拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
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  『道』という名のディープラーニング〜 "気配" 編

2024年06月24日 | 東洋自分なり研究所

  世に『歩きスマホ』という言葉があるとは知らなかったが、この風潮の弊害について考察していると

  東洋が生み出した『道』の根源的な思想に行き着いたような気がした。

 

  そこで愚脳が弾き出した単語が『気配』であり『気配り』・・・であったが、

  これこそは、ここ西欧に来た当初から(我が東洋と比較して)最も欠如している文化のような気がしていた事柄でもあったのだ。

 

  『道』という文化・思想を持たない、未だにその恩恵にあやかっていない国や人々(日本人も含めて)は、

  『歩きスマホ』の風潮で、ますます『道』から遠ざかっている事にまったく気が付いていず、『一切皆苦』の実現に邁進しているようだ。

 

  そこには『道』の根本原理である『自他不二』の『他』(者)への気配・気配りが完全に欠如しているからに他ない。

  『オギャー!!』と、赤ん坊として生まれて即、教育しなければ、いけない『当たり前』の事が悲しいかな案外なおざりにしている親がほとんどなのだ。

 

  私の場合、母の産後の肥立ちが悪く、私は出産後七ヶ所の家をたらい回し・・・された事情があって、生まれて即、自己を取り巻く『気配』を

  察知せざるをえない星のもとに生まれた・・・。しかも養母が盲目ということもあって『気配、気配り』に関しては、これ以上望めない

  最高レベルの教育を受けてきた自分の生い立ちに今更ながらに驚く。

 

  禅では『いま・ここ』を身を以て徹底して教えるが、それは『自他不二』を標榜しての教えであり、

  『歩きスマホ』の『他』をかえりみない利己主義の『いま・ここ』の我儘とは一線を画する事を知るべきだ。

 

  『道』は禅に限らず『茶道』にしても『武道』にしても自己の周囲に対する『気配』の察知と状況に応じた『気配り』ができて

  初めて『随所に主となる』・・・臨済禅師が言った禅語『 随処作主』を実感できるのだと思う。

 

            

            今朝、撮りたての風景・・・左にモンブラン、右に月。 写真はまさに『気配』芸術ともいえる・・・。

  



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