哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

映画、小説、芸術、その他いろいろ

『仮面ライダー555 パラダイス・ロスト』

2009-06-21 | 映画
仮面ライダー555 パラダイス・ロスト ディレクターズカット版 [DVD]

東映ビデオ

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 たまにはこんな変な映画も観る。いや、いつも変な映画ばかり観ているか。

 平成ライダーで見ていたのは、『クウガ』と『アギト』と『555』と今やっている『ディケイド』である。と、すでにカンのいい人はすでにピンと来ているかもしれないが、『ディケイド』で過去の平成ライダーが総登場しているのを見て懐かしく思い、『555』の劇場版を借りて観てみたという次第である。

 話の舞台はテレビ版『555』の舞台のif的世界。オルフェノクが世界を支配し、少数の生き残りしか人類がいなくなってしまった時代。希望は、かつてオルフェノクとの戦いで行方不明になった仮面ライダー555(ファイズ)こと乾巧である。2本の帝王のベルトと呼ばれる、絶対的な力をもった変身ベルトとオルフェノクの猛攻の前にカイザも倒れ、絶体絶命を迎えたレジスタンスと真理の前に、記憶を失くした巧が現れ、やがて記憶を取り戻していく。しかし一方、人間とオルフェノクの共存を探っていた勇治は仲間を失いオルフェノクを統べるスマートブレイン社に騙され、人間に絶望し、帝王のベルトの一本を取る。真理をさらわれた巧は、一人スマートブレイン社に乗り込み、二本の帝王のベルトのライダーと闘う。

 テレビ版の『555』は結構好きだったが、正直なところこの映画版『555』は映画としてかなりダメダメだった。ひょっとして、テレビ版よりもクオリティが低いくらい。演技は微妙だし、尺が短いせいか脚本も無理な感じがあるし、1万人と言われる悪役量産ライダーの必要がよくわからないし(何せ奴らはもともとオルフェノクで戦闘力はライダー並み。オルフェノク形態だとバイク乗れないからか?)、ラストの1万人のエキストラも不自然。褒められるのは、特撮の出来が割と良く迫力があることと、雰囲気ややりたいことはよく伝わってくるところか。考えようによっては、かなり惜しい映画に見えないこともない。ライダーバトルはかなり熱いし。

 ま、観る人は観るだろうし、観ない人は一生観ない映画だろうから特に勧めも何もしないけれど、観るときには学芸会を観るような温かい気持ちが必要かも。

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『ダーティ・ハリー』

2009-06-21 | 映画
ダーティハリー 特別版 [DVD]

ワーナー・ホーム・ビデオ

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 だいぶ更新が空いてしまった。忙しかったのだ。映画は定期的に見てはいるのだけど。

 最近のクリント・イーストウッド・ブームでもう一作観た。彼の名を広めたダーティ・ハリーである。44マグナムを振り回す鬼刑事のその後のサブカルチャーにおける影響力がまず特筆すべきものだろう。実際に、DVDに収められていたインタビューにも、『ダーティ・ハリー』が後のアクション映画に与えた影響について、というよりもアクション映画としてのスタンダードになったことについて述べられていた。それくらいのシリーズなのである。

 物語は単純で、サンフランシスコを舞台に、ゾディアックという有名な実在の連続殺人事件であり犯人の自称であるものをモチーフにした、スコルピオという異常者と正義に燃えるダーティ・ハリーことキャラハンという鬼警部の死闘が描かれるというものである。面白いのは二点、当時のアメリカの犯罪に対する世論の状況と、それから生まれてきたキャラハンという刑事の人物造形である。どういうことかというと、DVDに収められたインタビューによれば、70年頃のアメリカの世論や犯罪の捜査や裁判においては、容疑者の権利が守られ過ぎていて、本来裁かれるべき悪が裁かれていなかったということである。この映画に登場する、スコルピオという犯罪者にしても、一度キャラハン警部が逮捕するのだが、死期の迫った人質の所在を犯人に自白させるために拷問まがいのことをしたために、犯行は明白であるにも関わらずスコルピオは何のお咎めもなく釈放され、マスコミに警察の捜査について批判し、世論の同情を得ているというものすごいことになっている。今の日本なら、世論が死刑を求めるような犯行であるにも関わらずである(死刑の可否については、今ホットだし保留しておくが)。
 そして、その現況に対するアンチテーゼとして造形されたのが、44マグナムを振り回し、犯人につきつけてロシアン・ルーレットまがいの脅しをかける、犯罪に対する怒りと暴力の化身キャラハン警部である。上記の状況の中で、犯罪に対する正義感から、かえって汚れ役ばかりを引き受けてしまう「ダーティ」ハリーである。この人物造形について、われわれはそのコピーを浴びるほどに見ているが(それほど影響力が強かった)、それにしても強烈で、正直なところ僕はシビれてしまった。というのも、かく暴力の化身であるようなキャラハン警部だが、スコルピオに袋叩きにされながら、しかし犯人を追い詰めていくほどにタフである。この袋叩き状況については、たいていクリント・イーストウッドは映画の中で毎回袋叩きな目に合っている。例えば、『許されざる者』しかりである。そういう風に、世の悪を暴力で追い詰めていくだけではなく、悪の暴力に耐える力や姿というのは、現実の不条理や理不尽を耐える力につながっており、まあ、アメリカン・保守主義なんだろうなあと、感心してしまうのである。なんというか、70年くらいの都市化したサンフランシスコを舞台にした映画だけど、保安官だのガンマンだのの世界のフロンティア精神をむんむんと感じてしまうのだなあ。そんなところで、良くも悪くもやられてしまう人は多いと思う。好き嫌いも多そうだし。まあ結局、タフガイが悪をパンチや銃撃で吹っ飛ばして終わり、という映画には違いないし。あれ、あんまり安易にお勧めできない映画だぞ。アクション映画の歴史を知りたいという人なら…。

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