拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 尊厳…What else ?

2021年02月08日 | 観自在

   私自身の辞書に『尊敬』という言葉の存在に初めて気づいたのは、1982年公開、リチャード・アッテンボロー監督の

  『ガンジー』という伝記映画を見た時であった。ガンジーという名前は『インドの偉人』…それ以上には何も知らなかったのが、

  この映画を見ることで、一個人の魂の働きが、社会を動かす…つまり政治という形で社会を変えてゆく様を物語風に観せられて

  物凄く感動したことを覚えている。

  当時私は30歳で、鍼灸学校の学生であり、禅の修行に初心者として週末に円覚寺の居士林へ通い始めた時期であった。

  この『ガンジー』の存在と私が少しずつハマってゆく『禅』とが、同じ『尊厳への道』に向かっている…ということすら気が付かず

  一方で、ガンジー関係の書物を読み漁り、一方でひたすら『数息観』に向かって坐禅をしていた時期であった。

  だから当時、もし誰かに『尊敬する人は誰か?』と聞かれたら、『ガンジー』と答えるつもりでいた。(結局誰にも聞かれなかったが…)

  しかし、私の単純な『禅の修行』に何らかの色どりを与えてくれたのが、鈴木大拙の『Living by Zen』を始めとする大拙の著書で

  読んでもチンプンカンプンだが、強く惹かれるものがあって、同じ本を繰り返し繰り返し読む内に、解読度が毎回深まるようであった。

  そしていつの日か『ガンジー』に次いで、私が尊敬してやまない人に『鈴木大拙』がいた。

  鈴木大拙は東洋…ことに、日本人を一生懸命鼓舞している。『禅』がいまだに生活の中に、日本人の心の中に息づいている…ことを鼓舞している。

  たまたま私は30年前にスイスに移住したが、ちょうどその頃から日本の政治経済は徐々に衰退に向かってゆき、今はほぼ底の底に至っているような

  状況の中、一人山本太郎という人は私に『ガンジー』を彷彿とさせる希望の星にしか見えない。

  木村英子議員のような人の目から遠ざけられた生い立ちに負けないで頑張っている人達と山本太郎という稀代の『大馬鹿者』との

  めぐり合わせ…には感慨深いものがある。

 

         

            現実に眼に観える『悟り』を見たい人は、今ここに見ることができる。