拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 『老い』が見せる『親切』

2020年12月18日 | 観自在

私は現在68歳、妻65歳…いつの間にか初老になってしまった。

私の両親はだいぶ以前に他界し、彼等が老いるとき、そばにいることが出来ず『老い』を見ることができなかった。

しかし、いま私の妻の両親の『老い』をつぶさに見せてもらっている。義父89歳、義母90歳…

彼等の80代前半の頃までの精力的な活動には、私ら夫婦は目を見張ったものだ。それが、義母が83歳ぐらいの時

歩くのが不自由になったあたりから、二人の『老い』に勢いがついたように思う。

そうなると、『老い』という現象は『情け容赦無い』すざましい時期を『人間』に与え始める・・・。

昨年、一昨年と相方の二人の伯母がそれぞれ92歳、93歳で老人ホームで亡くなったが、彼等が老人ホームに入居する時

伯母の一人は持ち家から、もう一方は長年住んだアパートからの移動で、その半強制的『断捨離』の現実に、

ホームを訪ねた私達は内心驚いた。あれ程の、想い出の品々に取り囲まれた家から小さな一室への引っ越しは

年齢による諦めは当然あったであろうが、後ろ髪を引かれる思いであったに違いない。

私が30歳の時、禅の修行を始めたわけであるが、坐禅をしていない時よく唱えさせられていた短いお経、四弘誓願があって

これは菩薩の誓願というもので『衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願学、仏道無上誓願成』・・・二番目の『煩悩無尽誓願断』

が今流行の『断捨離』の心得にあたる。

当時の私にはその教えの深刻さがどれほどのものかであるかは想像もできなかったのであるが、修行から離れて30年以上たっても

この『四弘誓願』のお経は絶えず耳に聞こえている…それが宗教のご利益、というものであろうか。

相方の両親の『老う様子』をつぶさに観ていると、『親切』という言葉の真意が観えてくる気がした。

『親』は身を切って『子』に教え、子はそれに感謝をもって介護する・・・それが『親切』なのだと。

        

              仏教は『老いる』ことの覚悟を慈悲と智慧とで『侘び寂び』の楽しみに昇華する