拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 瞬断の景色〜 たとえば 『親切』

2021年02月10日 | 観自在

  私はじつは『臨済禅』の激しいところが好きだ。

  『喝!』と誰が来ても一喝の臨済禅師、『言ううるも三十棒、言わざるも三十棒…』の徳山禅師とか、いきなり引っ叩いたり

  鼻を捻ったり・・・一指を竪て見せたり、仏性にそぐわないと観るや、瞬断するところに老婆親切を見るのである。

   公案禅を否定する道元禅師だって、只管打坐…と『坐断』して親切この上ないではないか。

  昨日もYoutubeを見ていと、かなりの外人女性が流暢な日本語で『いかに日本が素晴らしいか…』をとくとくと語り明かしてした。

  中の一人が、『日本人は大変親切であるが、その奥にある文化をしりたい…』と宣っているのを聞いて刺激された。

  そもそも『親切』…という漢字言葉、親切にしては実は、『親を切るか、親が切るか…』という物凄い激しい表現なのだ。

  ここに『仏性』という性根が決まっていなければ『瞬断』なんか出来るはずもない・・・と考えた時

  『親切』の『親』とは『師』であることがわかる。

  であるから、禅問答を前にして、違えば『師が弟子を切り、師がカマをかけてくれば、弟子が師を切る』…という景色なのだ。

  禅修行とは、この仏性の覚醒を大前提とした、師弟の信頼の上に成り立っている関係であると思う。

  であるから、一切の遠慮もなく、『瞬断する』し、『瞬断される』ことが可能になる。

  その仏道の頂点に『禅宗の寺』が存在している、寺はその伝統の『灯』をしっかり守ってほしい。

         

              いつもは穏やかなレマン湖、昨日は珍しく波浪をみせていた…