拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  人 "間" 工学 〜 『 合掌 』

2021年02月04日 | 観自在

  釈尊の『悟り』は、人間の進化の『究極の姿』…であった、と馬骨は信じている。

  その姿は座ったときには『坐禅』となり、立ったときには『合掌』となって2500年の歳月と

  インドから日本までの距離を経て伝えられ、今に至っている。

  仏教とは、私達人間が『悟り』に到るための教えであって、仏教徒であるために『悟る」わけではない。

  であるから、仏教があみ出した『禅』仏教=『人”間”工学』によって、いかなる人間も『悟り』を得ることは本来的なことである。

  以上を前提として、あらためて『人”間”工学』的に『合掌』を考えるとき、そのあまりの重要さに

  これまで仏教徒として慣習的に漫然と『合掌』していた自分に呆れると同時に、

  誰も『合掌』の真義について語っていない(書物にも見たことがない)…ことが不思議でならない。

  『悟り』は『身心一如』なくしてありえない。

  その身体と心を結ぶのが『息』と解したとき、『合掌』は調身・調息・調心を一重に体現した姿であり、

  その『合掌』を天上から観る我が眼こそ『不二』を観ている観世音菩薩の眼にほかならない・・・と、いつの日か気づく。

      

        『合掌』こそは、随所に主となる自己実現であり、『仏道無上誓願成』なのだ。