拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  『 侘び寂び 』 考 …

2021年02月27日 | 観自在

  日本人で、日本伝統文化に何だかの形で携わっている人であれば、例のいぶし銀的言葉、『侘び寂び…』について

  自分なりに腑に落ちる見解を持ちたいと願望しているのではないだろうか。

  色々な人が色々な立場で説明しているのを時々見聞するが、もう一つよく解らない・・・というのが本音であろう。

  結局は、自分で実感として体得しなければ、この言葉の真意は理解できないのだと思う。

  『 廬山は煙雨 浙江(せっこう)は潮、到らざれば先般の恨み消ぜず。

       到り得 帰り来たれば別事なし、廬山は煙雨 浙江は潮 』 (中国宋代の禅詩人、蘇東坡(そとうば)の詩)

  この詩に初めて出逢ったのは、鈴木大拙著『禅による生活』であった。彼によると、この詩は悟りの境涯を詠っているという。

  長いこと意味不明であったが、自分なりにこの詩を理解ができるようになった時、『侘び寂び』の風景も観えてきた気がする。

 

  禅修行を始めるにあたって、最初に覚悟を強いられるのが『煩悩無尽誓願断』・・・であることは、誰でも想像できると思う。

  私も一時期、このままの流れではプロの禅僧にされてしまう・・・という、自分の運命に恐怖を覚えた事があったが 

  それほどに、『煩悩を断ち切る…』という命題は、私のような俗人をして恐怖におとしめるものであった。

  幸い? 私は在家の禅者としての道を選択したが、多少にせよ『煩悩を断ち切る』という気概をもって禅道場へ行った時の

  私の心象風景は、見事なまでに『侘びしく、寂しい…』ものを引きずっていた事を思い出す。

  しかし、現実に修行が始まると、そういった心象風景はどこかにぶっ飛んでいた。

  修行中そんなことを感傷してる暇は一瞬たりとも与えない、どころか漬物のタクワンの食べ方まで怒鳴られ注意を受ける…

  修行も少しは深まった数年、娑婆で体験した苦楽の十数年後にはかつての『侘び、寂び』の風景が懐かしいぐらいな気持ちで

  昔を振り返ると、初心の自分を愛おしむ気持ちが湧いたりして、物事の見方が違っている事に気がつく。

  たぶん昔は金ピカなひと目を引くものに惹かれただろうが、今は本当に使い込んだ、手によく馴染む物がよくなる・・・。

  千利休の時代『侘び寂び』をリードしたのは豪商の旦那衆であったろうと思うが、彼等もまた修行をして

  私と同じ風景をみていたのではないだろうか・・・同じ『侘び寂び』の往復の風景を。

     

           これは昨日、一撮した『侘び寂び』の風景・・・(のつもり)図