拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

 『場』がない西洋

2020年12月23日 | 観自在

  

  ヨーロッパのど真ん中、スイスに住んで来年で30年になる。
  そうなると、色々故郷の日本を恋しくなる。 温泉やら和食やら・・・
 
  しかし、そういったモノとは別に、西洋における日常生活の中で、何かが欠けているような気がずーっとしていた・・・。
  私は長いことこの『問』を忙しさを理由に放置していたが、最近になって真剣に考えるに
  日本にはあって、西洋には無い『場』の存在の欠如に気がつく。
 
  西洋には日常生活の中で、各自が自己に還る『場』が無く、そこに至る『門』も、そこから歩みを深める『道』という
  ような『場』が文化のレベルで無いのだ。
 
  日本であれば、いたる所に聖と俗の結界を表す、神道の鳥居や寺の山門があり
  街角には小さなお稲荷さん、道路わきにお地蔵さん、家屋にも神棚や仏壇、床の間など
  が日常生活にすっかり馴染む形で『場』として存在している。
 
  それらは、じつは真実の自己を映す鏡として存在し、自己を見つめ直し、自己を空じる『場』として存在するが
  そう認識している日本人は少ないものの、文化の中にそれがしっかり『存在』し、悟りに至る『門』として
  何時でも誰でも至る事ができる『場』として『道』として在ることは尊い。
 
    何事の おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる・・・ 西行
 
  この句は西行が、伊勢神宮をお参りした時に、詠まれた句であるが、この頃すでに『場』が機能していたことがわかる。
 
 
 それらの『場』は権威を主張するではなく、ただそこに在って空気を浄化している。
 
 日本にいたときは、その『場』の働きの重要さに気がつかなかったが、今になって思うと
 日常生活の中に『和み』を生み出し、それが自己を省みるという機微につながる役を果たしていることがわかる。
 
 その装置としての『場』が、西洋には無い・・・。
 
 最近はそれに気づいて、『場』を取り込もうとする西洋の人々も西洋各地で観られるのも事実だ。
            
               とりあえず 手を合わせては 『場』をつくる 身心一如に 在るは息のみ :一撮