私はじつは『臨済禅』の激しいところが好きだ。
『喝!』と誰が来ても一喝の臨済禅師、『言ううるも三十棒、言わざるも三十棒…』の徳山禅師とか、いきなり引っ叩いたり
鼻を捻ったり・・・一指を竪て見せたり、仏性にそぐわないと観るや、瞬断するところに老婆親切を見るのである。
公案禅を否定する道元禅師だって、只管打坐…と『坐断』して親切この上ないではないか。
昨日もYoutubeを見ていと、かなりの外人女性が流暢な日本語で『いかに日本が素晴らしいか…』をとくとくと語り明かしてした。
中の一人が、『日本人は大変親切であるが、その奥にある文化をしりたい…』と宣っているのを聞いて刺激された。
そもそも『親切』…という漢字言葉、親切にしては実は、『親を切るか、親が切るか…』という物凄い激しい表現なのだ。
ここに『仏性』という性根が決まっていなければ『瞬断』なんか出来るはずもない・・・と考えた時
『親切』の『親』とは『師』であることがわかる。
であるから、禅問答を前にして、違えば『師が弟子を切り、師がカマをかけてくれば、弟子が師を切る』…という景色なのだ。
禅修行とは、この仏性の覚醒を大前提とした、師弟の信頼の上に成り立っている関係であると思う。
であるから、一切の遠慮もなく、『瞬断する』し、『瞬断される』ことが可能になる。
その仏道の頂点に『禅宗の寺』が存在している、寺はその伝統の『灯』をしっかり守ってほしい。
いつもは穏やかなレマン湖、昨日は珍しく波浪をみせていた…
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