺りには「華州園」という花園が
あったそうで、花の苗を生産していた。
大正時代、華州園は移転し跡地は屋敷地として
分譲されたが、空襲で消失。中村邸の土蔵と
九鬼邸だけが戦火を免れた。

写真左:電柱に華州の文字
写真中:華州園
写真右:今も残る土蔵

一行は坂を下り、「瀧山稲荷大明神」へ。


かつてこの地には泉が湧き、池があったという。
今は住宅に囲まれて当時の様子が想像できないので
地元の長老の方からその頃のお話を拝聴した。

最後に見学したのは広瀬鎌二氏設計、1962年竣工の
「SH=60」というスチールハウスの建物。
(手前の赤屋根の建物は宮脇壇氏による増築)


施主は大塚清六というイラストレーターで、
汚い東京の景色など見たくないと窓の必要を
認めなかったそうだ。

・・・以上で今回のイベントは終了。
主催された中野たてもの応援団の方々には
ひたすら感謝のLOGGYである。

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